4話
「おい!」
俺は慌てて彼女の腕を引くが、彼女は動じた様子もなく、警察官を見上げている。
俺の知っているのと変わらぬ格好のその警察官は、訝しそうに唇をゆがめながら、電子手帳のようなものを手にとって、広げた。
中には定期くらいの大きさの画面と、数字や文字を打ち込むキーが並んでいる。
「なんだい? 君達は」
「あ、この格好ですか?」
俺は慌てて言い訳をひねり出そうと、愛想笑いした。しかし、意外にも警察官が引っかかっているのは服装ではなく……。
「個人情報を簡単に取得できないことくらい、君達の年ならわかっているだろう」
と零した。
「へ? だって、俺達、病衣っすよ?」
「それがどうした。警官をからかいに来たのなら逮捕するぞ。君達くらいの格好なら、珍しくもなんともないだろう」
「どういうことですか?」
彼女が興味津々の面持ちで尋ねる。警察官は、自分がからかわれているんじゃないか、こんなガキどもに国家権力が舐められてなるものかという緊張を隠しもせずに渋面をすると、下唇を少し突き出して答えた。
「若者の流行なんか、年単位どころか月単位で変わるじゃないか。俺がお前らの頃だって、着ぐるみを着てウロウロする奴くらいはいた。いまさら、パジャマでウロウロされようが、水着で歩かれようが、公然わいせつ罪に抵触せん限りはいちいちこっちも構ってられんよ」
水着はいいのか。俺はそんな事をぼんやり思いながら、ヒトへの警戒の強さと無関心さに閉口した。
さっきのフェンスが聳え、時間と入場を制限した公園を思い出す。
たぶん、あれは子どもの安全のためのシステムだ。不審者が入ってこないように、子どもが安全に遊べるように、施されたものなんだろう。
そして、ここでもそうだ。人を尋ねても、簡単には教えない。相手がどんな人物かわからないから。信用できないから。
そのくせ、どんな格好をしていようと、迷惑でない限り興味もむかないのだ。
自分に危害を加えられる可能性を徹底的に排除し、人には興味のない、そんな世界……。
俺は気分が悪くなって俯いた。
警察官はそんな俺を鼻で笑い「歩いてきた奴がいまさら具合悪そうにしても、病人には見えんよ」と傍にあった椅子にどっかと座った。
「で? 君たち、IDは? その人物をどうして探してるの?」
「それは……」
興味ではない、まるで職務質問のように投げつけられた言葉に、俺は動揺して彼女を見る。彼女も深く考えての行動ではなかったらしい「こまったね」と言ったような顔で、肩をすくめている。
気まずい沈黙。どうしよう。未来まで来て逮捕とか、マジ、勘弁だ。
そう、思った時だった。
「な~んてな」
いきなり明るい声。顔を上げると、あの警察官が人の悪い笑みを浮かべて、あの手帳を開いたり閉じたりしていた。
「どうせ、お前達もミーハーの一人なんだろ? 最近、よくくるんだよね~、お前達のような奴がさ」
「は?」
「いわいる、にわかファンって奴?」
「へ?」
俺たちは意味がわからず顔を見合わせる。しかし、警察官は笑いをこらえながら机にあの手帳を置き、立ち上がると自分のポケットからケータイを取り出した。
これも、あんまり俺の知っているそれと形は変わらない。幾分薄いくらいだ。きっと、機能は段違いだろうけど。
「サワダって。100と200のサワダだろ?」
「え?」
100と200。その数字に俺は顔を跳ね上げ、警察官を見つめる。警察官はますます俺をファンとやらに勘違いしたらしく、にやりと顔をゆがめた。実際は違う。その数字は俺がずっと走り続け、そして諦めた数字だからだ。
携帯が開かれる。街受けから立体的な映像が浮かび上がり、それが動き出す。
その未来の技術に驚く暇もなく、一人の男の映像が浮かび上がった。
精悍な顔立ちの男だ。眼光は鋭く、手足についた筋肉は彫刻のように美しく、ゆっくりスターティングブロックの前にやってくるその姿は、まるで大きな一匹の獣のような気迫と気高さに満ちている。
その獣は、まるで自分の居場所を確認するかのように、何度かブロックにおく足の感触を確かめると、クラウチングスタートの構えを取った。
ピタリ。その姿が空間にはまる。まるで彼のためにそのブロックが置かれ、彼のためにこのフォームが生まれたかのように、どっしりとした構えだ。
Setの呼びかけで、腰を上げる。
世界が静まった。無音の世界。
次の瞬間だ。静寂が一気に弾けた。
そして、彼は……飛翔した。
ブロックを蹴り上げた体が弾丸のように飛び出す。鍛え抜かれた上半身が立ち上がってくると、その姿はもはや人間のものではなかった。
走ることを宿命とし、走ることで命を狩る、肉食獣そのものだ。
大地を力強く蹴り上げる。地響きさえ聞こえてきそうな走りなのに、その反面、重力を超えた軽やかさで風を次々と追い抜いて行く。
まるで体中が走る喜びに歓喜の雄たけびを上げているような、王者の走りだ。
一歩でも前へ、一秒でも早く。体が光になる事を求めている、一筋の迷いのない走り。
圧倒的な力と美しさの前で、見る者は皆、息を飲み、瞬きすることすら許されないだろう。
いつまでもこの走りを見つめていたい。この風を眺めていたい。魅了された心はもはやこの王の虜だ。
しかし、奇跡のような時は皮肉にも一瞬だった。
ゴールテープがそ驚くべき速さで、王たる獣の胸で切られたのだ。
王は両手を掲げ、まるで今の走りを神に捧げるかのように天を仰ぐ。そこにはもう、神々しいばかりの、王だけの景色がきっと広がっているはずだ。誰も踏み入ることのできない、最速の世界、王だけが立ち入ることの許された聖域だ。
そこで、画像が途切れた。
俺は自分が呼吸を忘れていたのに気がつき、ついで、全くをもって、この選手が走っている間、何もかもを忘れ去っていたことに気がつく。
そして、なぜかわからない。
胸の奥の方から熱いものがこみ上げ、涙が出た。
「おぉ! お前、お前にもやっぱりこの凄さがわかるか! そうだよな。サワダは凄いよな!」
警察官が嬉しそうに俺の背中を叩く。
こんな選手が日本にいたなんて、俺は知らなかった。しかも、俺と同姓同名で、同じ短距離の選手でこんな……。
気恥ずかしくて涙を拭いながら、俺は故障した俺の足を見つめた。
それに引き換え、同じサワダでも俺はどうだ……。全てが無駄になり、走るもすら怯える俺は……。
「日本人で初めて100と200の両方で金メダル取ったんだよな。本当に、日本の誇りって言うか、うん、宝だ。それに、サワダが偉いのはこれだけじゃねぇんだぜ。他のバカに高い金だけとって自分のためだけに浪費するようなスポーツ選手とは全然違うんだ。やつは自分にはいる金のほとんどを、寄付してるんだ。本人はいたって質素で清貧らしい。そんな奴がこの街にキャンプに来てるってなると、そりゃ、お前らみたいな浮かれたガキも見に行きたくなるわな」
警察官は、さっき見た再生映像でまだ興奮しているのか、まるで自分のことのように自慢げにサワダのことを語り、うんうんと頷いた。
俺はそのサワダに偉大さ食傷気味になり、あの子を振り返る。
あの走りだけでお腹いっぱいなのに、これ以上できた人間だと、同姓同名の俺は余計に惨めになるだけだ。
「ね、俺のことはいいからさ、早く友達の……」
そういって、顔を上げたときだった。
僕は固まる。呆れ顔だった彼女も僕の顔の変化に気がつき首を傾げる。
俺はとっさに出すべき言葉を見つけられず「あ、ああ、あ、あああ」とただただ赤ん坊のように呻くだけだ。
だって、だって、彼女の後ろにいたのは……。
「サワダ!!」
俺の後頭部に警察官の声が突き刺さる。「え?」と彼女も振り返り、そして同じように言葉を失った。
そう、俺らの前に現れたのは、立体映像じゃない。本物のサワダだったのだ。




