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10話

 戻ったのは屋上のフェンスの内側だった。

 もし、落下の最中だったらどうしようかと思っていただけに、ほっとして俺は屋上で大の字になる。

 由利もその隣で足を放り出し、後ろでに手を突いて空の深さを推し量るように顔をあげて目を瞑っていた。


「本当に、戻ってこれたのかな?」


 由利が呟く。


「たぶん」


 俺が答える。証明はできないが、風の匂いは俺の知っているそれだった。


「ねぇ。言ったよね」


「ん?」


 由利がゆっくりと目を開けて俺を振り返った。

 柔らかな日差しに由利の大きな瞳が美しく、俺の鼓動が一つ高鳴る。


「こんな日がいつか、懐かしいって思える日が来るって」


「あ?」


 あぁ、そんなこと、はじめに言ったような、言わないような……。

 由利は俺のあやふやな返事に苦笑すると、膝を折り畳み両腕で抱え込んだ。


「未来の事、確認できなかったけど、いつか、あの未来に追いついたら……」


 由利の目がすっと細められた。

 その奥ににじむ寂しげな光に俺は、彼女は覚悟している、でもそれを超えた希望を持ちたいと必死でもがいているのだと感じた。


「懐かしいって思えるのかなぁ」


 由利の声に力はなく、簡単に悪戯な風に舞い上げられた。それでも、俺は頷いた。


「きっと」


「きっとだよね」


「あぁ。きっと、だよ」


 俺は立ち上がった。俺のすべきことがなんとなく見つかった気がした。すぐには解決できないかもしれない。すぐには答えは出ないかもしれない。でも……。

 俺は手を差し出すとこう言った。


「いつか、懐かしい未来で会おう」


――


 月日は流れた。

 彼女の病気は不治のものでないことはすぐにわかった。

 ただ、ドナーが必要なのだ。何億分の一と言う確立で適合するドナーの存在が、彼女には必要だった。

 彼女に死をもたらすもの。それはあの未来で感じたもの。人への不信感と無関心だったんだ。

 俺は自分ができることを考えた。考えて考えて、でも、結局俺にできることは走ることだけだった。

 だから俺は、走り続けることにした。

 あの日、俺が手に入れた武器で。


 あの交番で見た、サワダの走り。あれは俺の中で深く刻み込まれ、その後の俺の選手生命に大きな影響を与えた。

 あれこそが、俺が未来で手に入れた武器だったのだ。

 もちろん、そのイメージだけでのし上がったとは思わないが、そのイメージなしでは走り始めることも、ここまで速くなることもできなかっただろう。

 体を鍛え、心を鍛え、時に運を味方に引き込んで、俺は結果を積み上げていった。

 髭も生え、顔つきも変わっていった。

 成績を残すほどに、世の中に注目されるようになった。

 そして、収入が入り始めた時、俺は寄付をするようになった。

 彼女のドナーが見つかるように。彼女のような定めを背負った人間に希望が生まれるように。


 俺は今、スタートラインに立っている。

 ゆっくりとブロックの周りを歩く。

 会場に轟く「サワダ」のコール。華やかなスポットライトが夜の闇を蹴散らし、俺を注目する無数の眼差しは、むせ返るような熱気とともに突き刺さってくる。

 しかし、俺はすっと目を閉じると深く深呼吸した。少しずつ静寂の闇がはやる興奮を収めて、熱に浮かされた歓声を遠ざけて行く。心が穏やかになって行く。恐怖が遠のいて行く。全てが沈黙した時、暗闇の中で何かが淡く光った。最後に見た、彼女の顔だ。希望を信じる彼女の顔。

 俺は息を吐くと目を開けた。

 もう、目の前に見えるのは、真っ直ぐな道と白いゴールゴールテープのみ。

 何万回も繰り返したイメージどおりのフォームで手をつく。

 ここはオリンピックの競技場。俺が金メダルを取るべき場所。

 そして……俺は思いを馳せる。

 そのゴールテープの向こう。再び過去の俺達に出会えるその未来へと。


=完=


最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

ジャンル分けで少々迷い、はたしてこの話がSFに入るのかは甚だ難しいところではあるのですが……。

少しでも楽しんでいただけたなら、幸せです。


本当に、ありがとうございました。

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