聖杭と魔王様
GoA執筆の息抜きに、思い浮かんだアイデアを膨らませてみました。我ながら面白い設定だなとは思ったのですが、このお話を長編にする余裕が今は無いので、とりあえず短編ということで。
いずれ長編としてリメイクするかもしれません。
それから、本作は限りなく素案に近く、十分な推敲が行われていないので、お見苦しい部分もあるかもしれませんが、そのほどを把握した上で楽しんで頂けると幸いです。
俺、佐藤悠真は二十三歳で死んだ。
……らしい。
らしい、というのは、正直あまり実感がないからだ。そもそも死んでいるのか定かではないが、恐らく死んでいるので、らしいという表現を使わせて頂こう。
死ぬ時というのは、勝手にもっと劇的なものだと思っていた。世界が白く霞むとか、誰かの声が遠ざかるとか、人生の名場面が走馬灯みたいに流れるとか。少なくとも、「あ、今かなり眠いな」と思ってスマホの画面を落とした次の瞬間に、何もかも終わっているようなものだとは思っていない。
俺は子供の頃から身体が弱い。
入退院は慣れたものだし、病院のベッドは半分くらい自分の家みたいなものだった。点滴台を連れて廊下を歩く姿なんて、もはや相棒を散歩させている人に近い。
もちろん、慣れたからといって、それだけで楽になるわけじゃない。
検査は辛い。薬は不味い。夜中に息が苦しくなれば普通に怖いし。医者が少しだけ言葉を選ぶようになってからは、両親の顔を見るのもきつかった。
それでも俺は、どこかで自分の人生がまだ続いていくものだと思っていた。
最後の日、俺は久しぶりに実家へ帰っていた。
自分の部屋は、思ったよりも昔のまま残っている。高校時代に買ったスッカスカの安い本棚や、そこにポツンと倒れている読みかけの漫画。机の隅に置いたままの四色位使えるボールペンに、太陽の匂いがする布団。
懐かしいというより、誰かが俺の人生をそのまま保存してくれていたみたいで、少し変な感じがした。
その夜、俺は布団の中でスマホを見ていた。SNSを開き、閉じ、開き、知らない誰かのどうでもいい投稿を眺め、大して興味もない世界の歴史を紹介する動画を二つほど見たところで、眠気に負けた。
明日もいつも通り起きるつもりだったんだ。母さんに「朝、起こして」と頼んだ記憶もある。それが、最後の記憶だ。
だから、次に意識が浮かび上がった時、俺がまず思ったのはこれだった。ん、なんか暗くないか?
そう、とにかく暗い。
部屋の電気が消えているとか、夜だから見えないとか、そういう暗さじゃない。目を閉じているのか、そもそも目があるのか、それすら分からない暗闇だ。
身体を起こそうとする。動かない。
指を曲げようとする。曲がらない。
足を動かそうとする。足があるのかすら分からない。
瞼を開けようとする。瞼の存在が確認できない。
え、なんだこれ。もしかして俺、終わった?
視覚もない。触覚もない。匂いもない。舌もない。痛みすらない。ただ、ぽつんと水の中に浮かんでいるような頼りなさだけがある。
自分の輪郭が曖昧なのだ。
俺という意識だけが、真っ黒な空間に取り残されている。そんな心許ない感覚に近い。
そんな状態でボーッとしてます。特にすることも無いので回想してみた。はい、いよいよ何もすることが無くなりました。本当に終わりです。
そんな時の事だった。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
暗闇の奥から、低く重い音が響いてくる。
これは心臓の鼓動だ。間違いない。聞き慣れているから、すぐに分かった。
病室で眠れない夜、俺はよく自分の鼓動を聞いていた。生きている証拠のはずなのに、いつ止まるか分からない時限装置みたいにも聞こえる、あの嫌な音を。
けれど、今聞こえているそれは、自分のものとは少し違うように思えた。もっと大きく、もっと深いのだ。まるで巨大な生き物の胸の奥にでもいるかのような音だ。
いや、待て。
巨大な生き物の胸の奥って何だ。自分で考えておいて怖すぎるだろうが。
つーかよ、
……ふざけんなよ。
声になっているのかどうかも分からないまま、俺は呟く。
どこまで壊れれば気が済むんだよ、この身体。今度は鼓動の幻聴かよ!くそ!病気だの合併症だの、次から次へと出てきやがって。視力まで駄目になったのか?手足も駄目?感覚もなし? フルコースかよ。病弱セット極盛りかよ!
返事はない。ただ、鼓動だけが続いているだけだ。
ドクン。
ドクン。
ずっと聞こえるこの音に、思わずノイローゼになりそうだ……。え、もしかしてこれをずっと聞かされ続ける感じですか?
いや、動けよ。ちょっとくらい動け。二十三年も付き合ってやっただろ。根性見せろよ!せめて指一本。指が無理ならまばたきでもいいからさ。まばたきも無理?
俺は自分の身体に文句を言っているつもりだった。実際には、その身体があるかどうかも怪しいけれども。
ただただ胸の奥から想いが溢れ出してくるのだ。どこにぶつけるでもなく、ただただ虚しい想いが蛇口から出る水のように溢れてくる。
だいたいさ、俺も頑張ったよ?辛い検査も受けたし、バカ苦い薬も飲んだし、言われた食事制限もちゃんと守ったし、医者の前ではちゃんといい患者ぶったし。
虚しくなってきた。
なのに最期はこの仕打ちかよ?もう少しサービスしてくれてもよくない? せめて次回予告くらい出してくれよ。『次回、悠真、全感覚を失う』みたいなさ!目覚めたら海の上とか、誰も想像できないだろうが!
怖い。暗闇が怖い。動けないことが怖い。何も分からないことが怖い。
もう一度、何かを叫ぼうとしたまさにその時だった。
「あなたはどなた?」
女の声がする。
俺の意識は、盛大に跳ねた。
身体があれば、たぶん布団から転げ落ちている。今は布団どころか床も身体もないので、心だけが派手に転げ落ちる感じだが。
「佐藤悠真です! ……あっ」
反射的に返事をしてから、俺は固まった。
声、出た。いや、出るんかい。
さっきまで喋れているかどうかすら怪しかったのに、今の返事ははっきりと自分の声だった。
「そう。ユーマって言うのね」
そな女の声は、暗闇の中で柔らかく響く。
若い声だ。けれど、妙に落ち着いている。少女のようにも聞こえるし、とんでもなく長く生きた女性のようにも聞こえる。看護師さんもそんな感じなので、どこか落ち着いた。
「あなたは、どうしてここに来たの?」
「いや、それが俺にもよく分からなくて」
俺は素直に答える。
「昨日は、久しぶりに実家に帰って、自分の部屋で寝たはずなんです。スマホ見て、眠くなって、それで……気づいたらここにいました」
「あら」
「ちなみに、ここがどこかも分かりません」
「でしょうね」
「でしょうね、なんですか」
女は、ふふ、と小さく笑う。
可憐な笑い声だ。
声だけなら、深窓の令嬢と言われても信じてしまうかもしれない。いや、深窓の令嬢と会話した経験はないけども。
まあ、夢か。俺はそう結論づける。
病気になってから、変な夢は何度も見てきた。薬の影響か、熱のせいか、現実感のない夢にはそれなりに慣れている。これもその内の一つだろう。
……え、夢だよね?かなりリアルだけど、今。
一応死んでいるものと思った方が良い感じか?
「ところで、あなたは?」
俺は暗闇に向かって問いかける。こういうのは、楽しんだ者勝ちだからな。
「それと、ここがどこか分かりますか?」
その問の後、彼女の笑い声が止まった。
それから彼女は、なんでもないことのように言う。
「私の名前は、エルドラード・ファナブル・ジャンナ。よろしくね。それから、あなたは私の中にいるのよ」
ん?
俺は言葉が出なかった。暗闇の中で、今の言葉を頭の中に並べ直す。
あなたは。
私の。
中に。
いる。
「えーと、すみません。もう一度お願いします」
「私の名前は、エルドラード・ファナブル・ジャンナ。あなたは私の中にいるのよ」
聞き間違いではないようだ……。
聞き間違いではないことが、こんなにも困るとは思わなかった。
「えーと」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「つまり、俺はあなたの赤ちゃんってことですか?」
次の瞬間、女が吹き出した。
先ほどの上品な笑い方とは違う、かなり遠慮のない豪快な笑い声だ。可憐な声なのに、笑い方が妙に迫力を伴っている。だいぶ面白い。
「違うわ。違うけれど、発想が真っ直ぐすぎて面白いわね」
「こっちは真剣なんですけど」
「ええ、ごめんなさい。でも安心して。あなたは私の子ではないわ」
「それは安心していいやつですか?」
「少なくとも、赤子だけは有り得ないから」
「んー」
エルドラードは、まだ少し笑っている。
俺は完全に置いていかれていた。状況にも、会話にも、人生にも。
「そうね。あなた、本当に何も分かっていないのね」
「俺に現状を分かる要素、ありました?」
「ないわね」
「ですよね」
「では、順番に話しましょうか」
エルドラードは、少しだけ声を落ち着かせる。
「まず、ユーマ。落ち着いて聞いてね」
「その前置きで落ち着けた人間、たぶん歴史上いません」
「あなたは、人間ではないわ」
「ほら落ち着けない」
「あなたは、私の胸に打ち込まれている聖なる杭よ」
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動だけが、やけにはっきり響く。
え、どういうこと?
「……杭?」
「ええ」
「聖なる?」
「ええ」
「あなたの胸に?」
「ずっぽり刺さっているわ」
「俺が?」
「あなたが」
俺は数秒ほど考えた。そして、可能な限り冷静に言う。
「いや、抜いてくださいよ」
「抜けたら、とっくに抜いているわ」
「ですよねー」
何が「ですよね」なのか、言っていて自分でもよく分からない。ただ、そう言うしかなかった。
ん、なんかおかしいな。
「ちなみに、杭ってあれですか。木の棒みたいな?」
「もっと立派よ。聖銀と神鉱を混ぜて作られた、封魔用の聖遺物ね」
「なんて立派な杭……」
「とっても由緒正しいわ」
「由緒正しい杭に生まれ直したした俺の気持ち、分かります?」
「分からないわ。私も胸に由緒正しい杭が刺さったことしかないもの」
「それもまあまあ珍しい経験ですね」
話しているうちに、俺は少しだけ落ち着いてきた。
いや、落ち着いたというより、脳が処理を諦め始めたのかもしれない。
死んだ。たぶん死んだ。そして異世界らしき場所で、魔王らしき女性の胸に刺さった聖なる杭になった。
何をどうすれば、そんな人生の再スタートになるのか。
せめて剣とか、指輪とか、杖とか、もう少し主人公らしい転生先があったんじゃないか。なぜ杭。それもなぜ刺さっている側ではなく、刺さっている物体側なのか。
「長い話になるけれど、聞く?」
「聞かないと、たぶん一生状況が分からないので」
「そうね。あなた、今のままだと自分を赤ちゃんだと思ったままだものね」
「それはもう撤回しましたって」
「うふ、残念」
「残念がらないでください」
以下は、そんな彼女の話をまとめたものだ。
この世界は、かつて魔族と他種族が覇権を争う、戦乱の絶えない世界だったらしい。なんだか喧しいな。
人族、獣人、森人、竜人、そして魔族。種族の違いは国の違いであり、信仰の違いであり、争いは生き残るための手段でもあった。
長い戦争の中で、それぞれの陣営には象徴が生まれる。
人類側には勇者。
魔族側には魔王。
勇者は人類の希望として現れ、聖剣を手に多くの魔族を討った。
一方で、魔王エルドラード・ファナブル・ジャンナは魔族の王として立ち、人類側の砦を落とし、軍勢を退け、魔族の領域を守り続けた。
つまり、どちらも自分たちの陣営にとっては英雄だ。そして、敵から見ればどちらも災厄になる。
エルドラードはそこを妙にあっさりと認める。
「私もそれなりに暴れたもの」
「それなりに、で済む規模ですか?」
「国を二つほど地図から消したくらいかしら」
「えーと、済まない規模ですね」
「あの時は若かったのよ」
「若気の至りで国は消えませんって、普通」
ずっとそんな調子である。だが、彼女の話は途中から徐々にシリアスになっていった。
戦争の終わりは、正面からの決戦ではなかった。
魔族側に、人類へ内通した裏切り者がいたらしい。その者の計略により、エルドラードは呆気なく捕らえられる。
ようやく捕らえた魔王を前にして、人類側はすぐに困った。
魔王は、ただそこに存在するだけで危険だったからだ。その超人的な再生力によって殺せない。溢れ出る邪悪な魔力によって封じきれない。近くにいるだけで、溢れ出る魔力そのものが人間の身体を蝕む。
そこで彼女は、魔族にとって毒となる聖力に満ちた聖国の首都へと移送された。
聖国は、土地そのものに聖なる力が宿る国らしい。そこに住む人々の中には、生まれつき聖力に目覚める者も多いという。
エルドラードはその首都の大神殿で、胸に聖なる杭を打ち込まれた。
それが、今の俺である。
んー、なんで?どうしてそうなる?
正確に言えば、当時の杭に意識などない。いや、当然のことだが。一応ね、一応。魔王の力を封じるためだけに作られた、ただの聖具にすぎなかった。
胸には聖杭。手首と足首には、特殊な枷。
その枷は、聖力を帯びた鉱石を芯に作られており、魔力を練ろうとすると流れそのものを焼き切る仕組みらしい。
さらに彼女は、聖力だけを通す特殊な鉱石で作られた、ガラスのように透明な箱へ閉じ込められた。内から溢れ出る魔力を遮断し、一方的に外から聖力を浴びせることを目的にして作られたものだ。
透明な箱。胸の杭。手足の枷。
うん、だいぶ厳重である。三重だ。
「完全に展示ケースですね」
「ええ。しかも超強力な防犯性能付きよ」
「本人が言うとなんだか切ないですね」
「すぐに慣れたわ」
「いや、慣れないでください」
その後、聖国ではある催しが始まった。
聖燐祭と呼ばれるお祭りらしい。
人々は毎年そのお祭りの日になると、都一番の広場に置かれた透明な箱の元を訪れ、囚われた魔王へ聖なる力を浴びせる。
厄除け、病魔払い、家内安全、商売繁盛、恋愛成就を願って。
「え、恋愛成就も?」
「いたわね。私に聖力を浴びせながら、隣の人と結ばれますように、と祈っていた娘が」
「魔王にやる願掛けじゃないですねそれ」
「その二人、後に結婚したわ」
「効果あったんかい」
「私の力ではないと思うけれど」
最初は、詣でる人々を利用して魔王の力を弱めるための、至極真剣な儀式だったのだろう。
けれど、年月が経つにつれ、儀式は少しずつ楽しい祭りになっていく。露店が並び、賑やかな音楽が流れ、子供たちが菓子を片手に走り回る。魔王に聖力を浴びせることは、いつしか聖国の名物行事になった。
やがてエルドラードには、抵抗する力もほとんど残らなくなる。
人々は判断した。もう魔王は危険ではない、と。わざわざ別の場所に移す必要もない。
そうして彼女は、常に広場に置かれ続けることになった。その場所は、いつしか魔王広場と呼ばれるようになる。
そのまま数百年が過ぎた。
人類と魔族の争いは、少しずつ過去のものになっていく。互いの交易が始まり、混血が増え、かつて敵同士だった種族が同じ通りで店を開くようになった。
今では聖国の首都にも、魔族が普通に暮らしているらしい。
そして彼らは、魔王広場の前を普通に通る。買い物帰りに、待ち合わせに、仕事の行き来に。観光客にもここを案内したりするようだ。
魔王はもはや恐怖の象徴ではない。ただの名物だ。なんだそれ。どういうこと?なんでそうなった?
「待ち合わせは魔王前で、みたいな?」
「よく聞くわ」
「嫌すぎるだろ……」
「魔王様まんじゅうもあるわよ」
「商品化されてるし」
「封印せんべいもあるわ」
「サクサクしてそうですね」
「意外と硬いらしいわ」
「封印だから?」
「たぶん」
俺は、真っ暗闇の中で頭を抱えたくなった。手はない。頭もあるか怪しい。ただ、気持ちとしては頭を抱えている。
魔王が数百年封印されている。そこまでは、まあファンタジーとして分かる。だが、その魔王が今では観光名所になっていて、まんじゅうまで売られている。急に話がゆるいぞ。
いや、この話が重いのか軽いのか分からないじゃないか!
その後、長い年月の中で、聖杭に込められていた封魔の力は少しずつ弱まっていった。
エルドラード自身も、その頃には自我がかなり曖昧になっていたらしい。果たして自分が眠っているのか、起きているのか。考えているのか、ただ時間に流されているだけなのか。その区別もつかないほど、長い時間だったという。
けれどある日、彼女は胸の奥にわずかな緩みを感じた。どうやら胸に突き刺さった杭の力が弱まっているらしかった。
それに気づいたエルドラードは、辛うじて残っていた魔力を使い、聖杭に込められていた封魔の力を打ち消した。
それで彼女の魔力は一度、ほとんど尽きる。だが、呪いにも等しい封印の中核を解くことには成功した。胸の杭は、もう彼女の魔力を封じていない。
ただし、物理的には刺さったままである。
「そこ、抜けないんですね」
「手足が動かないもの」
「ああ、枷」
「ええ、枷」
「なんか、すみません」
「あなたが刺したわけではないでしょう?」
「でも今、俺が刺さってるので」
「律儀ね。杭なのに」
「杭なのに、は余計です」
それから、さらに数百年が過ぎる。
かつて定期的に交換されていた透明な箱も、いつしか交換されなくなった。聖燐祭は定期的に続いていたが、管理は年々ずさんになっていく。人々にとって魔王は、もはや本気で恐れる対象ではないからだ。
ある時、エルドラードは気づく。
あれ、箱の力も弱まっている。手足の枷も、かつてほど強くない。ほんの少しずつだが、魔力が戻り始めているじゃないか、と。
とはいえ、その速度はあまりにも遅い。今すぐ枷を壊せるほどではないし、箱を砕けるほどでもない。
だから彼女は、また待つことにした。
数百年待ったのだ。もう数百年くらい、誤差みたいなものなのだという。
「いや、スケールが大きすぎませんか」
「長生きだから」
「俺、二十三歳で死んだんですけど」
「あら。まだ若いわね」
「魔王基準やめてもらっていいですか」
そんなある日。
胸に刺さったままの杭に、何かが宿った。
意識、声、混乱、文句、愚痴。
それが、佐藤悠真、つまり俺だ。いや、酷すぎるだろ、俺……。
「えーと、つまり」
俺は、話を整理するように言う。
「俺は死んで、異世界の魔王の胸に刺さっている聖なる杭になった」
「そうね」
「あなたは数百年前に封印された魔王で」
「ええ」
「でも今は、魔王広場の観光名所になっていて」
「不本意ながら」
「魔王様まんじゅうが売られていて」
「なかなか人気らしいわ」
「俺はその胸に刺さっている杭で」
「ええ」
いや、え?
「……情報量、多くないですか?」
「そうかしら」
「いや、多いですって。少なくとも、寝起きに浴びる量じゃないですよ」
「でも、あなたは寝起きではなくて、死に起きでしょう?」
「新しい言葉を作らないでください」
俺は深くため息をつこうとした。しかし、肺がない。なぜなら杭だからね!ちくしょう!
仕方ないので、気分だけでため息をつく。
はあ。
「それで、俺はこれからどうすればいいんですかね」
「そうねえ」
エルドラードは、少し考えるように黙った。鼓動が響く。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
俺は、その音を聞きながら、ようやく理解していた。
これは自分の心臓ではない。エルドラードの心臓だ。俺は、そのすぐそばにいる。彼女の胸に突き刺さった杭として。不思議な気分だ。
「まずは」
エルドラードが言う。
「私の話し相手になってくれると嬉しいわ」
「脱出方法とかじゃなくて?」
「それも大事だけれど、数百年ぶりにまともな会話ができるのよ。優先順位は高いわ」
「俺の第二の人生、魔王の暇つぶし相手から始まるんですか」
「嫌?」
その声は、少しだけ寂しそうに響いた。
俺は言葉に詰まる。病室で、何時間も天井を見ていた時のことを思い出した。誰かが来るのを待つ時間。会話が終わって、また一人になる瞬間。何もできず、ただ時間だけが過ぎる感覚。
それを数百年。俺には想像もできない。
「……まあ」
俺は、少しだけぶっきらぼうに言う。
「杭なので、どうせ動けませんし」
「そうね」
「暇ではありますし」
「ええ」
「話し相手くらいなら、できます」
エルドラードは小さく笑う。
「ありがとう、ユーマ」
「いえ。こちらこそ、胸に刺さってすみません」
「それ、しばらく持ちネタにするつもり?」
「俺の人生で一番特殊な謝罪なので、大事に使っていこうかと」
「変な人ね」
「杭ですけどね」
エルドラードがまた笑う。
暗闇の中で、彼女の姿は見えない。外の世界も見えないし、なんなら自分の姿すら分からない。
けれど、誰かの鼓動が聞こえる。そして、その誰かは俺に話しかけてくれる。
病弱な青年・佐藤悠真の第二の人生は、魔王の胸に刺さった聖なる杭として始まった。
あまりにも意味が分からない。意味は分からないが、とりあえず俺は思う。
せめて次に転生する時は、もう少し動けるものがいい、と。
▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
聖なる杭になってから、数ヶ月が経った。いや、正確な日数は分からないが、そうでるようだ。というのも、ここにはカレンダーがないからさ。
時計もない。朝も夜も分からない。目もなければ耳もない。いや、会話はできるので耳のようなものはあるのかもしれないが、少なくとも自分の耳たぶを確認する手段がない。
そもそも耳たぶ云々どころか、俺は杭である。この一文、何度考えても意味が分からない。
ただ、エルドラードが言うには、俺がこの世界に来てから、もう季節が一つ動きかけているらしい。
「ユーマ、今日は風が少し温いわ」
「へえ」
「広場の花売りが、冬花から春告げ草に変わったもの」
「へえ」
「子供たちの服も、少し薄くなったわね」
「へえ」
「あなた、感想が薄いわ」
「すみません。俺、風も花も服も見えてないので」
「あら、そうだったわね」
「忘れないでください。俺、あなたの胸に刺さってる杭なんで」
「便利な自己紹介ね」
「便利ではねーです」
こんな会話をするくらいには、俺は杭生活に慣れてしまっていた。慣れたくはなかった。できれば一生慣れずに済ませたかった。人間として生まれ、人間として死に、死後も人間の形で何かしらやっていきたかった。
それがどうだ。
今の俺は、魔王の胸に刺さった聖なる杭だ。人間どころか、生物ですらない。せめて動物とか植物ならまだ分かる。スライムとかゴブリンとかなら、まだファンタジーの枠内に収まる。
だが杭だ。
転生先の候補リストを作った神様がいるなら、なぜ俺だけ雑に余った項目に突っ込んだのか小一時間ほど問い詰めたい。
とはいえ、慣れというのは恐ろしい。
最初の頃は、この暗闇が怖かった。身体がないことが怖かった。自分が死んだのかどうかも分からなくて、考えるたびに心がゆっくりと死んでいくのを感じた。
でも、数ヶ月も経つと、人間というのは案外なんでも受け入れてしまうらしい。
いや、正確には杭だけども。
今では、エルドラードの鼓動にも慣れた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
最初は喧しくて仕方なかったこの音も、今は部屋の時計みたいなものだ。まあうるさく感じる時もある。けれど、止まったら止まったで絶対に困るし。
それに、彼女の心臓の音は、俺にとって唯一の確かなものでもある。
真っ暗な世界の中で、俺はここにいる。誰かの胸の奥に刺さって、誰かの命の音を聞いている。普通に考えるとだいぶ怖いが、そもそも普通に考えたら負けだ。この世界に来てから、俺は何度もそう学んだ。
ただ、慣れてきたからこそ、ふとした時に別のものが胸に沈むこともある。
ああ、俺は本当に死んだのか。
そんな実感だ。
最初は状況が意味不明すぎて、死んだことを考える余裕もなかった。魔王。聖杭。胸に刺さってる俺。観光名所。魔王様まんじゅう。情報量が多すぎて、死を悲しむ前に脳が処理落ちした。
けれど、何も起きない時間が続くと、嫌でも考えてしまう。
母さんは、俺を起こしに来たのだろうか。
布団の中で冷たくなっている俺を見つけたのは、母さんだろうか。父さんは、どんな顔をしたのだろう。俺のスマホは、まだ枕元にあったのだろうか。最後に見ていた動画の履歴とか、消しておけばよかったな。
いや、そこは本当に消しておけばよかった。
別にやましいものではない。やましいものではないが、死んだ息子の最後の視聴履歴が「古代文明のトイレ事情」だった場合、遺族はどういう顔をすればいいのか。俺なら困る。
「ユーマ」
そんなことを考えていた時、エルドラードが静かに俺を呼んだ。
「はい」
「またどこか遠くを見ている声ね」
「声で分かるんですか」
「数ヶ月も話していれば分かるわ。あなたは落ち込むと、少し言葉の角が丸くなるもの」
「それ、なんか恥ずかしいですね」
「大丈夫よ。胸に刺さっている時点で、今さら何かを恥ずかしがる段階ではないわ」
「慰め方が独特すぎる」
思わずそう返すと、彼女は小さく笑った。
両親のことを考えると、今でも胸が痛くなる。胸はないけど。でも、エルドラードが話しかけてくれると、その痛みが少し薄まるのが不思議だ。
もちろん完全に消えるわけではないけれども、暗闇の中に一人で沈まなくて済む。それだけで、かなり違う。
「今日は、外を見てみる?」
エルドラードが、ふと思いついたように言った。
「見れるんです?」
「少しだけなら。前よりあなたの気配が馴染んできたもの。私の感覚を、共有するくらいならできそうだわ」
「それ、大丈夫なんですか? 俺があなたの視界をジャックするとか、そういう危険は」
「その時はその時よ」
「これぶっつけ本番なの?」
「大丈夫よ。たぶん」
「今たぶんって言った」
次の瞬間、パッと暗闇が薄くなった。最初は、真っ黒な水に一滴だけ光が落ちたような感覚だった。ぼんやりと色が滲む。
白。金。赤。青。
輪郭は曖昧で、世界全体が水底から見上げる景色みたいに揺れている。
おお!
俺は数ヶ月ぶりに、外の世界を見た。いや、正確には、エルドラードの目を通して見ている。
そこは文字通り広場だった。
箱は淡い青を帯びたガラスみたいな素材でできていて、陽の光を受けるたびに表面がきらきらと光る。綺麗だ。腹立つくらい綺麗だ。中に閉じ込められている本人からすると、絶対にそんな感想では済まないだろうが。
箱の外には、たくさんの人がいた。
人族らしい普通の人間。耳の長い森人。豊かな毛のある獣人。角を持つ魔族。小さな翼の名残みたいなものを背中に持つ子供までいる。
それは、思っていたよりもずっとずっと賑やかだった。
露店の布屋根が風に揺れ、焼き菓子の甘い匂いが漂っているように見える。匂いそのものは分からないけれど、白い湯気や、客の緩んだ顔を見れば、たぶんうまいものが売られているのだと分かる。
俺が想像していた聖国は、もっと厳かで、どこもかしこも白い神殿ばかりで、住民全員が真顔で祈っているような場所だった。実際は違い、かなり俗っぽいようだ。というか、普通に生活感がすごい。
広場の端で、商人が声を張り上げている。
「さあさあ、聖国名物、魔王様まんじゅうだよ! 黒ごま餡入り、封印焼き印つき! 食べれば厄除け、買えば土産にちょうどいい!」
「本人の許可は取ってるんですかね」
「取られていないわね」
エルドラードが淡々と答える。
「勝手に商品化されてるじゃないですか」
「数百年前からよ」
「訴えましょう」
「誰に?」
「……聖国消費者庁とか」
「聞いたことがないわ」
「でしょうねー」
露店の前には、観光客らしい親子が並んでいる。
子供がまんじゅうを受け取ると、表面を見てはしゃいだ。
「見て、魔王様の顔だ!」
「本当ねえ。よく焼けてるわね」
母親らしい女性が笑う。
まんじゅうに焼き印された魔王様は、だいぶ丸い顔をしていた。角も丸い。目も丸い。口元にはなぜか悪そうな笑みがある。
「エルドラードさん、あれ似てます?」
「似ていないわ」
「ですよね」
「私はもう少し目つきが鋭いもの」
「気にするところ、そこなんですか」
隣の店では、別の商人が平たいせんべいを高く掲げている。
「封印せんべい! 硬さに自信あり! 一枚食べれば魔王も封じる歯ごたえ!」
「それ、食べ物として大丈夫なんですか」
「年寄りには不評ね」
「それはそうか」
さらにその隣には、小さな瓶が並んでいた。黒紫色の液体が入っている。
「魔王の涙シロップだよ! かき氷にも、炭酸水にも、パンケーキにも合うよ!」
「泣いたんですか?」
「泣いていないわ」
「じゃあ完全に虚偽広告ですね」
「でも美味しいらしいわ」
「美味しいなら許されると思うなよ」
俺が真面目に憤っていると、エルドラードが笑った。
本人は意外と怒っていないらしい。
これを見て、改めて思った。広場の人々は、誰も彼女を恐れていない。少なくとも、今ここを歩く人々の顔に、かつての魔王への怯えはほとんど見えない。
それどころか、箱の前で記念画を描いてもらっている家族までいる。絵師が紙を広げ、椅子に座った家族を手早く描いていく。背景には透明な箱。中には封印された魔王。すごい絵面だ。
「これ、観光地ですね」
「だから言ったでしょう」
「想像の三倍くらい観光地です」
ふと、広場の端を角の生えた青年が歩いているのが見えた。肌は人間より少し青白い。額には短い黒角。おそらく魔族だ。彼は首元から淡い金色の札のようなものを下げていた。札には細かな紋様が刻まれ、時折ふわりと光を散らす。
「あの人、魔族ですよね?」
「ええ」
「聖国って、魔族には毒なんですよね?」
「本来はね。でも今は護符があるの」
「護符?」
「聖力を中和するためのものよ。あの首から下げている金色の札がそう。聖国で暮らす魔族は、たいていあれを身につけているわ」
なるほど、と俺は思う。
よく見ると、広場を歩く魔族のほとんどが似たような護符を身につけている。首飾り型、腕輪型、耳飾り型。中には腰のベルトに大きめの護符をぶら下げている者もいた。
デザインはそれぞれ違うようだ。実用品なのに、ちゃんとおしゃれの一部になっている。
その事実が、少し不思議だった。
かつて魔族にとって毒だった聖国に、今では魔族が普通に暮らしている。聖力を中和する護符を身につけ、露店で菓子を買い、道端で知人と立ち話をする。
戦争は、過去のものになりつつある。少なくとも、この広場では。
「おい、見ろよ! 魔王様だぞ!」
子供の声が弾けた。
視界の端で、数人の子供たちが走っている。一人は木の棒を聖剣のように構え、もう一人は黒い布を肩に巻いていた。黒布の子は額に紙で作った角を貼り付けている。雑な魔王装備だ。
「我こそは大魔王エルドラード! 世界を真っ黒にしてやるぞ!」
「やめろ魔王! この勇者レオンが相手だ!」
「くらえ、暗黒ぐるぐる斬り!」
「聖なるぐるぐる斬り!」
「どっちもぐるぐるしてるだけじゃないですか」
「子供の技名なんて、だいたいそんなものよ」
勇者役の子供と魔王役の子供は、木の棒をぶつけ合いながら楽しそうに走り回る。その横で、小さな女の子が両手を広げた。
「わたし聖女チェーダ!ふたりともけんかしちゃだめー!」
「聖女、めちゃくちゃ平和的ですね」
「良いことだわ」
次の瞬間、魔王役の子供が箱の方を指差した。
「本物の魔王様、俺の演技どう?」
俺は固まる。
「エルドラードさん、返事できるんですか?」
「できないわ。今は省エネモードだから、微塵も動いていないのよ」
「まあ、視界が動かないので分かっていましたが」
「でも、そうね」
エルドラードの声が、少しだけ柔らかくなる。
「あの子の魔王は、だいぶ元気ね」
「採点するなら?」
「六十点かしら」
「意外と厳しい」
「威厳が足りないわ」
「紙の角に威厳を求めないでください」
子供たちは、そんな本物の魔王の辛口採点など知るはずもなく、笑いながら広場の外へ走っていく。その後ろ姿が、妙に眩しかった。
ああ、そこかしこに命がある。
当たり前みたいに身体を動かし、声を上げ、笑い、転びそうになりながら走っている。それだけのことが、今の俺には少し信じられない。
俺はもう走れない。そもそも足がない。息を切らすことも、汗をかくことも、膝を擦りむくこともない。
病気だった頃、健康な子供を見るのがつらい時期があった。自分にはできないことを当たり前にしている存在が、少し憎らしく見える日もあった。
でも今は、どういうわけか少し違う。
あの子供たちが走っているのを見ると、なぜか胸の奥が温かくなる。いや、胸はないんだけどね?
「生きてるなあ」
俺はぽつりと呟く。
「ええ」
エルドラードが答えた。
「生きているわ」
その声には、俺とは違う長さの時間が滲んでいた。
彼女は、この広場を何百年も見てきたのだ。祭りが厳かな儀式だった頃も、人々が恐怖と憎しみを込めて聖力を浴びせていた頃も、やがてそれが習慣になり、観光になり、子供の遊びになっていくまで、ずっと箱の中から見続けてきた。
それは、いったいどんな気分なのだろう。
自分を閉じ込めた国が、少しずつ変わっていく。敵だった種族が隣人になり、憎しみが商売になり、恐怖が菓子の焼き印になる。
許せるのか。笑えるのか。それとも、あまりに長すぎて、怒る力すら摩耗してしまうのか。聞こうか迷っていると、視界の中に若い男女が入ってきた。
お、カップルだ。
男の方は、やたら緊張した顔で花束を抱えている。女の方は少し不思議そうに彼を見ていた。
「魔王様前で待ち合わせなんて、変な場所を選ぶのね」
「いや、その、ここは有名だから」
「有名なのは知ってるけど」
「それに、ええと、魔王様の前で誓うと長続きするって聞いたから」
「そんな言い伝えあるんですか?」
「恋愛成就に使われるくらいだから」
「納得」
男はしばらくもじもじした後、勢いよく花束を差し出した。
「俺と、結婚してください!」
広場の喧騒が一瞬だけ遠のいたように見えた。
女は目を丸くする。そして、次の瞬間、顔を真っ赤にして笑った。
「場所!」
「だ、駄目だった?」
「駄目じゃないけど、魔王様の前でする?」
「長続きするって」
「それ、たぶん商人の作った噂よ」
エルドラードが冷静に言う。
「商魂たくましすぎる」
女は花束を受け取った。それを見ていた周囲から拍手が起こる。露店の商人が「お祝いに魔王様まんじゅう一つおまけだよ!」と叫んだ。
「いや、そこでまんじゅうを出すなよ」
「幸せそうね」
エルドラードが言う。その声は、穏やかだった。
「……エルドラードは、嫌じゃないんですか」
「何が?」
「自分を封印してる箱の前で、みんなが楽しそうにしてることです」
少しの沈黙が流れる。
視界の中では、さっきのカップルが照れくさそうに笑っていた。子供たちは相変わらず走っている。商人たちは声を張り上げ、観光客は透明な箱を見上げている。
そのすべてを、エルドラードは箱の中から見ている。
「昔は、嫌だったわ」
やがて彼女が言う。
「憎らしかった。私に聖力を浴びせて笑う人々も、私を見世物にするこの国も、すべて燃やしてしまいたいと思ったことがある」
冗談ではないのだと分かる。
「でも、長い時間が過ぎたわ。私を捕らえた者たちはもうこの世界のどこにもいない。私に石を投げた者も、祈りをぶつけた者も、私を恐れて震えていた者も、みんな土に還ってしまったわ。ここにいるのは、その後に生まれた人たちよ」
「……そうですね」
「彼らは私を知らないわ。魔王という言葉を知っていても、戦場に立っていた私を知らない。私が何を奪い、何を守ろうとしたのかも知らない。ただ、今を生きているだけだから」
彼女の視界の中で、魔族の青年が護符を揺らしながらまんじゅうを買っていた。人族の老婆が、獣人の子供に封印せんべいを分けている。森人の旅人が、箱の前で絵葉書のようなものを眺めている。
「だから、嫌ではなくなったのですか」
「もちろんその全てを、ではないわ」
エルドラードは、少し笑った。
「私を無断でまんじゅうにしたことは、今でも少し納得していないもの」
「そこは本当に怒っていいと思います」
「でも、そうね。彼らが笑っていること自体は、悪くないと思えるようになったわ」
その言葉を聞いて、俺はしばらく黙った。
魔王の視界を借りて見る広場は、明るい。明るすぎるくらいだ。どれも、俺がもう手に入れられないものばかりだった。
少し寂しくて、少し羨ましい。
それでも、眩しいと思える。
たぶん、生きているものは、それだけで勝手に輝くのだ。本人たちにそのつもりがなくても、暗闇にいる側から見るとよく分かる。
「ユーマ」
「はい」
「どう?」
俺は少し考える。
色々な言葉が浮かんだ。でも、結局出てきたのは単純な言葉だった。
「なんかいいですね」
「そう」
「なんか、いいです。生きてるって感じがして」
エルドラードは、返事の代わりに小さく息を吐くように笑った。
「ええ。私もそう思うわ」
その時、さっきの商人の声がまた広場に響いた。
「さあさあ、新商品だよ! 魔王様の胸に刺さる聖杭チュロス! 細長くて甘いよ!」
「は?」
俺は思わず声を漏らした。
「今、なんて?」
「聖杭チュロス、だそうよ」
「俺も商品化されてるじゃないですか!」
「よかったわね、ユーマ。あなたも名物入りよ」
「よくないです! なんで俺がチュロスなんですか! せめてもう少し神聖な何かにしてくださいよ!」
「細長いからではないかしら」
「理由が物理的すぎる!」
視界の中で、子供が聖杭チュロスを手にしている。
そして、魔王様まんじゅうに向かってチュロスを突き刺す真似をした。
「封印!」
「やめろ!」
俺の叫びは、当然ながら箱の外には届かない。
エルドラードが楽しそうに笑う。
「人気者ね、ユーマ」
「俺の第三の人生、チュロスデビュー早すぎません?」
「数百年後には銅像が立つかもしれないわ」
「チュロスの?絶対に嫌ですよ!」
「私の胸に刺さる形で」
「なおさら嫌です」
俺も笑っていた。
自分がチュロスになって売られているのは、普通に納得いかないけれども。かなり納得いかない。できれば今すぐ苦情窓口を探したい。
魔王の名を冠したまんじゅうが売れ、封印せんべいが割れ、聖杭チュロスが子供のおやつになる。魔族は護符を揺らして聖国の通りを歩き、人族は魔族の店で土産を買い、子供たちは勇者と魔王になって走り回る。
かつて憎み合っていた世界は、こんなにも雑で、逞しくて、馬鹿馬鹿しい形で続いている。
俺はもう死んでいて、両親には会えない。元の身体には戻れない。たぶん、あの部屋の布団に帰ることもない。それでも、誰かの命の音を聞きながら、誰かの視界を借りて、こうして生きている人たちを見ることはできる。
それだけで、今日のところは十分なのかもしれない。いや、当然辛いけれどもね?
「いつか食べましょう」
「どうやって?」
「そこはまあ、これから考える感じで」
「雑ね」
「杭なので、脳がねーの!発想力に限界があるの!」
「杭のせいにしないの」
俺の第二の人生は相変わらず杭のままだし、自由に動ける気配もない。けれど、少なくとも退屈だけはしなさそうだ。
なにしろ俺は、ついにチュロスにまでなったのだから。
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聖燐祭の日が来た。
俺には朝焼けも見えなければ、広場に鳴る鐘の音も直接は聞こえない。相変わらず、俺の世界は基本的に暗闇と鼓動で構成されている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
エルドラードの心臓は今日も規則正しい。数百年封印されている魔王様の心音としては、かなり健康的だと思う。いや、魔王の健康診断に詳しいわけではないが。
けれど、今日はいつもと少し違う。
彼女が朝から何度も、外の気配に意識を向けているのが分かる。胸に刺さっている俺には、そういう微妙な変化が伝わるようになっていた。心臓の音がほんの少し速いとか、魔力の流れがわずかに揺れるとか、そういうものだ。
杭生活も長くなると、変な方向に感覚が研ぎ澄まされるらしい。
できれば別の能力が欲しかった。腕が生えるとか、足が生えるとか。外が見えるとかね。まあ、俺は杭なので、まばたき用の瞼からして存在しないのだが。
「今日は随分と賑やかですね」
「ええ。聖燐祭だもの」
「俺を刺してる聖なる杭の記念日みたいな祭りですよね」
「言われてみればそうね」
「今は胸元常駐型話し相手ですけど」
「かなり便利よ」
「便利ではねーです」
そんなやり取りをしている間にも、外の空気はざわざわと膨らんでいく。普段の魔王広場も十分に賑やかだが、今日はさらに濃い。人の気配が波のように押し寄せ、石畳の上を無数の足音が流れていく。
エルドラードが、少しだけ視界を貸してくれる。
暗闇の中に、ふっと色が滲んだ。
魔王広場は、人で埋まっている。
石畳の上に、露店の列。色鮮やかな布屋根。手を繋いで歩く親子。護符を首から下げた魔族。旅装束の観光客。菓子を両手に持った子供。聖国の白い衣を着た案内役。肩に鳥のような小型魔獣を乗せた旅商人。
そして広場の中央には、いつものように透明な箱がある。その中に、魔王エルドラード・ファナブル・ジャンナ。その胸に刺さっている俺。
うん、何度見ても構図がすごい。
「さあさあ、聖燐祭限定! 焼き印濃いめの魔王様まんじゅうだよ!」
「封印せんべい、今日は三枚買うと一枚おまけ!」
「魔王の涙シロップ、春限定の桃味入りました!」
「勇者印の聖水飴! 舐めれば気分は聖剣持ち!」
商人たちの声が飛び交う。
完全にお祭りだ。
もう封印儀式の重さなど一ミリもない。いや、どこかには残っているのかもしれないが、少なくとも露店の商人たちは全力で商売に振り切っている。
魔王を封印するための神聖な儀式が、数百年後には饅頭と煎餅とシロップの販促イベントになる。人類の逞しさが怖い。
「今日も逞しいですね、あの人たち」
「ええ。昔から商人は強いわ」
「魔王より強いまでありますね」
「そうかもしれないわね」
エルドラードが楽しそうに笑う。
彼女はもう、この広場を憎しみだけで見ているわけではない。それはこの数ヶ月でよく分かった。かつて自分を晒し、聖力を浴びせ、力を削ってきた儀式。
それが今では、菓子と土産と子供の遊びに変わっている。
残酷なのか、平和なのか。
たぶん、どちらでもある。
広場の端で、子供たちが走っていた。
一人は木の棒を聖剣のように掲げている。もう一人は黒い布をマント代わりにして、額には小さな本物の角が覗いている。魔族の子供だ。
「我こそは大魔王! 世界中のお菓子を全部もらうぞ!」
「やめろ魔王! それは普通に困る!」
「くらえ、暗黒お菓子没収!」
「聖なるまんじゅう斬り!」
魔王役の子供が木の棒を振り回し、勇者役の子供がそれを受ける。その横では、白い布を肩にかけた女の子が両手を広げていた。
「わたし聖女ね!お菓子はみんなで分けます!」
「聖女が一番まともですね」
「今日の魔王役は前より威厳があるわね」
「今の魔王、目的がただの食いしん坊ですよ」
「そうね……。お菓子を奪うのは大罪よ」
「魔王様基準でも大罪なんですね」
エルドラードが真面目な声で言うので、俺は少し笑いそうになった。杭になってから笑い方はいまだによく分からないが、しっかりと笑っているつもりだ。
その時、視界の端に見覚えのある商品が映った。
細長い揚げ菓子。砂糖をまぶされ、紙袋に刺さっている。露店の札には、堂々とこう書いてあった。
『聖杭チュロス 聖燐祭限定・白砂糖増量中』
「……」
「ユーマ?」
「俺、チュロスとしての方が杭としてより自由に外を出歩いてません?」
「確かに、あちらのあなたはよく売れているわね」
「あちらの俺って何ですか。俺は一人ですよ」
「でも形は似ているわ」
「似てるからって本人扱いしないでください」
露店の前では、子供が聖杭チュロスを持ってはしゃいでいる。そして隣で買った魔王様まんじゅうに、それを突き刺す真似をした。
「封印!」
「おいやめろ!」
俺の叫びは、当然ながら外には届かない。
エルドラードがころころと笑う。
「俺、商品化されてるのに売上の一割も入ってこないんですね」
「杭に収入は必要かしら」
「必要かどうかじゃなくて、気持ちの問題です」
「では、いつか交渉してみましょうか」
「魔王様が聖杭チュロスの権利交渉を始めたら、世界観が迷子になりますよ」
「もう十分迷子ではなくて?」
「それはそう」
俺は素直に認めた。
病弱な青年として死に、異世界の魔王の胸に刺さった聖杭に転生し、その自分を模したチュロスが祭りで売られている。
世界観どころか、俺の人生そのものが迷子だ。
広場には聖力が満ちていた。
これは、エルドラードの感覚を通しているから分かる。普通の光とは違う。熱とも匂いとも違う。白く細かな粒が空気中を漂い、祈りや手拍子や笑い声に混じって、箱へと流れ込んでくる。
人々は祭りの一環として、透明な箱に手をかざす。
厄除け。病魔払い。商売繁盛。恋愛成就。試験合格。肩こり改善。
「最後のやつ、祈る先ここで合ってます?」
「合っていないと思うわ」
「ですよね」
聖力は本来、魔族にとっては毒だ。
けれど、今の聖国では魔族も普通に暮らしている。理由は護符だ。聖力を中和する特殊な札や装飾品を身につけることで、魔族でも聖国の空気に耐えられるらしい。
広場を歩く魔族たちも、首飾りや腕輪、耳飾りの形をした護符を身につけている。護符は淡く金色に光り、空気中の聖力をやわらげていた。
昔は毒だった土地に、今では毒を中和する道具を身につけて暮らしている。戦争の後に残るものが憎しみだけではないのなら、それはたぶん、こういう工夫なのだと思う。
そんなことを考えていた時だった。
勇者と魔王ごっこをしていた子供たちの一人が、勢いよく石畳を蹴った。
あの魔族の子供だ。
首元で揺れていた護符が、遊びの勢いで外れた。小さな金色の札が、石畳の上を跳ねる。カラン、と音がしたように見えた。
「ん?」
俺は気づいた。けれど、子供は気づいていないらしい。勇者役の子供も、聖女役の女の子も、遊びに夢中だ。周囲の大人も、露店や祭りの喧騒に目を取られている。
「エルドラード、今、護符が」
「ええ」
彼女の声が、すっと低くなる。空気が変わった。
商人は声を張り上げ、子供たちは笑い、観光客は箱の前で立ち止まっている。エルドラードの視界だけが、あの魔族の子供を追っていた。
護符を落とした子供は、まだ走っている。だが、数歩進んだところで少しだけ足がもつれた。
「あれ?」
子供自身が首を傾げる。
勇者役の子が笑いながら振り返った。
「どうした魔王! もう負けか!」
「ちが、まだ、やれるし」
魔族の子供は強がるように木の枝を構える。けれど、その顔色が見る見る悪くなっていく。青白い肌が、さらに白く、蝋のように変わる。
聖燐祭の日だ。辺りに満ちる普段よりも濃い聖力。護符を失った魔族の子供。俺でも、だいたい何が起きているのか分かった。
突然、子供の膝が折れた。
「おい?」
勇者役の子が近づく。
その瞬間、魔族の子供は石畳に崩れ落ちた。
広場の一角がざわめく。
「誰か倒れたぞ!」
「魔族の子だ!」
「護符は?」
「護符がない!」
「聖力酔いだ!」
「魔族の治療師を呼べ!」
声が重なる。
けれど、人が多すぎる。聖燐祭の混雑で、広場の動きはすぐに詰まった。誰かが走ろうとして誰かにぶつかり、露店の箱が倒れ、悲鳴が上がる。
倒れた子供の母親らしい魔族の女性が、人混みを押し分けて駆け寄る。彼女の首元にも護符がある。けれど、子供を抱き上げた瞬間、その顔が凍った。
「護符が、ない……!」
エルドラードの鼓動が、少し強く響く。
ドクン。
彼女は分かっている。聖力が魔族の身体をどう蝕むのか。長年にわたって自分が経験してきたその苦痛を、何やりも理解しているのだ。この広場の誰よりも、彼女はそれを知っている。
「エルドラードさん」
「分かっているわ」
彼女の声は静かだ。けれど、その奥に焦りがある。動けない。声も届かない。手足は枷に縛られ、身体は箱の中。
彼女は魔王で、かつて国を消したほどの力を持っていた存在なのに、今は倒れた子供ひとりに手を伸ばすことすらできない。
外の人々は混乱している。
聖力を扱える者たちが慌てて手を引くが、祭りの日の広場には、もう大量の聖力が満ちている。子供の周囲だけをすぐに薄めることはできない。
落ちた護符を探す声が飛ぶ。人々の足元を、誰かが必死に覗き込む様子は滑稽だ。しかし、混雑した石畳の上で小さな札を見つけるのは簡単ではない。
その時、俺はふと思った。
俺、聖杭なんですよね。
もともと、エルドラードを封じるための聖なる杭。つまり、聖力には馴染んでいるはずだ。長年、聖力を受け止め、封魔の力として働いてきた器なのだから。
もっとも、今の俺は少し事情が違う。
この数ヶ月、俺はずっとエルドラードの胸に刺さり、彼女の魔力と鼓動に触れ続けている。彼女の声を聞き、彼女の視界を借り、彼女の魔力の流れを近くで感じてきた。
そのせいなのか、俺自身の感覚は、今では聖力よりも魔力の方に馴染んでいる気がする。
昔は俺の中にあったはずのものなのに、今はまるで、熱湯を無理やり飲み込むような違和感がある。でも、できないとは限らない。
「俺、聖杭なんですよね」
「ええ」
「だったら、あの子に向かってる聖力、俺が吸えるんじゃないですか」
エルドラードが息を呑む気配がした。
「できるかもしれないわ。でも今のあなたには、かなり痛いはずよ?」
「杭になってから痛覚があるとか、仕様としておかしくないですか?」
「苦情は製作者に言ってちょうだい」
「もう絶対死んでるでしょ、その人」
軽口を叩く。そうしないと、怖くなるから。
痛いのは嫌だ。俺は前世で、痛みにはうんざりするほど付き合ってきた。検査も、薬も、夜中の発作も、もう十分だった。なのに、杭になってまで痛いらしい。
本当に損な仕様だと思う。
でも。
倒れている子供が見える。泣きそうな母親が見える。広場で焦る人々が見える。動けない魔王様が、胸の奥で悔しさを押し殺しているのが分かる。
それを見て、何もしない方が嫌だった。
「……ユーマ」
「はい」
「無理はしないで」
「無理しないと、たぶん間に合わないです」
「あなたは本当に、杭のくせに無茶を言うわね」
「杭のくせには余計です」
俺は意識を外へ向けた。
聖力を感じる。広場に満ちる白い粒。祈りの残滓。手をかざした人々が放った力。箱へ向かって流れ込む、長年繰り返されてきた封印の流れ。
それを、俺は思いっきり引っ張った。
倒れた子供の周囲に集まる聖力を、こちらへ。エルドラードの胸に刺さる聖杭へ。瞬間、灼けるような痛みが走った。
「いっ……!」
痛い。いや、痛いなんてもんじゃない。
熱い。苦しい。全身を毒の塗られた針金でこすられているような、骨の髄を白い火で炙られているような、そんな感覚。
ああくそ!痛いものは痛い!
「痛っ、痛い痛い痛い! 杭って痛覚あるんですか!?」
「普通はないわ」
「じゃあやっぱり俺だけ損してません!?」
「たぶん、あなたが特別なのね」
「全然嬉しくない特別!」
叫びながらも、俺は聖力を吸い続ける。
白い力が俺の中へ流れ込む。もともと俺が馴染んでいたはずの力。だが、今の俺にとっては異物だ。エルドラードの魔力に寄り添ってきた俺の感覚が、聖力を拒んでいる。
痛い。
痛い。
痛い。
それでも、子供の周囲の白い濃度が少しずつ薄くなっていくのが分かった。
突然エルドラードが俺に魔力を流してくる。
黒く、深く、温かい力だった。彼女の魔力は本来、人間にとって毒に近いものなのかもしれない。けれど、今の俺にはそちらの方がずっと馴染む。
彼女の魔力が、聖力に焼かれそうな俺を包んでいく。
「ユーマ、意識を離さないで」
「無茶言いますね!」
「あなたが先に無茶を言ったのよ」
「それは本当にそう!」
聖力が俺へ流れる。魔力が俺を包む。本来ならぶつかり合うはずの二つの力が、俺という杭の中で無理やり絡み合う。
その結果、透明な箱が震えた。
ピシリ、と細い音が響く。
外の人々にも聞こえたのだろう。広場のざわめきが、一瞬だけ止まる。箱の表面に、白い線が走っていた。
ひびだ。
「箱にひびが!」
「魔王が何かしたぞ!」
「おい、下がれ!」
「いや、でも、あの子が……!」
人々の声が揺れる。
当然だ。外からは、俺の存在など分からない。
見えているのは、魔王の胸元が白く輝き、透明な箱にひびが入っていく光景だけだ。
倒れた魔族の子供を救うために、聖力が引き剥がされていることも、その中心で、俺が痛みにのたうち回っていることも、エルドラードが魔力で俺を支えていることも、誰にも見えない。
外の人々からすれば、ただ一つ。
魔王様が、何かをしている。
ただそれだけだ。
「ユーマ、もう少しよ」
「もう少しって言葉、病院で何回も聞きましたけど、だいたい信用できないんですよね!」
「では、かなり少し」
「なんだそれ!」
それでも、俺は吸い続ける。倒れた子供の周囲から聖力が薄れていく。母親が子供を抱きしめ、必死に名前を呼ぶ。
その時、誰かが叫んだ。
「あった! 護符だ!」
人族の青年が、屋台の脚元に転がっていた金色の札を拾い上げる。彼は人混みを押し分け、倒れた子供のもとへ走った。
だが、まだ聖力が濃い。
その時だった。箱のひびが、さらに広がった。
ピシッ。
ピシピシッ。
透明な壁の内側で、白と黒の光が渦を巻く。そのひびの隙間から、エルドラードの声が漏れた。
「その子の護符を、早く」
広場が凍りつく。誰もが箱を見たのを感じられた。
魔王の声。数百年、展示物のように置かれていた存在の声。
それは大きな叫びではなかった。命令というより、静かな促しに近い。しかし、そこには大国と渡り合った国を率いた、一人の王としての重みがあった。
その一言で、人々は動いく。
青年が護符を母親へ渡す。母親は震える手で、それを子供の首にかけ、護符が淡く光る。
子供の周囲で暴れていた聖力が、ゆっくりと鎮まっていくのが分かった。白すぎた顔に、ほんのわずか血の気が戻り、小さな胸が上下する。
ああ、息をしている。魔族の子供が、かすかに咳をした。
「っ、あ……」
母親が泣き崩れる。
周囲から、安堵の声が漏れた。誰かが座り込む。誰かが胸を押さえる。勇者役の子供が、泣きながら木の棒を落とした。
俺も、力が抜ける。
いや、杭なので抜ける力も何もないのだが、とにかく精神的にぐったりした。
「……生きてます?」
「ええ」
エルドラードの声が優しい。
「助かったわ」
「よかった」
そう言った瞬間、俺の中を流れていた聖力が大きく跳ねた。
「え」
嫌な予感がした。
聖力は、子供の周囲から俺へ流れ込んでいる。それをエルドラードの魔力が包み込む。白い力と黒い力だ。本来なら混じり合わないはずのその二つが、俺という杭の中で無理やり押し込められている。
どう考えても、身体に悪い。いや、身体はない。杭だ。でも悪い。絶対に悪い。
「エルドラードさん」
「分かっているわ」
「これ、なんかまずくないですか」
「かなりまずいわね」
「落ち着いた声で言わないでください!」
次の瞬間、透明な箱が軋んだ。
ピシリ。
先程よりも更に大きなひびが走る。
その音を聞き、広場の人々が一斉に箱を見た。
ピシッ、ピシピシッ、と音が重なる。数百年もの間、魔王を閉じ込め続けた透明な檻。その表面に、白い稲妻のような亀裂が広がっていく。
「魔王様が……!」
「箱が割れるぞ!」
「下がれ!」
「でも、あの子を助けたのは……」
声が重なる。
外から見れば、起きていることは一つだけ。箱の中の魔王が、聖力と魔力をまとい、封印の檻を壊そうとしているのだ。
「エルドラードさん、これ、俺たちが壊してることになりません?」
「外から見れば、私が壊しているように見えるでしょうね」
「冤罪じゃないですか!」
「魔王にはよくあることよ」
「慣れないでくださいよ!そんなのに!」
箱のひびは止まらない。そして、変化は箱だけではなかった。エルドラードの手首に嵌められていた枷が、淡く光り始めた。聖力を帯びた鉱石で作られ、彼女の魔力の流れを焼き切っていた枷。
その表面にも、細い亀裂が入る。
え、なんでー?
「あ」
俺は思わず声を漏らした。
「枷もいってません?」
「ええ」
エルドラードの声が、ほんの少しだけ震えた。
「……壊れかけているわ」
ピキ、と乾いた音。そして、右手首の枷が割れた。
続いて左手首、足首、もう片方の足首。
長い間、彼女の手足を縛り続けていた聖なる枷が、次々に砕けていく。金属とも石ともつかない不思議な破片が、箱の中に散った。
その瞬間、エルドラードの鼓動が強くなった。
ドクン。
今までより、ずっとはっきりと。
ドクン。
俺のすぐそばで、命が目を覚ます音がした。
「エルドラードさん?」
返事はない。
代わりに、彼女の指が動いた。長い眠りから覚めた人が、自分の身体を確かめるように。
俺は、それを彼女の視界越しに見ていた。
白く細い指。長く封じられていたとは思えないほど整った手。けれど、その動きはぎこちない。数百年ぶりに自分の身体を思い出しているような、頼りない動きだ。
「……ああ、動く」
エルドラードが呟いた。
「動くわ、ユーマ」
「よかったですね」
言いながら、俺はなぜか泣きそうになった。胸の奥が熱くなるような感覚がある。いや、胸はない。胸に刺さっている側だ。ややこしいな本当に。
エルドラードはゆっくりと手を持ち上げる。そして、胸元へ触れた。つまり、俺に触れた。
「ありがとう、ユーマ」
「いや、胸に刺さった杭を撫でる構図、だいぶ変ですよ」
「そうかしら」
「そうです」
彼女は小さく笑った。
次の瞬間、大きな衝撃を伴って箱が砕けた。長い時間に耐え続けた透明な檻が、限界を迎えたように崩れていく。光を含んだ破片が、花びらみたいに舞った。
広場に風が流れる。
エルドラードの美しい銀の髪が揺れた。
風だ。数百年ぶりに、彼女の肌へ直接触れる外の風。
エルドラードは、ゆっくりと顔を上げた。
広場は静まり返っている。誰も動かない。誰も声を出さない。まあ、当然だろう。ここで行われてきた散々な行いを理解しているからこそだ。
数百年もの間、名物として、祭りの中心として、待ち合わせ場所として、商品名として扱われてきた存在が、今、透明な檻の外に立とうとしている。
恐怖が広がる。
それは当然だ。人々にとって、彼女は歴史の中の魔王だ。しかし、例え現代では観光名所になっていたとしても、動き出した瞬間、伝承は急に現実になる。
エルドラードは、ゆっくりと立ち上がろうとした。
だが、足に力が入らない。
「あ」
「エルドラード?」
彼女の身体がぐらりと傾いた。数百年ぶりに自由になった魔王様は、そのまま普通に転びかけた。
「ちょ、魔王様!?」
「足が、思ったより……」
「数百年ぶりですもんね!」
「そうね。少し、忘れていたわ」
「歩き方を!?」
エルドラードは箱の縁だったものに手をつき、なんとか体勢を保った。広場の緊張が、少しだけ変な方向に揺らぐ。
魔王復活。封印崩壊。世界の危機。
その第一歩が、まさかの足元ふらつき。
これは怖いのか、心配すればいいのか、判断に困るやつだ。すると、先ほど助けられた魔族の子供が、母親の腕の中から顔を上げた。
まだ青白い顔のまま、けれど小さな声で言う。
「魔王様……ありがとう」
その声が、広場に落ちた。
魔王が声を上げたことが、分かっているのだろう。
母親もまた、泣きながら頭を下げる。
「魔王様、ありがとうございます。この子を、助けてくださって」
人々は動けない。
恐怖と困惑と、さっき目の前で起きた事実の間で揺れている。そのきっかけは、倒れた魔族の子供を救うためだった。誰も、どう反応すればいいのか分からないのだろう。
エルドラードは少しだけ目を伏せた。
「変な気分ね」
「感謝される魔王様って、かなりレアですね」
「そうね。昔の私なら、まずありえなかったわ」
「今のあなたなら、ありえるんじゃないですか」
「そうかしら」
「少なくとも、足元ふらついてる魔王様は、だいぶ人間味ありますよ」
「私は魔族だけれど」
「そこは言葉の綾です」
エルドラードは、ふっと笑った。
その笑みが外の人々にも見えたのだろう。広場の空気が、ほんの少しだけ緩む。
人々は見たからだ。数百年封じられていた魔王が、最初にしたことを。
それは復讐でも破壊でもなく、倒れた子供を救うことだった。やがて、誰かが小さく拍手をした。
一人。二人。それが広がっていく。
ぱらぱらとした不揃いな拍手だ。
祝福というには恐る恐るで、称賛というには戸惑いが多すぎる。それでも広場の人々は彼女へ向かって拍手を送っていた。
「なんか、すごいことになってますよ」
「ええ」
「拍手されてますよ」
「変な気分だわ」
「今日二回目ですね、それ」
俺は軽口を叩く。
「ユーマ」
「はい」
「外の風って、こんな感じだったのね」
エルドラードが、ぽつりと言う。俺は、その言葉に何も返せなかった。
「エルドラード」
「なに?」
「その、歩けそうですか」
「少し待って。今、思い出しているところよ」
「歩行って記憶から掘り起こすものなんですね」
「数百年ぶりだもの」
「リハビリから始まる魔王復活、だいぶ平和ですね」
「悪くないでしょう?」
「悪くないです」
その時、広場の端から小さな声が飛んできた。
「ま、魔王様……!」
声の主は、聖杭チュロスの屋台の店主だった。こんな状況で何を言うつもりだ、と思ったら、店主は震える手で紙袋を差し出していた。
「こ、これ……よろしければ……聖杭チュロスです……」
「このタイミングで!?」
俺は叫んだ。残念ながら外には届かない。だが、エルドラードは少しだけ目を丸くし、それから楽しそうに笑う。
「ユーマ」
「はい」
「あなた、差し出されているわ」
「俺じゃなくて、チュロスが、です」
「似ているわ」
「似てません」
「細長いところが」
「物理的特徴だけで同一視しないでください」
エルドラードは、ふらつきながらも一歩だけ前へ出る。
人々が息を呑んだ。
魔王の復活というより、長く寝込んでいた人の最初の歩行練習に近い。まあ、彼女にとっては数百年ぶりの一歩なので、あながち間違いでもないか。
エルドラードはチュロスを受け取ろうとして、ふと動きを止める。
「これ、食べてもいいのかしら」
「本人確認みたいな言い方ですね」
「だって、あなたでしょう?」
「違げーます!」
彼女はまた笑った。その可憐な笑顔を見て、広場の人々の中から、少しだけ笑い声が漏れた。
世界征服でも復讐でもなく、まずは外の風を浴びて、聖杭チュロスを受け取る。そんな魔王様と、そんな魔王様の胸に刺さった聖なる杭。
俺の第二の人生としては、相変わらず意味が分からない。砕けた箱の破片が、夕暮れの光を受けてきらきらと光っている。
この広場に透明な檻はもうないからね。
息抜きに書いた作品ですので、普段の物よりもずっと素案に近い形ですが、後で肉付けしやすそうなのでこの形にしました。
ユーマとエルドラードが送るであろうのんびりとした旅路は、どこに続いているのでしょうか。それは彼らのみぞ知ることですね。
ちなみにエルドラード・ファナブル・ジャンナという名前は、私の大好きなカリーム・アブドゥル・ジャバーを文字っているだけですので、特に深い意味とかはありません。




