記憶喪失
「うわあああぁぁ!!」
峠道に少年の叫び声がこだまする。
二〇三六年の秋も深まる季節、乗用車に跳ね飛ばされ、木の葉の如く舞う少年の身体と、無残に割れた自転車のカーボンフレーム。麓に巨大なUFOを臨む峠での、不幸な交通事故であった。
― 同日夕刻 所沢市内の総合病院にて ―
異様な雰囲気を孕んだ若い男女が受付の医療事務職員に尋ねる。「異様」と形容したものの、何が「異様」なのかを一言で表すことは難しい。女性の方はかなり小柄で怪我をしているのか、包帯を頭に巻いているが、服装にも不審な点はない。
だがなにか、雰囲気が異様なのだ。そうとしか表現のしようがない。ともかく、男が尋ねた。
「この病院に交通事故でケガをした武石丈という男が搬送されてきましたね? 見舞いに来た者ですが、どこの部屋ですか?」
目つきが鋭いわけではない。語気が強いわけでもない。それでもなにか鋭い雰囲気を感じさせる、眼鏡の男の放つ威容に圧倒される事務員であったが、病室を教えると特に不審な点もなく二人は病室へと歩いていった。
「個室ね。そんな酷いケガなの?」
「そう聞いている」
― 同時刻、同病院のとある個室にて ―
「お兄ちゃん、車にはねられたにしては元気そうだけど、ホントに大丈夫なの?」
「大丈夫だって。先生も精密検査の結果に問題がなければ、今日だけ様子を見て、明日には退院だって言ってたし」
「だから反対だったのよ、あんな速度の出る自転車で公道を走るなんて、危険だって言ったでしょ?」
「俺が自分のバイト代で買ったんだから別にいいだろ。交通違反してたわけでもなし」
ベッドに寝ている少年は包帯などもしておらず、車に撥ね飛ばされたにしては元気そうな様子である。そのベッドのわきで彼を責めている二人は母親と、妹と言ったところだろうか。
こちらもあまり深刻そうな様子はなく、どちらかというと彼の不注意を窘めているといったところである。軽傷であればこそ憎まれ口をたたく事にも抵抗がない、微笑ましい風景だ。
「とにかく、入院費も相手側の保険で出るんだから、もうそんな言わないでくれ。大袈裟なんだ」
「……はぁ、まあいいわ。じゃあ明日また迎えに来るから、今日はもう帰るわね」
「自転車粉々らしいね。ざまあ♡」
「お前っ……」
最後の憎まれ口をたたく妹に枕を投げつけようと構えた少年であったが、彼女はすぐに入り口の向こうに消えてしまった。
ロードバイクは台湾製で、ポリマー構造のフレームにカーボンシートを積層した高価なものではあるが、中古なので実はそれほど入手に困難を要したわけではない。
何より今回は一〇〇パーセント相手側の過失という事で壊れた自転車も保険で新しい物が手に入る。という事で彼にほとんど痛みはない。むしろ自転車が新しくなるのでラッキー、といった具合だ。
斯様な事情で実際にはその枕を投げつけようとする演技ほどには怒ってはいない彼は、振り上げた枕を丁寧に整え、上体を倒して後頭部をその中に沈めた。
家族に心配をかけてしまったという事は分かっており、少し後ろめたい。
申し訳ない態度を見せて謝罪するほどには大人ではないが、少しでも自分にも弱みがあるのだ、というところを見せて、この罪悪感を薄めたかったのだ。もっとも実際にはそれを言語化できるほどに彼は頭がいいわけではないが。
「行ったか……」
「ん?」
母と妹が去ってからほんの一分ほど経った頃か、少年の耳に聞きなれない男の声が聞こえた。
倒した上半身を再び起こす。視界に入ったのは眼鏡の男と、包帯の少女だった。
「無様だな、武石ジョー」
身に覚えはない。誰か。
『武石丈』は確かに少年の名前であるが、ジョーはこの二人に面識はない。
「誰だあんたら? なんで俺の名前を……あ、部屋の表札を見たのか?」
「?」
元々疑問に思う事があれば自分で深く考えるよりは人に聞く方が早い、という思考回路を持った少年である。
それ故その疑問を素直にぶつけてみたのだが、反応が芳しくない。
「どういう意味だ?」
どういう意味もこういう意味もない。誰か分からないから誰かと聞いているのだ。なぜ自分を訪ねてきたのか。何者なのか。家族がいなくなったのを見計らって入室してきたようなタイミングも気になる。それも含めての「誰だ?」
「あれ? え?」
眼鏡の男は数歩下がって病室の表札を確認し、すぐに戻った。
「ジョー……だよな」
「ふざけているの? ジョー。私が闘えない今、戦力になるのは、あなただけなのに」
「闘う? ちょっと待ってくれ、本当に何の話だ? ていうかまずあんた達は誰なんだ? 初対面だよな!?」
男も女も、ジョーが「全てを知っている前提」で話を勧めようとする。というよりは「知っていて当然、知らないなどという事は全く想定していない」風である。
「誰……なんだよ。マジで」
しかし知らないのだ。全く。これっぽっちも記憶にない。このメガネの男と少女に、ジョーは全く会った心当たりがない。
「まさか……」
脂汗を垂らしながら眼鏡の男が呟く。
「記憶喪失……なのか?」
「記憶喪失!?」
眼鏡の男の言葉に、少女とジョーは同時に聞き返した。
「車に撥ねられて、頭を打って、記憶喪失になったって……そういうことなの?」
「き……」
少女の言葉にジョーは頭を抱える。
「記憶喪失になっていたのか、俺は……」
CTスキャンも取った。精密検査の結果が出るのはもう少し先だが、異常はなかったはずだ。しかしまさか、自分が記憶を失っているなどとは思いもよらなかった。
当然だ。記憶を失ったことを記憶していないのだから、本人は記憶を失っているかどうかなど分からないのだ。
衝撃の事実に眼鏡の男はショックを受け、体を大きくぐらつかせた。彼が友人なのかはたまたバイト仲間か何かなのかは分からないが、知人が自分の事を覚えていないと分かれば、それも当然であろう。男はズレた眼鏡を直しながら言葉を発する。
「まさかとは思うが、私達の事を覚えていないという事は、自分のことも覚えていないのか?」
「お、覚えているとも。俺は武石ジョー、高校二年生。空手をやっていて……」
「違う! そんな表層的なことじゃない」
眼鏡の男が叫ぶ。しかし叫ばれても「思い出せないこと」を「思い出すこと」はできない。そもそも「何を覚えていない」のかを「覚えていない」のだから。
「君が、悪を倒すヒーローだってことをだッ!!」
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「あ、武石さんのお見舞いに来たご家族ってもう帰られました?」
そろそろ今日の業務も終わりかという頃合いになって、年嵩の看護師が事務員に尋ねる。
「そうだ、間違えずに案内しましたよね? 今この病院に武石丈さんって、二人入院してるから」




