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7話:観測者たちの歪み

 演習室から出た学生たちのどよめきは、廊下を伝って研究棟の端まで届いていた。


 その喧騒から離れた場所に、オズワルド・ラトクリフが立っていた。


 壁に背を預け、腕を組んでいる。

 組んだ腕の下で、指が自分の二の腕を強く掴んでいた。爪が布越しに食い込む感触があったが、緩めなかった。


 オズワルドは実演を見ていた。演習室の後方、壁際の隅に立って、最初から最後まで見ていた。


 灰白色の石。蝋燭ほどの火。

 そして、30センチの石壁が粉塵に変わる瞬間。


 あの火は、自分にも灯せる程度のものだった。


 オズワルドの魔力は平均的だ。アルフレッドの火と同等か、あるいはわずかに上回る。つまり、あの現象を――あの破壊力を自分の手でも再現できる可能性がある。


 胸の奥で、何かが脈打った。希望と呼ぶには暗く、絶望と呼ぶには熱い。

 名前のつかない感情だった。


 不意に父の顔が浮かんだ。


 ラトクリフ家の三男として学院に入れられたのは、父の面子のためだった。長兄と次兄には期待がかけられ、投資がなされ、道が用意された。


 オズワルドに用意されたのはラトクリフ家の装飾のための枠だけだった。


 入学した日に父が言った言葉を、オズワルドは正確に覚えている。


 「恥をかかなければそれでいい」


 期待でもなく、要求ですらもなかった。

 ただ、存在を許可する条件の提示だった。


 次兄が、先週の手紙に綴っていた。「お前には俺たちがいる」と。

 その一文は、やわらかな筆致のまま紙の上に置かれ、押しつけがましさも、含みもない。ただ、変わらぬ兄の声音をそのまま写し取ったような言葉だった。


 善意は疑いようもなく、本物だった。

 だからこそ、それを受け取るたびに、胸のどこかが軋む。


 「お前には俺たちがいる」その言葉の裏に、言葉にならないもう一つの意味が透けて見える気がしてならない。

 支えがあるということは裏を返せば、支えなしでは立てないという前提を含んでいる。オズワルドは、ずっとそう受け取ってきた。


 その解釈が正しいかどうかは問題ではなかった。そう感じてしまう思考の癖が、すでに骨の内側まで染み込んでいる。


 だからこそ、あの実演を目にしたとき、胸に灯ったものは希望の光ではなかった。


 渇望だ。

 あれは高貴な血筋が独占する「魔術」ではない。


 持たざる者が、知識という牙で強者の喉元を食い破るための「武器」だ。


 それさえあれば、父を見返せる。兄たちの慈悲深い視線を、恐怖に変えられる。

 暗がりの中で、オズワルドの目は獲物を定めた獣のような光を放っていた。


 しかし、先ほど発表された「基礎」の説明だけでは、あの現象は再現できない。それはオズワルドにはわかっていた。位相の同期という概念は説明されたが、具体的な触媒の配合も、温度の閾値も、石の内部構造も、何一つ示されていない。


 レン・アステリアはまだ何かを隠している。


 その確信は、実演の直後に得た。演習室を出る瞬間、アルフレッドが上着の内ポケットからノートを取り出し、胸に抱え直す仕草をオズワルドは見ていた。壁際の暗がりから、目だけで追っていた。


 革表紙の、使い込まれたノート。角が擦り切れ、厚みがある。あの中に基礎の向こう側にある核心が記されているのかもしれないと。


 「蛇の知恵」という言葉が、頭の中に浮かんだ。どこで聞いた言葉だったか、思い出せないが、あのノートの中身を知りたいという欲求が、喉の奥で乾いた塊になって詰まっていた。


 廊下の角を曲がり、人気のない階段を降りた。足音だけが石壁に反射して、自分の背後から追いかけてくるように聞こえた。


 手を見ると、爪が二の腕に残した半月型の痕が薄く赤くなっていた。


 まだ何もしていない。

 その「まだ」が、何かの準備であることを、オズワルド自身は認めなかった。



 同じ時刻、中庭に面したテラスの手すりに、一人の生徒がもたれていた。


 シルヴァン・ディートリヒは手帳を開いていた。


 万年筆のペン先が紙の上で止まっている。書くべき内容は頭の中にある。だが最初の一語を選びあぐねていた。


 演習室で見た光景を、正確な言葉に変換する必要があった。感情を混ぜてはならない。事実だけを書く。それがシルヴァンの記録の原則であり、秩序の最小単位だった。


 ペン先が動き始めた。


「レン・アステリア。実演記録。日付――」


 日付を書き、次の行へ。


「アルフレッド・エルヴァールの火属性魔術(推定:下級)と、未同定の地属性触媒を用いた合同実演。出力は防護壁(推定厚30cm)を完全に破壊。中級魔術師の全力放出に匹敵、もしくは上回る」


 ここまでは事実だった。観測した結果をそのまま記述している。問題は次だった。


 ペンが止まった。


 シルヴァンが演習室で感じたのは、驚きではなかった。恐怖でもなかった。もっと根源的な違和感だった。


 あの実演は完璧すぎた。


 魔術には揺らぎがある。術者の体調、精神状態、環境中のマナの流れ――それらの変数が出力にランダムな揺らぎを与える。上級魔術師であっても、同じ術式を二度実行すれば、出力には数パーセントの差異が生じる。それが魔術の自然な姿だ。


 レンの実演には、その揺らぎが一切なかった。


 石の配置を数ミリ単位で調整していた。アルフレッドの火を「一点に接触させた」――その接触の位置と角度が、完全に制御されていた。出力の方向、拡散の角度、粉塵の飛散パターンに至るまで、全てが設計された通りに進行したように見えた。


 魔術師が魔力を行使する時、そこには必ず「人間の手」の痕跡がある。意志の揺らぎ、集中の波、マナ回路のわずかな不整合。それが魔術を魔術たらしめている。完璧な再現性は、魔術の本質と矛盾する。


 完璧な再現性を持つのは機械か、あるいは魔術とは別の体系で動いているものだ。


 ペン先が再び動いた。


「異常な制御の完璧さ。ランダムな揺らぎが一切観測されない。属性の相殺が起きるべき組み合わせでの異常出力。説明として提示された『位相の同期』は、既存の魔術理論に前例がない」


 書きながら、シルヴァンの思考はさらに先を走っていた。


 レンが見せた光景に、シルヴァンは「美しさ」を感じなかった。感じたのは、秩序に対する脅威の予感だった。

 この世界の魔術の理――マナの法則、属性の均衡、才能による序列。それらの上に社会が成り立っている。


 レンの実演は、その理を根底から覆しうる何かを含んでいた。


 誰でも再現可能であるということは、序列が意味を失うということだ。序列が意味を失えば、秩序の崩壊を意味する。


 シルヴァンは秩序の崩壊を恐れていた。それは悪意からではなく、秩序の中にしか自分の居場所がないと知っているからだった。


 名門の生まれではない。突出した魔力もない。品行方正と勤勉さだけで教師陣の信頼を勝ち取り、その信頼の上に立っている。秩序が崩壊すれば、信頼の基盤ごと足元が消える。


 最後の一行を書いた。


「要観察・報告対象。魔術文明を損なう恐れのある『効率化』の推奨者」


 ペンを置き、インクが乾くのを待ってから手帳を閉じた。


 一人は知識欲ゆえに。一人は正義ゆえに。動機は正反対だが、視線の先にあるのは同じものだった。

 レンが演習室で放った光は、それを見た者の内側にある暗い場所をも照らし出していた。


 演習室の喧騒が収まった後、誰もいない観覧席の上段に一通の封筒があった。


 ――レン・アステリアが凡庸な学生と共に掲げた理論が、中級魔術師を凌駕する破壊を見せた。


 その報告が、重い扉を叩くのは時間の問題だった。

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