1話:風が変わるとき
研究棟への道は、もう体が覚えていた。
廊下の曲がり角、石畳のつなぎ目、三つ目の魔術灯の下でわずかに天井が低くなる箇所。一年通い続けた経路は、考えなくても足が動く。並んで歩くアルフレッドの足音も、半歩分ずれたリズムも、いつも通りだった。
違うのは、声のトーンだけだ。
廊下の角を曲がりながら、アルフレッドが言う。笑顔ではなく、もっと真剣な顔で、前を見ながら。
「もう理論は揃っている。あとは実装して、実証するだけだな」
レンは一瞬だけ足を止めそうになって、やめた。歩調を崩さずに答える。
「もう少し、検証してからでいい」
「そうか? もう十分なんじゃないかと俺は思うんだけど」
「前から言っているが、急ぐ必要はない」
アルフレッドが横目でレンを見た。問い返すような間が生まれ、それからまた前を向く。
「……わかった。お前が言うなら。でも、今年は必ず形にしよう」
疑いを挟むことのない、純粋な信頼だった。
レンはその言葉を無意識のうちに胸の奥深くに沈めた。感情を振り返る暇もなく、彼はそれをまるで冷徹な記録として扱うことに決めた。
しかし、心の奥底で何かが確実に壊れつつあるのを感じていた。
毎回、自分を抑え込むたびに、無理矢理押し込めた感情が爆発しそうになる。
その不安定な状態が、どこかで自分を崩壊させるのではないかという恐怖に変わる。だが、その恐怖もまた無視するしかなかった。
研究棟の扉が見えてきた頃、廊下の反対側に人影があった。
本を胸に抱えて立っていた。名前は先週ようやく人から聞いた。シルヴァン・ディートリヒというらしい。こちらに気づいていないふりをしながら、観察しているようだった。一度すれ違っただけでも、そういう視線の持ち方には気付いてしまう。
二人がすれ違う瞬間、シルヴァンが静かに会釈した。礼儀正しく、品行方正に。レンも同じように頭を下げる。
その後ろ姿が廊下の奥に消えてから、アルフレッドが呟いた。
「シルヴァン、今年も同じクラスだな。なんか、あいつといると空気が張り詰める気がするのは俺だけか?」
アルフレッドは冗談めかしているが、視線はまだ廊下の先に残っている。
「お前はいつも、気にしすぎだ」
先ほどの一瞬、視線が触れ合わなかったこと自体が、互いの認識を証明している。あの男は、偶然を装い、目だけで距離を測る男だ。踏み込まず、だが決して退かない。
レンは何事もなかったように前を向く。
張り詰めているのは空気ではない。均衡だ。まだ破られていないだけで、確かにそこにあった。
研究棟の扉を開けると、古い木材と羊皮紙の匂いが染み出してきた。いつもの匂いだ。変わっていない。世界が変わっても、この匂いだけは変わらない。レンにとって数少ない、安定した座標の一つだった。
「まず今日は、あの続きをやろう」
アルフレッドが席に着きながら言う。鞄から羊皮紙を取り出し、広げる。去年の夏前に議論が止まっていた、マナの循環経路の図だ。線が幾重にも重なり、節点が複雑に絡み合っている。
「放出速度の制御に、まだ精度が足りない」
レンも自分のノートを開いた。
ページをめくる手が、一つ先の頁で止まりかけた。符号を反転させた計算式が書いてある。増幅への応用を記して、そのまま閉じた頁だ。
誰にも見せていない。アルフレッドにも見せるつもりもない。レンは目的の頁を開き、そのページには触れなかった。
「去年の最後の計算、覚えてるか?」
アルフレッドが顔を上げる。
「放出速度を一定に保つために、触媒の配置を変える、っていう仮説だろ。あれ、俺はまだ有効だと思う」
「俺もそう思う。でも、一定に保つためには、放出を開始するタイミングの制御が先だ」
「タイミング?」
「反応が始まる前の段階で、すでに方向性が決まっている。詠唱の最初の一音。その震えが空気を裂き、見えない流れの向きを決める。マナはその瞬間、進路を固定する。だとすれば——」
「その最初の一音を、もっと精密に設計すればいい」
アルフレッドが目が輝かせながら、身を乗り出す。好奇心が全面的に出てくる瞬間。だ。これこそが彼らしい顔だ、とレンは思う。
(一年間ずっと、この顔を横で見てきた。あと何度、見られるのだろう)
問いは浮かび、すぐに消えた。
答えの出ない問いは、思考の邪魔になるだけだ。
「最初の一音を精密に設計するか……。でも、それって術者によって全然違うんじゃないか?」
「だから難しい。個体差を超えた普遍的な制御則を見つける必要がある」
「普遍的な——」
アルフレッドがそこで口をつぐんだ。視線が中空に向く。考えている時の顔だ。顎をわずかに引き、眉の間にかすかな皺が寄る。
沈黙が研究室に満ちた。廊下から遠い声が届き、また遠ざかる。魔術灯がかすかに揺れ、壁に落ちる二人の影が細く動いた。
「面白い問い方だ」
アルフレッドがまた前を向く。
「普遍的な制御則って、つまり術者の個性に左右されない何かが、術式の底にあるってことだよな?」
「そう読んでいる」
「もしかしてお前、前世からそんな頭してたんじゃないか?」
軽口の調子で、アルフレッドは笑う。
「……前世、って?」
レンはその言葉にほんの一瞬、言葉を詰まらせた。心の中で、忘れかけていた感覚が少しだけ蘇ったからだ。
九条蓮としての記憶は、まるで遠くの景色のようにぼんやりとしか見えない。目の前の現実に引き寄せられて、あの時感じた痛みや決断の重みが、今ではただの影に変わってしまった。
だが、それは今の自分を形作るための不可欠な欠片だった。
「ごめんごめん、冗談だよ。いや、なんかさ。お前の言葉って時々すごく古い感じがするんだよな。今ここで習った理論を使ってるはずなのに、もっと前から知ってたみたいな話し方するだろ。その考えがどこから来てるのか、気になっただけ」
レンは一拍、間を置く。ただ、思考が一瞬だけ空白になった。
「物の見方の癖だろう」
短くそう返すと、ペンを持ち直す。
「ふうん」
アルフレッドは頷いて、また羊皮紙に目を落とした。疑っていない。ただ面白がっている。それが彼の癖だった。問いを立てるが、詰め寄らない。答えが来なければ、別の面白いものを探しに行く。
その性格が、今日も命綱になった。
「よし、今日はここを詰めよう」
アルフレッドがペンを取る。羊皮紙に線を引き始める。手が迷わない。考えながら描く人間の線だ。
レンも自分のノートにペンを走らせた。
二人分の筆記音が重なる。廊下の気配が遠い。窓の外では、乾いた風が研究棟の外壁を撫でていく。ここだけが、変わらない。この部屋だけが、一年前と同じ温度を持っている気がした。
「ところで──」
アルフレッドが顔を上げずに言う。
「お前、最近少し変わった感じがするな。なんか……目の奥が遠くを見ているような、そんな感じがする」
レンはペンを止めなかった。止めたら、気づかれる。
「お前は本当に、色々なことを気にし過ぎだ……」
アルフレッドが「そっか」と言って、また線を引き始めた。その声には、引き下がる気配はあったが、納得した気配はなかった。
レンはページの端に小さく数字を書いた。今日の日付だ。
記録する習慣が、前世から抜けない。観察したことは、書き留める。自分が何を感じているかではなく、何が起きているかを。そうしなければ、いつか自分の思考の歪みに気づけなくなる。前世でも、そう学んだ。
アルフレッドが「今年は必ず形にしよう」と言った。
窓の外の木が揺れ、乾いた葉擦れの音が石壁を通して微かに届いた。去年と同じ木だ。同じように揺れている。
ただ、その葉の色だけが、知らぬ間に季節の側へ傾いていた。




