1話:やっと、あなたに
初夏の日差しが学院の高窓を白く照らし、廊下の空気はすでに熱を帯び始めていた。
アルフレッドとの研究も途切れることなく続いており、魔力増幅理論は試行錯誤を重ねながら少しずつ輪郭を帯び始めている。まだ公にできる段階ではないものの、机上の数式が現実の術式へと近づいていく感触を、レンは確かに掴みつつあった。
午後の訓練場に生徒たちの足音が響き渡る中、熱を孕んだ風が石畳を撫でていった。各学部の生徒たちが広場に集まり、ざわめきが空気を満たしている。
学部間交流の行事が始まろうとしていた。レンとアルフレッドは、理論魔術学部の列に並び、周囲の様子を眺めていた。
「もう合同訓練の相手は見つかったのか?」
アルフレッドが呟く。
「いや、まだ決まっていないが、誰に声をかければ良いんだ……」
アルフレッド以外の友人がいないレンは、困惑していた。
その時、訓練場の門が重々しい音を立てて開いた。ギィという金属の軋む音が響き、戦闘魔術学部の生徒たちが整列して入ってきた。その足音が揃い、規則正しいリズムを刻んでいた。
囁き声が波のように広がっていく。
その中にひと際目立つ、一人の少女を見つけた。
彼女の赤い髪が陽光を弾き、炎のように揺れている。琥珀色の瞳が光を反射し、背はレンと同じくらいだ。黒い学院の制服を着ているが、その立ち姿には気迫がある。まっすぐ前を見て、堂々と歩き、周囲の視線をまったく気にしていない様子だった。
学院長が壇上に立つと、場の空気が引き締まった。
杖が床を突く音が一度、乾いた響きを伴って広がり、波紋のように場内へと行き渡ると、それまで漂っていた喧騒は自然に収束していった。
「諸君、本日より各学部の交流を深めるため、合同訓練を実施する。まず、各学部の代表者に挨拶をしてもらおう。戦闘魔術学部、セラフィナ・ヴォルテール、前へ」
名を呼ばれると、セラフィナは迷いなく壇上へと歩み出る。その歩幅は揺らぐことなく一定で、踏み出すたびに意志の強さが地面に刻まれていくかのようだった。壇上に立ち、ゆっくりと生徒たちを見渡す。その視線は逃げず、真正面から場全体を捉えていた。
そして一度だけ息を整え、口を開く。
「セラフィナ・ヴォルテールです」
彼女の声が訓練場に響き渡った。
はっきりとした強い声で、迷いがなく、自信に満ちていた。
「ヴォルテール……か」
レンは小さく呟いた。その名前を聞いたことがある。新興貴族――古い家柄ではないが、実力で成り上がった一族だ。噂によれば、父親は平民出身でありながら、戦場で数々の武功を立て、王から爵位を授けられた人物だという。
「私は誰にも負けません。魔術でも、学問でも。頂点を目指します」
その目には、燃えるような意志の強さが宿っている。まるで、炎そのものを纏っているかのようだった。
セラフィナが壇上を降りる。その歩みは一切の迷いを含まず、まっすぐに定められた軌跡をなぞるように進んでいく。各学部の生徒たちの前を通り過ぎるたび、周囲の空気がわずかに引き締まり、自然と視線が一箇所へと集約されていくのが分かる。
その存在は、場の中心を奪い取っていた。
そして、彼女の目がレンを捉えると、ほんの一瞬だけ視線が交わった。
その刹那、胸の奥がわずかに強く脈打つ。あの瞳に宿っていたものが何であったのか、レンには判然としない。挑戦の色だったのか、興味の揺らぎだったのか、それとも別の何かだったのか。
やがてセラフィナがレンの前を通り過ぎようとした、その瞬間。彼女は足を止めることなく、ほとんど息に紛れるほどの小さな声でつぶやいた。
「やっと……あなたに、近づける」
ざわめきに紛れるほど小さな声だったのに、なぜかレンの耳だけに刺さった。耳元で直接告げられたかのような錯覚さえ覚えるほどだった。
レンは思わず息を止め、その背中を目で追う。赤い髪が風に揺れ、陽光を受けてひときわ鮮やかにきらめきながら、ゆっくりと遠ざかっていった。
学院長の訓示、代表挨拶、訓練の説明――式は淡々と進み、気づけば陽光はゆるやかに傾きはじめていた。
長い一日の締めくくりとともに生徒たちが散っていく。
レンとアルフレッドもまた教室へ戻ろうと石畳の廊下を歩き出す。静まりかえった回廊の奥へ、二人の足音は吸い込まれていくはずだった。
しかし、それとは別の足音が一定の間隔を保ちながら背後から重なってきた。その気配に気づく間もなく、澄んだ声が背を打った。
「待ちなさい」
二人が振り返ると、そこにはセラフィナが立っていた。
夕刻の光を受けた琥珀色の瞳はまっすぐにレンを射抜き、その視線は鋭く、まるで獲物を定めた猛禽のように揺るがなかった。
「あなたたち、理論魔術学部ね?」
「ああ、そうだが」
アルフレッドが訝しげに応じると、セラフィナの視線はまた、ゆっくりとレンへ移り、はっきりと彼だけに向けられた。
「あなたが、レン・アステリア?」
問いかけは穏やかな響きを保っているが、その奥には確かに探りの意図が潜んでいる。表面の柔らかさとは裏腹に、核心へ触れようとする意志が静かに滲んでいた。
「……そうだ」
名を認めた瞬間、彼女はためらいなく一歩踏み出す。その距離の縮まりとともに、琥珀色の瞳がまっすぐレンを捉え、値踏みするように細部まで観察していた。
レンは一瞬、言葉を詰まらせる。そのわずかな間ののち、慎重に選んだ言葉を落とした。
「……だが、俺はその名に足らないただの凡庸な術者だ」
その返答を受けたセラフィナは、わずかに目を細める。琥珀色の光が収束するように鋭さを帯び、見逃しを許さない観察の色へと変わっていく。
「嘘ね! それなら、あんな炎を出せるわけないもの」
セラフィナがレンの目を見つめる。その視線は鋭く、まるで心の奥まで見透かすようだ。
「あなたの目、何かを隠してる。秘密を持っている人間の目よ」
鼓動が一度、大きく跳ねる。身体の内側で生じたわずかな揺らぎが、意識の表層にまで伝わり、呼吸の間隔を僅かに乱した。
だがそれ以上に、思考の中で積み上げてきた前提が、崩れかけている感覚のほうが問題だった。
「……何を言っている?」
「入学試験の時、見てたの」
セラフィナの声には、確信が滲んでいた。
「中庭で、午後の試験。あなたが魔術を披露した時――」
レンの心臓が、再びドクンと強く跳ねる。
「あなたが手をかざした時の青緑色の炎、神秘的で美しかった」
セラフィナの声色には興奮が今もなお、残っているようだった。彼女はわずかに視線を遠くへ流し、あの日の光景を思い出しながら、続けた。
「あれは普通の魔術じゃない。何か特別なものだって、すぐにわかったわ」
レンは言葉を失った。
「それから、あなたのことを調べさせてもらったの。アステリア家の息子、魔力は平凡、理論魔術学部に所属――でも、おかしいのよ。あんな魔術を使える人間が、本当に平凡なはずがない」
静かな声でそう告げながら、セラフィナはさらに一歩踏み出す。靴音が石床に硬く響き、その余韻がレンの鼓動と奇妙に重なった。
「だから、直接確かめたいの。そのために、今回の合同訓練であなたと組むことにしたわ」
思いがけない言葉に、レンとアルフレッドは同時に声を漏らす。
「私は戦闘魔術学部の代表よ。理論魔術学部から――あなたを指名させてもらうことにした」
「待て、それは――」
レンが抗議しかけるが、セラフィナはかすかに首を振る。
「学院長の許可はもう取ってあるわ。来週から楽しみにしているわね、レン・アステリア」
そう告げると、彼女は迷いなく踵を返した。炎を思わせる赤い髪が夕光を受けてゆるやかに揺れ、その背は一切の躊躇を見せずに廊下の奥へと遠ざかっていく。足取りは一定で振り返る気配もなく、周囲の空気に溶け込むように薄れていった。
レンとアルフレッドはその場に立ち尽くしたまま、しばらく動くことができなかった。回廊を抜けて吹き込んだ風が、ひやりとした感触で頬を撫でていった。
「……かなり本気な目だったな」
アルフレッドが、呆れとも感心ともつかない声音でそう呟く。
レンは、夕闇の奥へと溶けていった赤い残像を、なおも目で追い続けていた。視界の奥に焼き付いたその色はしばらくの間、消えずに留まり続けていた。




