7話:友の心配
研究室へ向かうつもりで外套を手に取ったとき、扉を叩く控えめな音がして、レンは一瞬だけ動きを止めた。こんな時間に訪ねてくる相手は限られていると分かっていながら、なぜかすぐには返事をせず、指先で布の縁を整えてから扉を開けた。予想どおり、アルフレッドが本を抱えて立っていた。
「今から研究室か?」
軽い調子の問いかけだったが、その視線はまっすぐレンの顔に向けられており、いつものように先に歩き出す気配はなかった。
「ああ」
短く答え、廊下へ出ようとする。だがアルフレッドは動かず、もう一歩だけ踏み込み、レンの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪い。昨日、無理をしすぎたんじゃないか?」
「別に問題ない」
即座に返したものの、視線がわずかに逸れたことを自分でも自覚していた。昨日の訓練のあとから続いている胃の奥の重さや、うまく眠れなかった夜のことを思い出しながらも、それを体調不良と呼ぶつもりはなかった。
「今日は、やめとこう」
不意にそう言われ、レンは外套を持ったまま足を止めた。
「なぜだ」
「お前が、疲れた顔をしているからだ。具合、悪いんだろ」
問い返そうとして言葉が途切れ、アルフレッドの目を見ると、そこにはからかいも遠慮もなく、ただ様子を確かめるような静けさがあった。研究を急ぐ理屈はいくらでもあった。だが口にしかけた瞬間、それらはどれも空虚に感じられた。
「反応式が、まだ途中なんだ…」
それでもそう言うと、アルフレッドはあっさり頷きながら、
「それは明日やらないと消えるものでもない。でも、お前の身体は削れるだろ」
と返し、勝手に部屋の中へ入り込んで椅子を引いた。その仕草には遠慮がなく、しかし何かを要求する様子もなく、本を机に置いたまま開こうともしない。
レンはしばらく立ったままでいたが、やがて外套を机に戻し、向かいの椅子に腰を下ろした。研究室へ向かうはずだった足取りは、そのまま霧散し、代わりに部屋の中の静けさがゆるやかに満ちていく。窓の外では風が木々を揺らし、葉の擦れる音が規則正しく続いており、アルフレッドは肘を机についたまま、その揺れを眺めていた。
「研究、しなくていいのか」
しばらくしてレンが言うと、アルフレッドは視線を外に向けたまま、
「今日はいい」
とだけ答える。
その言葉は特別な調子でもなく、ただ事実を述べるように置かれた。進捗を確認するでもなく、議論を始めるでもなく、ただそこに座っている理由がそれだけだと知ったとき、レンは机の上に視線を落とし、インク瓶の蓋に触れたまましばらく動かなかった。
「お前はあまりにも、損得がないだろう」
気づけばそんな言葉が口をついていた。
「俺が休めば研究は止まる。お前に利益はない。なのに、どうしてだ?」
アルフレッドは少し考えるように眉を寄せ、それから肩をすくめる。
「なんでだろうな。ただ、気になった」
深く掘り下げるでもなく、理由を飾るでもなく、あまりに簡単にそう言われてしまうと、それ以上問い詰めることができなくなる。レンは椅子の背に体重を預け、天井を一度見上げてから、ゆっくり息を吐いた。
やがてアルフレッドは立ち上がり、本を抱えて扉の前で振り返る。
「飯、ちゃんと食えよ」
それだけを残して去っていく足音が廊下の奥へ遠ざかるのを聞きながら、レンはしばらく椅子に座ったまま動かなかった。机の上の羊皮紙は手つかずのままで、インク瓶も閉じられたままだが、今日はそれでいいのだと、特に理由を言葉にすることもなく思い至る。
窓の外では風が変わらず木々を揺らしており、その単調な音の中で、研究より先に、守るべきものがあるのかもしれない。その考えだけが、胸の奥でゆっくりと根を張り始めていた。




