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虚数の魔術師 ―魔力ゼロで転生した化学者、魔術を解明する―  作者: kuron
第3章:揺らぎはじめる均衡
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4話:綱渡りの呼吸

その翌日、レンは中庭の木陰に一人で座っていた。


昼休みの時間帯にもかかわらず、この場所だけは不自然なほど静かだった。食堂へ向かう足音や、教室から漏れる笑い声は、石造りの校舎に吸い込まれてここまでは届かない。葉擦れの音と、遠くで鳴く鳥の声だけが、時間が確かに進んでいることを知らせている。


膝の上に置いた両手のあいだで、布袋の感触を確かめる。縫い目の位置、紐の結び目、重さの偏り。わずかな違和感も許されない。


そっと胸元から外し、掌に乗せる。


内側の結晶が、かすかに熱を持っている。規則的な鼓動に似た律動が、指先へと伝わった。今は安定している。だが昨日、その拍は一瞬だけ乱れた。


エリシアに触れられたときだった。


指先が袖越しに触れた瞬間、胸の奥で何かが噛み合わなくなる感覚が走った。吸い上げ、圧縮し、吐き出す――その流れが、ほんのわずかにずれたのだ。自分の呼吸と、外側に放っているはずのマナの脈が重ならず、内側に濁りが生まれた。


ほんの一瞬。だが、あれは警告だった。


布袋を開くと、透明な結晶が青白く光を滲ませる。十歳の冬、凍てつく指先で何度も失敗を繰り返しながら作り上げたものだ。炉の前で徹夜を重ね、試薬の配合を変え、砕け散った結晶の破片をいくつも廃棄した。その末に、ようやく環境中に漂うマナを引き寄せる性質を安定させた。


この世界では、魔力は生まれ持ったものだと信じられている。血統に宿り、魂に刻まれ、自然に身体から滲むものだと。


レンには、それがない。


だから、外から集めるしかなかった。


結晶は周囲に満ちるマナをゆっくりと吸い寄せ、内部で圧縮し、一定の律動で吐き出していく。その放出を、自分の呼吸や心拍と重ね合わせることで、あたかも体内から自然に溢れているかのように見せる。だがそれは模倣にすぎない。本物の魔術師のように、内側から湧き上がるわけではない。


掌の上で、結晶の熱がわずかに揺らぐ。


レンは小さな袋を取り出した。中の白い粉末を、慎重に結晶へと落とす。さらり、と乾いた音がした。放出の速度がわずかに整い、脈が均される。だがまだ、どこか角張った揺らぎが残る。


続いて、薄い銅板を取り出す。表面には細かな刻印が刻まれている。単なる装飾ではない。流れの位相を揃え、放出の癖を削るための回路だ。胸元へと差し込み、布越しに位置を調整する。刻印が微かに震え、結晶の脈が滑らかになる。


鼓動と重なる。


今は、問題ない。


だが、完璧ではない。


感情が大きく揺れれば、放出は跳ねる。驚き、怒り、焦り――それらは心拍を乱し、連動している偽装の律動を狂わせる。予期せぬ接触も危険だ。とりわけ、他者の内部を読む術に長けた者の手は、わずかな違和感を拾い上げる。


昨日、エリシアは袖越しに触れた。その瞬間、彼女の指先が一瞬だけ止まったことを、レンは見逃していない。ほんのわずかな沈黙があった。彼女は何も言わなかったが、視線がわずかに揺れた。


違和感を覚えたのは、自分だけではない。


治癒魔術に長けた者は、流れの滑らかさや密度の差に敏感だ。皮膚の下を巡るマナの質感を、指先で測る。もし、彼女がほんのもう一瞬長く触れていたら。


レンは肺の奥に溜まっていた空気を、ゆっくりと吐き出した。胸元の布袋が、呼吸に合わせてわずかに温度を変える。


この結晶がなければ、自分はここにいられない。


魔力が価値の基準である学院において、魔力を持たない者は存在の外側に置かれる。才能の欠如ではない。資格の欠如だ。議論の対象にもならず、評価の枠組みにも乗らない。ただ、いないものとして扱われる。


だから、演じる。普通の魔術師として。


偽装が今日まで保たれているのは、装置の精度だけではない。名門アステリア家の名が、理解不能な技術を「独自の流派」として包み隠してくれる。公爵は彼の制御を特異な才能だと誤解している。その誤解が、周囲の疑念を抑える。


さらに、この世界には化学という視点が存在しない。炎が生じれば、それは魔術だと認識される。反応の過程を疑う者はいない。詠唱と同期させ、発現の瞬間を合わせれば、差異は見えなくなる。


だが、それらは盾であって、保証ではない。


鋭い者はいる。


流れの癖を感じ取る者、密度の差を見抜く者、あるいはただ観察力に優れた者。偽装は成立しているのではなく、まだ破綻していないだけだ。


レンは立ち上がった。


木陰を抜けると、陽光が視界を白く染める。目を細めながら歩き出す。胸元で整えた流れは、今のところ安定している。だがそれは、常に調整し続けた結果にすぎない。


足元は地面ではない。


張り詰めた綱だ。


踏み外せば落ちる。落ちた先に救いはない。ただ、価値の外側へと滑り落ちるだけだ。


十三歳の初夏。レンは、自分が立っている場所を改めて自覚する。完璧な偽装など存在しない。ただ、今日という一日を破綻なく終えること。それを積み重ねるしかない。


胸元の結晶が、静かに脈打っている。


その律動に、自らの鼓動を重ねながら、レンは寮への道を歩き続けた。均衡は保たれている。今は、まだ。


一歩ごとに、見えない綱の揺れを測りながら。


それが、彼の生き方だった。

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