第8話 舞踏会と罠
「来週の建国記念舞踏会で、君を正式にお披露目する」
一週間前の朝食の席で、クラウス様はパンにバターを塗りながらサラリと言った。
まるで「明日は晴れるらしいよ」くらいの軽い口調だった。
「お披露目、ですか?」
「ああ。私が君に本気であること、そしてローゼンバーグ家とデレクがいかに愚かな真似をしたかを知らしめる必要がある」
クラウス様は優雅に紅茶を飲んだ。
その瞳の奥には、獲物を追い詰める肉食獣のような鋭い光が宿っていた。
「準備は全て整えてある。君はただ、私の隣で微笑んでいればいい」
「……微笑むだけでいいのなら、お安い御用ですが」
私はナイフとフォークを動かしながら、心の中で少しだけ溜め息をついた。
舞踏会。
それは、私の最も苦手とする場所だ。
華やかなドレス、きついコルセット、中身のないお世辞の応酬、そして足の痛いハイヒール。
安眠とは対極にある、騒音と疲労の祭典。
けれど、これは避けて通れない道だ。
私がクラウス様の妻になるということは、この国の王太子妃になるということ。
社交界という戦場に立ち、味方を増やし、敵を牽制しなければならない。
「分かりました。覚悟を決めます」
「そう身構えなくていい。……当日の君は、誰よりも美しいはずだから」
クラウス様は悪戯っぽく笑った。
その言葉の意味を、私が骨の髄まで理解したのは、当日の着替えの時間になってからだった。
***
そして、舞踏会当日。
「うっ……苦しい……」
「ミズキ様、もう少しです! あと二センチ締めますよ!」
離宮の衣装部屋で、私は侍女たちに囲まれて悲鳴を上げていた。
コルセットの紐がギリギリと締め上げられる。
内臓が押し上げられ、呼吸が浅くなる。
「マリア、これ以上は無理です。ご飯が食べられません」
「本日は食べる必要はありません。ただ美しく立っていればよろしいのです」
侍女長のマリアは容赦がなかった。
彼女たちの手によって、私の体は完璧な砂時計型に補正され、その上からドレスが纏わされていく。
用意されたドレスは、深い夜空のようなミッドナイトブルーの生地だった。
そこには無数の小さなダイヤモンドが散りばめられ、動くたびに星空のように瞬く。
布地は最高級のシルクで、肌触りは滑らかだが、重厚感も半端ではない。
「仕上げに、こちらを」
マリアが恭しく差し出したのは、大粒のサファイアのネックレスだった。
クラウス様の瞳と同じ色だ。
首にかけると、ひんやりとした重みが鎖骨に伝わる。
「……完成です」
侍女たちが溜め息交じりに後退り、全身鏡の前に私を立たせた。
鏡の中には、見知らぬ女性がいた。
艶やかにまとめ上げられた黒髪。
丁寧に施された化粧によって強調された、少し吊り上がった意思の強そうな瞳。
そして、星空を纏ったような圧倒的な存在感。
(これが、私?)
実家にいた頃は、いつも地味な色のドレスばかり着せられていた。
「お前は引き立て役だ」と、継母や妹に言われていたからだ。
でも、今の私は違う。
誰の引き立て役でもない。
一国の王太子の隣に立つ、唯一のパートナーとしての姿だ。
コンコン。
扉がノックされ、白い礼服に身を包んだクラウス様が入ってきた。
彼は私を見た瞬間、足を止め、目を見開いて絶句した。
「…………」
「あの、変でしょうか?」
私が不安になって尋ねると、彼はハッと我に返り、ゆっくりと近づいてきた。
「変なものか。……美しい。言葉にならないほどだ」
クラウス様が私の手を取り、甲に熱い口づけを落とす。
その視線の熱量に、私は顔が熱くなるのを感じた。
お世辞ではない。
この人は本気で、私に見惚れている。
「行こう、ミズキ。君を世界に見せつけるのが待ち遠しい」
差し出された腕に、私は自分の手を添えた。
その腕は頼もしく、温かい。
緊張が少しだけ和らぐ。
(大丈夫。この人がいる)
私たちは馬車に乗り込み、決戦の地である王宮の大広間へと向かった。
***
王宮、大広間。
重厚な両開きの扉の向こうからは、オーケストラの演奏と、数百人の貴族たちのざわめきが聞こえてくる。
「準備はいいか?」
「はい。いつでも」
私は深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。
クラウス様が合図を送ると、衛兵たちが扉に手をかけた。
ギギギ、と重い音を立てて扉が開いていく。
溢れ出す光と音楽。
そして、会場中の視線が一斉にこちらへ注がれるのを感じた。
「王太子殿下、並びに、ミズキ・フォン・ローゼンバーグ公爵令嬢のご入場です!」
儀典官の声が響き渡る。
その瞬間、会場の空気が変わった。
私たちはゆっくりと、大階段を降り始めた。
一歩、また一歩。
ヒールの音が大理石に響く。
ざわめきが消えた。
音楽さえも、遠くへ退いたような気がする。
数百人の視線が、私に釘付けになっている。
その視線に含まれているのは、侮蔑でも嘲笑でもなかった。
純粋な驚愕。
そして、畏敬。
「あれが……悪役令嬢?」
「なんと美しい……」
「女神のようだ……」
囁き声が波紋のように広がっていく。
私はクラウス様の腕に支えられながら、悠然と微笑んだ。
顔を引きつらせないように必死だったけれど、外からは「余裕の笑み」に見えているはずだ。
階段を降りきり、フロアの中央へ進む。
人々が自然と左右に分かれ、道ができる。
まるで海が割れるようだ。
その道の先に、見知った顔があった。
デレク様だ。
そして、その腕にへばりつくリナ嬢。
ローゼンバーグ公爵である父の姿もある。
彼らは、会場の入り口付近で待ち構えていたらしい。
おそらく、やつれてボロボロになった私が、王太子に引きずられてくるのを期待していたのだろう。
そして、大勢の前で私を嘲笑い、自分たちの正当性を主張するつもりだったに違いない。
けれど、今の彼らの表情は傑作だった。
デレク様は口を半開きにし、金魚のようにパクパクさせている。
リナ嬢は、自分の着ているピンク色のフリルドレスが、私のドレスの前ではあまりに子供っぽく、安っぽく見えることに気づいたのか、顔を青くして震えている。
父に至っては、目を剥いて石のように固まっていた。
目が合った。
私は彼らに向かって、優雅に扇子を開き、口元を隠して小首を傾げてみせた。
「ごきげんよう、皆様」
私の声が静寂を破る。
デレク様が、夢から覚めたように瞬きをした。
「……ミ、ミズキ……?」
彼は信じられないものを見る目で、私を凝視した。
その視線は、私の艶やかな髪、輝く肌、そして王家伝来のサファイアのネックレスへと彷徨う。
「なんだ、その姿は……。君は、不幸のどん底にいるはずじゃ……」
掠れた声が漏れる。
周囲の貴族たちが、怪訝な顔でデレク様を見た。
「何を言っているんだ?」という空気が流れる。
無理もない。
今の私は、どう見ても「不幸な被害者」ではなく、「愛され、満ち足りた王太子妃」そのものだからだ。
クラウス様が、私の腰に回した手に力を込めた。
そして、冷ややかな視線でデレク様たちを見下ろした。
「紹介しよう。彼女こそが、私の唯一無二の婚約者であり、次期王妃となるミズキだ」
クラウス様の宣言が、雷鳴のように会場に響き渡る。
それは、デレク様たちが広めてきた「悪役令嬢」というレッテルを、根底から粉砕する一撃だった。
私はクラウス様を見上げた。
彼は私を見て、満足そうにウィンクをした。
(ああ、本当に)
旦那様は性格が悪い。
こんな風に、彼らが一番見たくないものを見せつけるなんて。
呆然と立ち尽くす元婚約者たちの前で、私は今日一番の輝く笑顔を見せた。
復讐なんて、剣を抜く必要すらなかった。
ただ、幸せであること。
それを見せつけるだけで、彼らにとっては十分すぎる毒になるのだから。




