第7話 覚醒と自覚
(……おかしい。眠れない)
私は暗闇の中で、ぱっちりと目を開けたまま天井を見上げていた。
最高級の羽毛布団。
体に吸い付くようなマットレス。
完璧な室温と湿度。
そして、静寂を守る防音結界。
安眠のための条件は、これ以上ないほど揃っているはずだ。
それなのに。
私は寝返りを打った。
左側を見る。
そこには、誰もいない。
冷たく整えられたシーツが広がっているだけだ。
クラウス様が地方視察に出かけてから、今日で三日目になる。
たった数日の我慢だと思っていた。
昼間はいつも通り、温室で野菜の交配実験をしたり、読書をしたりして過ごせた。
でも、夜になるとどうしようもない「欠落感」が襲ってくる。
「……広すぎるんです」
私は誰に聞かせるでもなく呟き、誰もいない左側のスペースに手を伸ばした。
いつもなら、そこに温かい体温がある。
少し硬いけれど安心感のある腕や、規則正しい寝息がある。
さらに言えば、私を包み込むあの「いい匂い」がない。
まさか。
そんなはずはない。
私はただ、環境の変化に敏感なだけだ。
決して、寂しいとか、そういう乙女チックな理由ではないはずだ。
私は公爵家で「鉄の女」と呼ばれ、激務と孤独に耐え抜いてきた人間だ。
一人で眠ることなんて、二十年近く続けてきた当たり前の習慣だったじゃないか。
(でも、あの頃とは違う)
心のどこかで、冷静な私が囁く。
あの頃の「一人」は、ただの休息だった。
今の「一人」は、孤独だ。
知ってしまったのだ。
誰かの体温を感じながら眠る心地よさを。
「おやすみ」と言い合える相手がいる幸福を。
「……依存していたのは、旦那様の方じゃなくて、私だったのかしら」
認めたくない事実を口にしてしまうと、途端に胸が締め付けられるような気がした。
クラウス様は、私の「鎮静」の魔力を必要としていた。
だから私は「魔力タンク」としての役割を果たしていただけ。
そう思っていた。
でも、今の私はどうだ。
魔力なんて関係ない。
ただ、彼に会いたい。
あの青い瞳に見つめられたい。
意地悪なふりをして私を甘やかす、あの声が聞きたい。
私は空っぽの枕を抱きしめ、ギュッと目を閉じた。
眠らなきゃ。
睡眠不足はお肌に悪い。
明日はハーブティーを濃いめに淹れよう。
そう自分に言い聞かせても、結局その夜、私の意識が泥のように沈むことはなかった。
***
翌日の夕方。
私は離宮の玄関ホールを、無意味に行ったり来たりしていた。
「ミズキ様、落ち着いてください。殿下のご帰還は明日と聞いておりますよ」
侍女長のマリアが、苦笑しながら声をかけてくる。
分かっている。
予定では明日だ。
でも、なぜか胸騒ぎがするのだ。
落ち着かない。
じっとしていられない。
「少し、外の空気を吸ってきます」
私はたまらず、大きな扉を開けて外へ出た。
夕焼けが湖面を赤く染めている。
橋の向こうには、誰もいない。
(やっぱり、気のせいか)
肩を落として戻ろうとした、その時だった。
地平線の彼方から、土煙が上がっているのが見えた。
蹄の音だ。
それも、尋常ではない速さで近づいてくる。
「……え?」
目を凝らす。
数騎の騎馬が、橋を渡ってくる。
先頭を走るのは、見間違えるはずもない黒い駿馬。
その背に乗っているのは。
「クラウス様!?」
私はドレスの裾も気にせず、駆け出した。
馬が玄関前で嘶き、急停止する。
鞍から転げ落ちるようにして降りてきた人物を見て、私は息を飲んだ。
「クラウス様……っ!」
ひどい顔色だった。
いつも発光するほど美しい肌は土気色に淀み、目の下には深い隈が刻まれている。
銀色の髪は乱れ、肩で荒い息をしている。
全身から、制御しきれない魔力がバチバチと火花のように漏れ出していた。
「……ミズキ」
彼は私を見ると、ふらりと体勢を崩した。
「殿下!」
私はとっさに体を滑り込ませ、彼を受け止めた。
重い。
そして、熱い。
服の上からでも分かる高熱だ。
「どうして……明日の予定じゃ……」
「限界、だった……」
クラウス様が私の肩に顔を埋める。
その瞬間、彼の中から溢れ出ていた棘のような魔力が、私に触れた部分から急速に溶けていくのを感じた。
「君が足りない。……薬も、酒も、何も効かない。君じゃなきゃ、駄目なんだ」
掠れた声が、私の耳元で震えた。
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにする。
ああ、同じだ。
私も、貴方が足りなかった。
私は迷わず、彼の背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。
意識して、私の魔力を彼に流す。
「鎮まれ」「大丈夫」「私がいる」。
そんな思いを込めて。
周囲の騎士や侍女たちが慌てて駆け寄ろうとするのを、クラウス様が片手で制した。
そして、私の体重を支えにしながら、深く、長く息を吐き出した。
「……ああ、生き返る」
彼の呼吸が整っていく。
強張っていた筋肉が緩み、熱が引いていくのが分かる。
私たちは玄関先で、人目も憚らず抱き合ったまま固まっていた。
「ミズキ」
「はい」
「部屋へ行こう。……今すぐ」
その言葉に含まれた熱量に、私は顔が沸騰しそうになりながらも、小さく頷いた。
***
寝室のベッドに彼を座らせ、私は急いで水差しを持ってきた。
クラウス様は水を一気に飲み干すと、私を手招きして隣に座らせた。
もう顔色は随分と良くなっている。
けれど、私を掴む手は痛いほど強いままだ。
「すまなかった。心配させたな」
「本当に……ボロボロじゃないですか。無理な移動をしたんでしょう?」
「一刻も早く君に会いたかった。それだけだ」
子供のような言い訳に、胸がときめいてしまう。
ずるい人だ。
クラウス様は私の目をじっと見つめた。
そこには、いつもの冷徹な王太子の仮面はない。
ただの一人の男としての、切実な光が宿っていた。
「ミズキ。今回の遠征で、はっきりと分かったことがある」
「魔力過多の症状が、思ったより重かったということですか?」
「違う」
彼は首を振った。
「魔力のことなど、どうでもいい。私が耐えられなかったのは、頭痛や不眠じゃない。君がいないという『孤独』だ」
私の心臓が、早鐘を打つ。
「君の寝顔が見られない。君の淹れた茶が飲めない。君の『おはよう』が聞けない。……それが、これほど苦しいとは思わなかった」
クラウス様の手が、私の頬に触れる。
「私は君を、ただの治療薬だと思っていた。だが間違っていた。私は君という女性に、魂ごと惹かれている」
それは、契約の更新ではなかった。
雇用主としての命令でもなかった。
「契約結婚はやめにしよう」
「……え?」
一瞬、心臓が止まりかけた。
契約終了?
私はここから追い出されるの?
「正式に、私の妻になってほしい。期限付きの契約ではなく、生涯の伴侶として。……君を愛している、ミズキ」
愛している。
その言葉が、じんわりと私の心に染み渡っていく。
前世も含めて、誰かにそんな風に言われたことはなかった。
「便利だ」「使える」「地味だ」。
そんな言葉ばかり浴びせられてきた私に。
涙が溢れてきた。
悲しくないのに、勝手に零れ落ちる。
「……私で、いいんですか? 一日中ゴロゴロしてますよ?」
「それがいい」
「すぐ二度寝しますよ?」
「一緒に寝よう」
「色気もないし、可愛げもないですよ?」
「君の寝顔は世界一可愛い」
もう、反論の余地がない。
私は涙を拭い、彼に向き直った。
「……私も、この三日間、全然眠れませんでした。枕が変わったせいかと思ったんですけど、違いました」
「ほう?」
「旦那様がいないと、寒くて、寂しくて……」
私が消え入りそうな声で白状すると、クラウス様は目を見開き、それから破顔した。
今まで見た中で、一番幸せそうな笑顔だった。
「そうか。君も私と同じ病にかかっていたわけだ」
「病と一緒にしないでください」
「なら、特効薬を処方しよう」
クラウス様が腕を広げる。
私はその中に飛び込んだ。
懐かしい匂い。
安心する体温。
パズルのピースがカチリと嵌ったような充足感。
「お受けします、クラウス様。……私を、本当のお嫁さんにしてください」
私の言葉に、彼は優しく口づけで応えてくれた。
契約の印ではない。
誓いの口づけ。
その夜、私たちは初めて「手」以外の場所も触れ合わせて眠った。
もちろん、朝まで一度も起きることなく。
これ以上の安眠が、この世にあるとは思えなかった。




