第6話 襲来と拒絶
かつて、ローゼンバーグ公爵家は豊かな領地を持っていた。
しかし、それは私の母が生きていた頃までの話だ。
母が亡くなり、父が愛人を後妻に迎えてから、我が家の財政は坂道を転げ落ちるように悪化した。
贅沢三昧の継母、それに甘い父、そして見栄っ張りな義妹。
十歳の私が、屋根裏部屋でこっそり領地の帳簿を書き換え、特産品の流通ルートを見直さなければ、公爵家などとうの昔に破産していただろう。
そんな「見えない労働」の日々を思い出していたのは、久しぶりに不快な声を聞いたからだ。
「おい! 門を開けろと言っているのが聞こえないのか!」
「私は彼女の父親だぞ! 娘に会わせろ!」
離宮のバルコニー。
私は手すりにもたれかかり、眼下で繰り広げられている茶番劇を見下ろした。
時刻は午後二時。
最高のお昼寝タイムを、騒音によって破壊された私の機嫌は、今まさに底辺を這っていた。
(……うるさい)
門の前で騒いでいるのは、二人の男性だ。
一人は、腹の出た中年男性。私の父、ローゼンバーグ公爵。
もう一人は、青い顔をして必死に門を叩く青年。元婚約者のデレク様だ。
今日はクラウス様が視察で不在だ。
彼らはその隙を狙って来たのだろう。
どこまでも姑息な人たちだ。
「申し訳ありませんが、殿下のご許可がありません」
門番をしている警備隊長が、毅然とした態度で断っている。
さすがはクラウス様の部下だ。
相手が高位貴族だろうと、一歩も引かない。
「無礼者! 私は公爵だぞ! 親が未成年の娘に会うのに、何の許可がいる!」
「そうだ! ミズキは僕に未練があるはずだ。僕が直接話せば、すぐに戻ってくる!」
デレク様が叫んだ。
その言葉の内容に、私は思わず吹き出しそうになった。
未練?
私が?
どの世界線の話をしているのだろう。
これ以上、隊長さんたちに迷惑をかけるのも悪い。
それに、このままではうるさくて二度寝もできない。
私は手元にあった水やりのジョウロを掴むと、バルコニーの端に立った。
「……何のご用でしょうか」
よく通るように、少しだけ声を張る。
私の声に気づいた二人が、バッと顔を上げた。
「ミズキ! そこにいたのか!」
「おお、ミズキよ! 無事だったか!」
父が両手を広げて大袈裟に叫ぶ。
その顔には、愛情など微塵もない。
あるのは焦りと、私を支配下に戻したいという欲望だけだ。
「心配したぞ! 王太子殿下に拉致されたと聞いて、父さんは居ても立ってもいられなかったんだ!」
「嘘をおっしゃらないでください。殿下が不在の時間を狙って来たのでしょう?」
私が冷たく言い放つと、父は一瞬言葉に詰まった。
「な、何を言う! さあ、早く降りてきなさい。家に帰ろう。お母様も妹も待っているぞ」
「継母様たちが私を待っている? それは変ですね。私が家を出た時、彼女たちは『厄介払いができた』とシャンパンを開けていたはずですが」
私の指摘に、今度はデレク様が口を挟んできた。
「ミズキ、強がるな! 君が僕に捨てられて傷ついているのは分かっている! だが、僕は寛大だ。今なら、あの日の暴言を水に流して、もう一度婚約者に戻してやってもいい!」
戻してやってもいい。
その上から目線には、もはや感服するしかない。
「お断りします」
「は?」
「聞こえませんでしたか? お断りします、と言ったのです」
私はジョウロを持ち替えた。
中には水が半分ほど入っている。
「私は今、とても幸せなんです。静かで、仕事もなくて、美味しいご飯が食べられて、何より誰も私の睡眠を邪魔しませんから」
「な、何を馬鹿な……! 公爵令嬢がそんな怠惰な生活でいいと思っているのか! お前には家のために働く義務がある!」
父が顔を真っ赤にして怒鳴る。
ああ、やっぱり。
本音が出た。
「家のために働く義務」。
つまり、私がいないと領地経営も、借金の返済計画も、何も回らないのだ。
一ヶ月でここまで困窮するとは、私の予想以上に無能だったらしい。
「義務なら、私が家を出るまでの十年間で十分に果たしました。これからは自分のために生きます」
「ふざけるな! 親の言うことが聞けんのか! 衛兵、その門を壊してでも入るぞ!」
父が警備隊長に掴みかかろうとする。
隊長が剣の柄に手をかけた。
まずい。
公爵相手に剣を抜けば、隊長が処罰されるかもしれない。
(……退場してもらいましょう)
私はジョウロの口を下に向けた。
狙いは、門前で騒ぐ二人。
距離はある。
普通なら届かない。
けれど、私には水属性の適性もあるのだ。
イメージするのは、滝。
全ての汚れを洗い流す、清流の激流。
「頭を冷やして出直してください」
私がジョウロを傾けた瞬間、注ぎ口から出た細い水流が、空中で爆発的に膨れ上がった。
私の魔力に反応し、水量は百倍、いや千倍にも増幅される。
ドォォォォォン!!
まるでダムが決壊したような轟音とともに、大量の水が二人の頭上に降り注いだ。
「ぶべらっ!?」
「ぎゃあああ!」
父とデレク様は、悲鳴を上げる間もなく濁流に飲み込まれ、門の前から数十メートル後方へと押し流された。
泥まみれになり、高級な服はずぶ濡れ。
髪はワカメのように張り付いている。
警備隊長たちが、ぽかんと口を開けてその光景を見ていた。
私も少し驚いた。
ちょっと、やりすぎたかもしれない。
ジョウロの水って、こんなに増えるんだ。
「……これに懲りたら、二度と私の睡眠時間を邪魔しないでくださいね」
私は空になったジョウロを置き、くるりと背を向けた。
下からは「溺れる!」「助けてくれ!」という情けない声が聞こえてくるが、警備兵たちが適切に(そして事務的に)救助してくれるだろう。
部屋に戻り、窓とカーテンを閉める。
完璧な防音結界のおかげで、外の騒ぎは嘘のように消えた。
ベッドにダイブする。
まだ枕は温かい。
「おやすみなさい」
私は満ち足りた気分で、中断された夢の続きへと旅立った。
***
その日の夕方。
視察から戻ったクラウス様は、門の前が水浸しになっているのを見て目を丸くしたそうだ。
そして、警備隊長から事の顛末を聞くと、
「ジョウロで? あいつらを?」
と、腹を抱えて笑い出したらしい。
「いやあ、見たかったな。その傑作な光景を」
寝室に戻ってきたクラウス様は、涙を拭いながら私に言った。
機嫌はすこぶる良いようだ。
「すみません。庭が水浸しになってしまって」
「構わないさ。むしろ掃除の手間が省けた。……しかし、君は本当に規格外だな」
クラウス様はベッドの端に座り、私の髪を梳くように撫でた。
「君の水魔法、あれは攻撃魔法じゃないな? 本来は大規模な灌漑や消火に使われるレベルの出力だぞ」
「そうですか? ただ、ちょっと勢いよく出ただけで」
「無自覚なのが恐ろしい」
彼は苦笑しながらも、その瞳は優しかった。
「だが、よくやった。自分の身を自分で守る気概、素晴らしいよ。君の実家には、私からも厳重に抗議しておこう。『王太子妃に対する殺人未遂』としてな」
「殺人未遂ですか? ただの面会要求でしたけど」
「私の大事な妻の睡眠を妨害したんだ。万死に値する」
真顔で言うクラウス様に、私は少しだけ背筋が伸びた。
この人、本気だ。
私の安眠のためなら、国の一つや二つ傾けかねない。
「……ありがとうございます、殿下」
「礼には及ばない。さあ、今夜も寝ようか。今日は少し疲れたんだ」
クラウス様が当然のように隣に入ってくる。
その体温を感じながら、私は思った。
実家との縁は、今日の放水で完全に切れた気がする。
これでもう、後ろを振り返る必要はない。
私の居場所は、ここにあるのだから。




