第10話 四人の二度寝
読みかけの本を閉じ、私は木陰のベンチから顔を上げた。
視界の先には、光り輝く緑の絨毯。
整備された離宮の庭園を、小さな銀色の弾丸が駆け抜けていく。
「パパ! こっちだよ! つかまえて!」
「待てレオン! 速すぎるぞ、魔力強化を使っていないか!?」
四歳になったレオンが、ケラケラと笑いながら走り回り、その背後を国王であるクラウス様が必死の形相で追いかけている。
レオンの足元には、小さな風の渦が発生しており、飛ぶような速度を生み出していた。
魔力の制御は完璧だ。
かつて周囲を凍らせていた不安定さは微塵もなく、彼は自分の才能を手足のように使いこなしている。
「あー! にぃに、まってぇ!」
その後ろを、よちよち歩きの小さな女の子が追いかける。
二歳になったルナだ。
銀色の髪を二つに結び、金色の瞳を輝かせている。
彼女が転びそうになると、レオンがピタリと止まり、風の魔法でふわりと支える。
「ルナ、だいじょうぶ? ゆっくりでいいよ」
「うん! にぃに、すごい!」
兄妹の仲睦まじい姿。
それを見て、クラウス様が芝生の上に大の字になって倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……。レオンの魔力量は、底なしか。私の全盛期より体力があるんじゃないか」
「あら、クラウス様が運動不足なだけでは? 最近、執務室で座りっぱなしでしょう」
私は温かい紅茶を啜りながら声をかけた。
クラウス様が体を起こし、額の汗を拭いながら私の隣に座る。
シャツの袖は捲り上げられ、泥がついている。
国王としての威厳ある姿も素敵だけれど、こうして泥んこになって遊ぶ父親としての姿も、また格別だ。
「……平和ですねぇ」
「ああ。幸せすぎて、怖いくらいだ」
彼は私の肩に頭を預け、目を細めた。
あれから数年。
世界は、驚くほど穏やかになった。
帝国との条約は順守され、国境には商隊が行き交っている。
アデルバート皇帝とは「鎮静石」の取引を通じて太いパイプができ、ソフィア女王とは共同事業で莫大な富を生み出している。
かつて私が「安眠」のために導入した効率化システムは、国中に広がり、人々は「休むこと」の重要さを知り始めた。
そして何より。
私の家族は、今日も元気だ。
「ママー! 見て、蝶々!」
レオンが私の元へ駆け寄ってきた。
その指先には、光の粒子で作られた幻想的な蝶が止まっている。
高度な幻影魔法だ。
帝国の書庫から持ち帰った知識を、彼は遊びの中で吸収してしまったらしい。
「まぁ、素敵ね。パパに見せてあげた?」
「うん! パパは『すごいけど、ママにぶつけちゃ駄目だぞ』って言ってた!」
「教育が行き届いていますね」
私が笑うと、ルナも私の膝によじ登ってきた。
「ルナも! ルナもみる!」
「はいはい。ルナも可愛いわよ」
私は二人を抱きしめた。
日向の匂いと、甘いミルクの匂い。
ずっしりとした重み。
これが、私の生きてきた証だ。
かつて、私は一人で戦っていた。
クラウス様も一人だった。
でも今は、こんなにも賑やかで、温かい。
太陽は高く、風は心地よい。
お腹も満たされ、適度な運動もした。
絶好の……そう、絶好のタイミングだ。
「……ねえ、皆様」
私は提案した。
我が家の、最も重要な行事を。
「そろそろ、休憩にしませんか?」
「休憩?」
「ええ。たくさん走って、たくさん笑いました。……お昼寝の時間ですよ」
私の言葉に、レオンが目を輝かせ、ルナがあくびをし、クラウス様がふっと表情を緩めた。
「賛成だ。王命により、直ちに昼寝を執行する」
「やったー! みんなで寝る!」
「ねんねー!」
私たちは立ち上がり、手を繋いで離宮の中へと歩き出した。
廊下ですれ違う侍女たちが、私たちの姿を見て微笑ましそうに道を譲る。
「またですか」なんて野暮なことを言う者はいない。
王族の休息が、国の平和に直結することを知っているからだ。
寝室の扉を開ける。
そこには、特注の超キングサイズベッドが鎮座していた。
四人で寝ても、誰も落ちない広さ。
私たちの、安眠の聖域。
私たちは靴を脱ぎ、吸い込まれるようにダイブした。
「はぁ……極楽」
右端にクラウス様。
その隣にレオン。
その隣にルナ。
そして左端に私。
四本の川の字フォーメーション。
レオンとルナは、パパとママの手を握り、満足そうに天井を見上げている。
「ねえママ、夢の中でも遊べる?」
「ええ、もちろんよ。もっとすごい魔法が使えるかもしれないわね」
「じゃあ、ボク、夢に行ってくる!」
言うが早いか、レオンの瞼が落ちていく。
ルナも指をしゃぶりながら、こくりこくりと船を漕ぎ始めた。
相変わらずの入眠スピードだ。
すぐに規則正しい寝息が二つ、部屋に響き始めた。
クラウス様が、子供たち越しに私を見た。
その瞳は、出会った頃よりもずっと深く、穏やかな海の色をしていた。
「……ミズキ。ありがとう」
「何がですか?」
「君があの日、私の手を取ってくれたこと。……君が『睡眠の方が大事だ』と言って、私を寝かしつけてくれたこと」
彼は子供たちの頭を撫でながら、噛み締めるように言った。
「君のその選択が、私を救い、この子たちを救い、この国を救ったんだ。……君は、最高の王妃だよ」
照れくさい言葉。
でも、素直に嬉しい。
思い返せば、私の動機はいつも不純だった。
楽がしたい。
寝ていたい。
面倒なことは嫌だ。
そんな「怠惰」な願いが、結果として「効率」を生み、「平和」を勝ち取ったのだとしたら。
私は胸を張って言おう。
睡眠こそ、正義であると。
「……ふふ。お礼を言うのはまだ早いですよ」
私は自分の下腹部に、そっと手を当てた。
まだ確信はないけれど。
でも、私の「鎮静」の魔力が、内側から新たな命の灯火を感じ取っている。
「どうした?」
「いいえ。……もしかしたら、このベッド、もう少し大きくしないといけなくなるかもしれません」
私の言葉の意味を察したのか、クラウス様が目を見開き、それから顔をくしゃくしゃにして笑った。
今までで一番、情けなくて、幸せそうな顔。
「……そうか。そうか!」
「静かに。子供たちが起きちゃいますよ」
「ああ、すまない。……嬉しいな。もっと賑やかになる」
彼は私のお腹の方へ手を伸ばし、空中で優しく握りしめた。
届かなくても、心は繋がっている。
窓の外から、柔らかな風が入ってくる。
レースのカーテンが揺れ、光の粒がダンスを踊る。
ここは、世界で一番安全で、幸福な場所。
瞼が重くなる。
心地よい闇が、私を手招きしている。
抗う理由なんてない。
明日のための活力は、今日の安眠から作られるのだから。
「……おやすみなさい、クラウス様。おやすみなさい、レオン、ルナ」
「おやすみ、ミズキ。……愛している」
愛する人たちの寝息を聞きながら、私は意識を手放した。
かつて婚約破棄された私が選んだ、とびきり贅沢な第二の人生。
私の再就職先は、やっぱりここ以外に考えられない。
「おやすみなさい。……愛しい、私の世界」
私は満ち足りた微笑みを浮かべ、永遠に続くような、甘く優しい夢の中へと旅立った。
(完)
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