第8話 王家の休日
国王陛下が、執務室の机に書類の束を叩きつけた。
バンッ!
「以上だ! これより私は、無期限の育児休暇に入る!」
クラウス様が高らかに宣言した。
その顔は晴れやかで、一点の曇りもない。
控えていた宰相や大臣たちが、口をあんぐりと開けて固まっている。
「へ、陛下? 無期限とは……」
「言葉通りの意味だ。私は妻の産後のケアと、生まれたばかりの娘、そして息子の心のケアに専念する。国政はお前たちに任せる。……あと、そこの暇そうな皇帝にもな」
クラウス様が指差したのは、執務室のソファで優雅に茶を飲んでいたアデルバート皇帝だった。
「……は? 私か?」
「そうだ。お前は私の友人だろう? 友人が人生の岐路に立っているんだ、手助けするのは当然だ」
「貴様、他国の皇帝を何だと思っている。便利屋か?」
「違うか? 安眠石の代金だと思え」
クラウス様は悪びれもせず言い放ち、マントを翻して部屋を出て行こうとした。
アデルバート様は呆れたように肩をすくめ、それからニヤリと笑った。
「面白い。いいだろう、引き受けてやる。……その代わり、我が国の方式で効率化してやるから覚悟しておけよ、宰相殿」
「ひぃぃっ!?」
宰相の悲鳴を背に、クラウス様は軽やかな足取りで私の元へ戻ってきた。
その一部始終を、私は寝室のモニター(魔導具)で見ていたのだが。
(……本当に、自由な人ですね)
私はベッドの上で、腕の中のルナをあやしながら苦笑した。
でも、悪い気はしない。
彼がそばにいてくれることは、何よりの精神安定剤になるからだ。
ガチャリ。
扉が開き、満面の笑みのクラウス様が入ってきた。
「ただいま、ミズキ。今日から私は、ただのパパだ」
「おかえりなさい、パパ。……随分と大胆な采配でしたね」
「必要経費だ。君と子供たちとの時間は、国一つより重い」
彼は迷いなく言い切り、ベッドの端に座った。
そして、私の腕の中のルナを覗き込む。
「ルナ、パパだよ。……ああ、今日も可愛いな」
親バカ全開の声。
ルナは金色の瞳を細め、ふにゃりと笑った。
それだけで、クラウス様は骨抜きにされている。
「マンマ! ミルクもってきたよ!」
そこへ、もう一人の小さなパパ……いいえ、頼もしいお兄ちゃんが登場した。
レオンだ。
彼は両手で哺乳瓶を抱え、一生懸命に運んできた。
中身は人肌の温度に保たれている。
彼が魔法で温度調整をしたのだ。
「ありがとう、レオン。助かるわ」
「うん! ルナ、おなかすいた?」
レオンは私の膝に手をかけ、ルナの顔を覗き込んだ。
ルナがミルクの匂いに反応して口を動かすと、レオンは嬉しそうに哺乳瓶を差し出す。
「はい、どうぞ。……あちちじゃないよ」
その甲斐甲斐しい姿に、私は胸が熱くなった。
数日前まで「赤ちゃんばっかり!」と泣いていた子が、今では誰よりも妹を可愛がっている。
兄としての自覚。
そして、守るべき存在ができたことによる成長。
「レオンは、いいお兄ちゃんだな」
クラウス様がレオンの頭を撫でる。
レオンは照れくさそうに、でも誇らしげに胸を張った。
「ボク、おにいちゃんだから! ルナのおせわ、ぜんぶできるもん!」
「頼もしいな。じゃあ、オムツ替えも頼めるか?」
「う……それは、パパがやって」
そこはまだ無理らしい。
私たちは顔を見合わせて笑った。
穏やかな時間。
窓の外では、春の光が降り注ぎ、庭の花々が揺れている。
執務室ではアデルバート様やソフィア様が、私たちの代わりに国を回してくれている(申し訳ないけれど、感謝)。
この平和を守るために、私は戦ってきたのだ。
効率化も、交渉も、すべてはこの瞬間のためにあった。
「……ねえ、クラウス様」
「ん?」
「私、これからも効率的に生きます」
私はルナの背中をトントンと叩きながら宣言した。
「無駄を省き、時間を捻出し、そのすべてをこの子たちとあなたに注ぎます。……それが、私の最大の仕事ですから」
「ああ。期待しているよ、我が家の司令塔」
クラウス様が私にキスをした。
甘く、優しいキス。
ルナがミルクを飲み終え、満足そうに吐息を漏らす。
レオンが「よしよし」と妹の頭を撫でる。
完璧だ。
これ以上の幸せなんて、どこにもない。
数日が過ぎた。
私の体調も回復し、少しずつベッドから出る時間が増えてきた頃。
アデルバート様とソフィア様が、帰国の途につくことになった。
離宮の玄関ホール。
旅装を整えた二人が立っている。
「世話になったな。……宰相イビリ、楽しかったぞ」
アデルバート様がニヤリと笑う。
彼の背後には、山のようなお土産(我が国の特産品)が積まれた馬車が待機している。
しっかり「手間賃」は回収していくあたり、彼もまた優秀な経営者だ。
「わたくしも、良い保養になりましたわ。レオン様の成長も見られましたし」
ソフィア様が扇子を揺らす。
彼女の視線は、クラウス様の足元にいるレオンに向けられていた。
「レオン様。わたくしが教えた防御結界、忘れてはいけませんよ?」
「うん! まいにちれんしゅうする!」
「よろしい。……困ったことがあれば、いつでもスノーランドにいらっしゃい。おばさまが力になりますわ」
ソフィア様はレオンの目線に合わせてしゃがみ込み、優しく抱きしめた。
氷の女王と呼ばれた彼女の、春のような温かさ。
「アデルバートおじちゃんも、またきてね!」
「おう。次に来る時は、剣術を教えてやる。強くなれよ、レオン」
アデルバート様がレオンの頭を豪快に撫でる。
レオンは嬉しそうに目を細めた。
別れの時だ。
寂しさがないと言えば嘘になる。
彼らはもう、単なる外交相手ではない。
家族ぐるみの、大切な友人だ。
「……お気をつけて。また、いつでもいらしてください」
私が言うと、二人は同時に頷いた。
「ああ。鎮静石の在庫が切れたらな」
「新作のスイーツができたら、呼んでくださいまし」
照れ隠しのような言葉を残し、彼らは馬車に乗り込んだ。
走り去っていく馬車を、私たちは見えなくなるまで見送った。
祭りの後のような静けさ。
でも、寂しくはない。
私たちの手には、彼らが残してくれた温かい思い出と、未来への約束が残っているのだから。
「……行っちゃったね」
レオンが呟く。
「そうだな。でも、また会えるさ」
クラウス様がレオンを抱き上げる。
その腕の中には、確かな未来の重みがあった。
「さあ、戻ろう。ルナが待っている」
「うん!」
私たちは踵を返した。
いつもの寝室へ。
私たちの城へ。
明日からはまた、騒がしくて愛おしい日常が始まる。
四人の生活。
大変なことも多いだろうけれど、きっと大丈夫。
私たちには、「最強の安眠」という帰る場所があるのだから。




