第4話 怠惰と有能
なぜ、この国の公文書はこうも非効率なのだろうか?
離宮での生活が始まって十日目。
私は今、人生最大級の危機……ではなく、イライラに直面していた。
場所は、私たち(というのも気恥ずかしいけれど)の寝室だ。
時刻は夜の九時。
本来なら、お風呂上がりのリラックスタイムとして、窓際の長椅子でハーブティーを飲みながらまどろんでいる時間だ。
しかし、今の私の目の前には、白い山脈がそびえ立っていた。
「……邪魔ですね」
私は思わず、本音を漏らした。
白い山脈の正体は、紙の束だ。
書類、書類、そして書類。
クラウス様は最近、王宮での執務を早めに切り上げ、残りの仕事をこの離宮に持ち帰ってこなしている。
「君との時間を確保するためだ」と仰っていたけれど、その皺寄せがこの惨状だ。
執務用の机に収まりきらなかった書類の束が、床に溢れ、サイドテーブルを占拠し、あろうことか私が愛用している「昼寝用特等席(長椅子)」の上にまで雪崩れ込んでいた。
先ほど、クラウス様は「少し湯を浴びてくる。戻ったら続きを片付けるよ」と言ってバスルームへ消えた。
続きを片付ける?
この量を?
見たところ、未決済の案件が軽く二百件はある。
今のペースだと、彼が寝室の明かりを消してくれるのは深夜三時を過ぎるだろう。
それは困る。
非常に困る。
私の安眠にとって、部屋の明かりと、ペンが紙を走るカリカリという音は大敵なのだ。
私はため息をつき、長椅子の上に散乱した書類の一枚を手に取った。
『夏季・王都街路樹整備計画予算申請書』とある。
中身をざっと見る。
「……ひどい」
思わず声が出た。
数字が合っていない。
単価と数量の掛け算が間違っているし、前ページとの合計も食い違っている。
しかも、この申請書、さっき見た別の部署からの申請と内容が重複している。
前世、経理部で鬼軍曹と呼ばれた私の中の何かが、パチンと弾けた。
(こんなものをチェックするために、私の睡眠時間が削られるなんて許せない)
私は袖をまくった。
クラウス様がお風呂から上がるまで、おそらく三十分。
それだけあれば十分だ。
私は近くにあったサイドテーブルの上の羽ペンと、赤いインク壺を引き寄せた。
そして、床に座り込み、書類の山に向かって戦闘を開始した。
まず、書類を三つの山に分ける。
右は『即時決済可能(問題なし)』。
中央は『要修正・却下』。
左は『確認事項あり(保留)』。
私は凄まじい速度で書類をめくり、視線を走らせた。
読むのではない。
情報のパターンを認識し、違和感を抽出するのだ。
これ、計算ミス。赤ペンで修正値を記入。中央へ。
これ、書式不備。日付がない。中央へ。
これ、以前の案件の使い回し。却下。中央へ。
これ、完璧。右へ。
私の手は機械のように動き続けた。
頭の中で、前世の電卓を叩く音が響く。
三桁の掛け算など、見るだけで答えが出る。
矛盾した記述は、文章が赤く光って見える(ような気がする)。
バサッ、バサッ、バサッ。
静かな寝室に、紙をさばく音だけがリズミカルに響く。
二十分後。
長椅子を埋め尽くしていた白い山脈は消滅し、テーブルの上に整然と積まれた三つの塔に変わっていた。
「ふぅ」
私は額の汗を拭い、満足げに頷いた。
これで長椅子が使える。
私は羽ペンを置き、確保された長椅子にごろんと横になった。
ふかふかのクッションが背中を受け止める。
ああ、幸せだ。
ガチャリ。
タイミングよく、バスルームの扉が開いた。
「ふう、生き返ったよ。……ん?」
湯気を纏ったクラウス様が、髪をタオルで拭きながら出てきた。
そして、部屋の異変に気づいて足を止める。
散乱していた書類がない。
代わりに、私が長椅子でくつろいでいる。
「ミズキ? 書類はどこへやったんだ? まさか、床に落ちていたから捨てた、なんてことは……」
「捨ててはいませんよ。分類しただけです」
私は長椅子から上半身だけを起こし、テーブルを指差した。
「右が決済可能、中央が突き返すもの、左が要確認です。あ、中央の束は計算間違いを赤で直しておきましたので、担当官にそのまま投げ返せばいいと思います」
「……は?」
クラウス様が珍しく間の抜けた声を出し、テーブルに近づいた。
一番高い『中央の塔』から、一枚を手に取る。
パラパラと中身を確認し、彼の目が驚愕に見開かれた。
「これは……予算の不正計上か? 一見すると分からないように粉飾されているが……」
「ああ、それは資材の単価が市場価格より三割高く設定されていますね。指定業者との癒着でしょう」
私が欠伸混じりに答えると、クラウス様はバッとこちらを振り返った。
「君は、市場価格まで把握しているのか?」
「実家の領地経営を手伝っていましたから。大体の相場は頭に入っています」
「手伝っていた? この量を、私が風呂に入っている間に?」
クラウス様は信じられないといった顔で、他の書類も次々と確認していく。
その表情が、驚きから徐々に険しいものへと変わっていった。
眉間に深い皺が刻まれ、青い瞳が冷たい光を帯びていく。
(あ、怒ってる?)
勝手に触ったのはまずかったかもしれない。
いくら散らかっていたとはいえ、国家機密も含まれていたかもしれないし。
「すみません。邪魔だったので、つい」
「……邪魔?」
「はい。私の昼寝スペースを侵食していたので。片付けないと眠れませんから」
私が正直に理由を告げると、クラウス様は書類を持ったまま、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。
怒られる。
私は身構えたが、彼は私の前に膝をつき、視線を合わせた。
その瞳にあったのは、怒りではなかった。
深く、重い、悲しみと慈愛だった。
「ミズキ。君は実家で、毎日これをやっていたのか?」
「ええ、まあ。父も元婚約者も数字が苦手でしたから。私が処理しないと終わらないので」
「……そうか」
クラウス様の声が低く震えた。
彼は私の手をそっと取り、赤インクで少し汚れた指先を、愛おしそうに親指で撫でた。
「君の元婚約者は『君は何もできない無能だ』と言っていたそうだが」
「ええ。お茶を淹れるのも下手だと言われていました」
「節穴だな。いや、節穴というのも生ぬるい」
クラウス様が吐き捨てた言葉には、明確な殺気が混じっていた。
室内の温度が数度下がった気がする。
「通常の文官なら三日はかかる作業だ。それを君は、たった数十分で、しかも完璧にこなした。……君の能力はずば抜けている。国宝級だ」
「大袈裟ですよ。ただの事務作業です」
「いいや。君は自分の価値を分かっていない」
クラウス様は私の手を離すと、立ち上がって『右の塔(決済可能)』の書類に次々とサインをし始めた。
中身をほとんど確認していない。
「あの、確認しなくていいんですか?」
「君がチェックしたのだろう? ならば、私が改めて見る必要はない。君以上に正確な目を持つ人間など、この城にはいないからな」
全幅の信頼。
出会って十日の相手に向けるには、あまりにも重い信頼だった。
「終わった」
あっという間にサインを終えたクラウス様は、残りの書類の山(修正と保留)を「明日、担当者を呼び出して説教だな」と言いながら、部屋の隅の箱へ放り込んだ。
そして、明かりを落とし、私の隣へ戻ってくる。
「ありがとう、ミズキ。おかげで今夜も早く眠れそうだ」
「それは良かったです。私も、これで広々と眠れます」
私は長椅子からベッドへ移動し、掛け布団に潜り込んだ。
クラウス様も隣に入ってくる。
いつものように手を繋ぐと、彼の体温がじんわりと伝わってきた。
「……君をこき使っていた連中には、相応の報いが必要だな」
闇の中で、クラウス様がぽつりと呟いたのが聞こえた。
その声はとても優しかったけれど、内容は酷く物騒だった気がする。
「え? 何か言いました?」
「いや。君は何も気にせず、ゆっくりおやすみ」
クラウス様は私の髪を優しく撫でた。
その手つきがあまりに心地よくて、私は彼の言葉の意味を深く考える前に、睡魔に身を委ねてしまった。
私の旦那様は、どうやら私が思っている以上に、私のことを買ってくれているらしい。
事務員として雇ってくれたわけではないようだけど、役に立てたならまあいいか。
私は満足して目を閉じた。
明日も平和に、二度寝ができますように。




