第9話 初めての言葉
午後の日差しが、庭の芝生を黄金色に染め上げていた。
風は穏やかで、色とりどりの花々が甘い香りを漂わせている。
ランチを終えた私たちは、場所をテラスから庭へと移し、食後のティータイムを楽しんでいた。
といっても、主役はお茶でもお菓子でもない。
芝生の上に敷かれた大きな毛布。
その上で、小さな冒険者が偉大なる挑戦を始めようとしていた。
「……頑張れ、レオン。あと少しだ」
クラウス様が芝生の上に座り込み、両手を広げて待ち構えている。
その目の前で、レオンがプルプルと震えながら、パパの膝に手をついていた。
つかまり立ち。
ここ数日、ベビーベッドの柵を掴んで立ち上がる練習をしていたけれど、不安定な芝生の上では初めての挑戦だ。
「いけるか? 無理はするなよ。……いや、お前ならできる!」
クラウス様の応援が熱い。
国王陛下としての威厳はどこへやら、今はただの必死な父親だ。
その後ろでは、アデルバート皇帝とソフィア王女も、固唾を飲んで見守っている。
「立て、レオン! 帝国の男なら立つんだ!(帝国じゃないけど)」
「まあ、足腰がしっかりしていますわ。魔力でバランスを取っているのかしら」
ギャラリーの声援を受け、レオンが小さな足に力を込める。
ふんっ、と気合を入れるような顔。
銀色の髪が風に揺れる。
そして。
すっ。
膝が伸びた。
小さな体が、大地を踏みしめて立ち上がる。
視界が高くなったことに驚いたのか、レオンが目を丸くし、それからパッと顔を輝かせた。
「立った……! 立ったぞ、ミズキ!」
クラウス様が歓声を上げる。
私も思わず拍手をしてしまった。
「すごいわ、レオン! 上手よ!」
レオンは得意げに胸を張り、パパの膝をバンバンと叩いた。
そして、クラウス様の顔を見上げて、口を開く。
「あ……う……」
何かを言おうとしている。
先ほどランチの席で聞こえた、あの音。
今度はもっとはっきりと、意志を持って紡がれようとしている。
あたりが静まり返った。
風の音さえ止まった気がした。
「……パ」
小さな唇が動く。
「……パ、パ!」
明確な発音。
それは、意味を持った初めての言葉。
世界で一番、彼に近い存在を呼ぶ愛称。
「…………っ!!」
クラウス様が、息を呑んで硬直した。
時が止まったような数秒間。
やがて、彼の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
「……呼んだ。今、パパと……」
「ええ、呼びましたよ。はっきりと」
私が答えると、彼は崩れ落ちるようにレオンを抱きしめた。
「レオン……! ああ、私の愛しい息子……!」
男泣きだ。
人目も憚らず、子供のように泣いている。
かつて孤独に凍えていた氷の王子が、今はこんなにも温かい涙を流している。
その姿を見ているだけで、私の胸も熱くなった。
「パパ! あー!」
レオンも嬉しそうに、クラウス様の濡れた頬をペチペチと叩いている。
魔力の火花は散っていない。
ただの、幸せな親子の光景だ。
「……やれやれ。これでは勝てんな」
アデルバートが目元を拭いながら、苦笑する。
ソフィアも、扇子で顔を仰ぎながら目を細めていた。
「素敵な光景ですわ。……これを見られただけで、来た甲斐がありました」
私は彼らに会釈をし、夫と息子の元へ歩み寄った。
芝生に膝をつき、二人の背中に手を回す。
「よかったですね、あなた。……最初の言葉、奪われてしまって少し悔しいですけど」
「す、すまない……。だが、嬉しい……」
クラウス様が泣き笑いの顔を向ける。
本当に、幸せそうな顔だ。
ふと、過去の記憶がよぎる。
婚約破棄されたあの日。
絶望の淵にいたわけではないけれど、未来など見えなかった。
ただ眠りたくて、面倒なことから逃げ出したかったあの日。
もし、あの時デレク様の手を振り払わなかったら。
もし、クラウス様が私を拾ってくれなかったら。
こんな日は来なかった。
「悪役令嬢」と呼ばれた私。
「不眠症」で苦しんだ彼。
欠落を抱えた二人が出会い、契約を結び、ぶつかり合い、そして家族になった。
そのすべての道のりが、この瞬間のためにあったのだとしたら。
私は、運命というものに感謝しなければならないだろう。
「……ママ?」
不意に、レオンが私を見た。
首を傾げ、不思議そうに瞬きをする。
「えっ? 今、ママって……」
「マンマ!」
言った。
二言目は、私だった。
「ふふ、はい。ママですよ」
私はレオンの頬にキスをした。
クラウス様が「おお、ママも言えたか!」とさらに号泣する。
騒がしくて、愛おしい。
私たちの「安眠」は、静寂の中にあるのではない。
この温かな喧騒と、確かな絆の中にこそあるのだ。
太陽が傾き、空が茜色に染まり始める。
長い一日が終わろうとしていた。
けれど、私たちの物語は終わらない。
この子が歩き出し、言葉を覚え、成長していく未来が待っている。
「……帰りましょうか。お部屋へ」
「ああ。……レオン、よく頑張ったな」
クラウス様が立ち上がり、レオンを肩車した。
高い視点に、レオンが大喜びで声を上げる。
アデルバートとソフィアも、微笑みながら後に続く。
私は、その背中を見つめながら、心の中で呟いた。
『さようなら、孤独だった私』
『こんにちは、幸せな私』
満ち足りた足取りで、私は愛する家族の後を追った。
数年後、この庭をもっと賑やかな声で満たす未来を夢見ながら。




