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【最終章完結!】婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅
第4章

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第9話 初めての言葉



 午後の日差しが、庭の芝生を黄金色に染め上げていた。


 風は穏やかで、色とりどりの花々が甘い香りを漂わせている。

 ランチを終えた私たちは、場所をテラスから庭へと移し、食後のティータイムを楽しんでいた。

 といっても、主役はお茶でもお菓子でもない。


 芝生の上に敷かれた大きな毛布。

 その上で、小さな冒険者が偉大なる挑戦を始めようとしていた。


「……頑張れ、レオン。あと少しだ」


 クラウス様が芝生の上に座り込み、両手を広げて待ち構えている。

 その目の前で、レオンがプルプルと震えながら、パパの膝に手をついていた。


 つかまり立ち。

 ここ数日、ベビーベッドの柵を掴んで立ち上がる練習をしていたけれど、不安定な芝生の上では初めての挑戦だ。


「いけるか? 無理はするなよ。……いや、お前ならできる!」


 クラウス様の応援が熱い。

 国王陛下としての威厳はどこへやら、今はただの必死な父親だ。

 その後ろでは、アデルバート皇帝とソフィア王女も、固唾を飲んで見守っている。


「立て、レオン! 帝国の男なら立つんだ!(帝国じゃないけど)」

「まあ、足腰がしっかりしていますわ。魔力でバランスを取っているのかしら」


 ギャラリーの声援を受け、レオンが小さな足に力を込める。

 ふんっ、と気合を入れるような顔。

 銀色の髪が風に揺れる。


 そして。


 すっ。


 膝が伸びた。

 小さな体が、大地を踏みしめて立ち上がる。

 視界が高くなったことに驚いたのか、レオンが目を丸くし、それからパッと顔を輝かせた。


「立った……! 立ったぞ、ミズキ!」


 クラウス様が歓声を上げる。

 私も思わず拍手をしてしまった。


「すごいわ、レオン! 上手よ!」


 レオンは得意げに胸を張り、パパの膝をバンバンと叩いた。

 そして、クラウス様の顔を見上げて、口を開く。


「あ……う……」


 何かを言おうとしている。

 先ほどランチの席で聞こえた、あの音。

 今度はもっとはっきりと、意志を持って紡がれようとしている。


 あたりが静まり返った。

 風の音さえ止まった気がした。


「……パ」


 小さな唇が動く。


「……パ、パ!」


 明確な発音。

 それは、意味を持った初めての言葉。

 世界で一番、彼に近い存在を呼ぶ愛称。


「…………っ!!」


 クラウス様が、息を呑んで硬直した。

 時が止まったような数秒間。

 やがて、彼の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。


「……呼んだ。今、パパと……」

「ええ、呼びましたよ。はっきりと」


 私が答えると、彼は崩れ落ちるようにレオンを抱きしめた。


「レオン……! ああ、私の愛しい息子……!」


 男泣きだ。

 人目も憚らず、子供のように泣いている。

 かつて孤独に凍えていた氷の王子が、今はこんなにも温かい涙を流している。

 その姿を見ているだけで、私の胸も熱くなった。


「パパ! あー!」


 レオンも嬉しそうに、クラウス様の濡れた頬をペチペチと叩いている。

 魔力の火花は散っていない。

 ただの、幸せな親子の光景だ。


「……やれやれ。これでは勝てんな」


 アデルバートが目元を拭いながら、苦笑する。

 ソフィアも、扇子で顔を仰ぎながら目を細めていた。


「素敵な光景ですわ。……これを見られただけで、来た甲斐がありました」


 私は彼らに会釈をし、夫と息子の元へ歩み寄った。

 芝生に膝をつき、二人の背中に手を回す。


「よかったですね、あなた。……最初の言葉、奪われてしまって少し悔しいですけど」

「す、すまない……。だが、嬉しい……」


 クラウス様が泣き笑いの顔を向ける。

 本当に、幸せそうな顔だ。


 ふと、過去の記憶がよぎる。

 婚約破棄されたあの日。

 絶望の淵にいたわけではないけれど、未来など見えなかった。

 ただ眠りたくて、面倒なことから逃げ出したかったあの日。


 もし、あの時デレク様の手を振り払わなかったら。

 もし、クラウス様が私を拾ってくれなかったら。

 こんな日は来なかった。


 「悪役令嬢」と呼ばれた私。

 「不眠症」で苦しんだ彼。

 欠落を抱えた二人が出会い、契約を結び、ぶつかり合い、そして家族になった。


 そのすべての道のりが、この瞬間のためにあったのだとしたら。

 私は、運命というものに感謝しなければならないだろう。


「……ママ?」


 不意に、レオンが私を見た。

 首を傾げ、不思議そうに瞬きをする。


「えっ? 今、ママって……」

「マンマ!」


 言った。

 二言目は、私だった。


「ふふ、はい。ママですよ」


 私はレオンの頬にキスをした。

 クラウス様が「おお、ママも言えたか!」とさらに号泣する。

 騒がしくて、愛おしい。


 私たちの「安眠」は、静寂の中にあるのではない。

 この温かな喧騒と、確かな絆の中にこそあるのだ。


 太陽が傾き、空が茜色に染まり始める。

 長い一日が終わろうとしていた。

 けれど、私たちの物語は終わらない。

 この子が歩き出し、言葉を覚え、成長していく未来が待っている。


「……帰りましょうか。お部屋へ」

「ああ。……レオン、よく頑張ったな」


 クラウス様が立ち上がり、レオンを肩車した。

 高い視点に、レオンが大喜びで声を上げる。

 アデルバートとソフィアも、微笑みながら後に続く。


 私は、その背中を見つめながら、心の中で呟いた。


 『さようなら、孤独だった私』

 『こんにちは、幸せな私』


 満ち足りた足取りで、私は愛する家族の後を追った。

 数年後、この庭をもっと賑やかな声で満たす未来を夢見ながら。


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