第8話 皇帝の贈り物
「……信じられんな」
テラスに用意されたランチの席で、アデルバート皇帝がフォークを止めて呟いた。
彼の視線の先には、ベビーチェアに座り、離乳食のパン粥を旺盛な食欲で平らげているレオンがいる。
昨夜、部屋中に雪を降らせ、窓ガラスを粉砕した「小さな暴君」の面影はどこにもない。
今はただの、食いしん坊な赤ちゃんだ。
時折、隣に座るクラウス様の方を見て、ニコニコと笑いかけている。
「昨夜のアレは幻覚だったのか? 今のこの子からは、暴走の気配など微塵も感じんぞ」
「幻覚ではありませんわ。私のドレスが凍りついたのは現実ですもの」
ソフィア王女が優雅にサラダをつまみながら答える。
「ですが、見てください。レオン様の魔力が、クラウス陛下の魔力と共鳴して、綺麗な円環を描いています。……完全に制御されていますわ」
ソフィアの言葉通り、魔力の見える者には分かるのだろう。
レオンの周りには、穏やかで温かい光の膜ができている。
それはクラウス様から供給され、私の「鎮静」で濾過された、安全な魔力だ。
「……私の血が、毒ではなかった証拠だ」
クラウス様が、レオンの口元をナプキンで拭きながら、噛み締めるように言った。
その横顔は晴れやかだ。
憑き物が落ちた、とはこのことだろう。
「ふん。……まあ、結果オーライというやつか」
アデルバートはワイングラスを傾け、どこか遠い目をした。
「魔力過多症は、確かに呪いだ。私も長年、その苦しみにのたうち回ってきた。だが……」
彼は言葉を切り、レオンを真っ直ぐに見据えた。
「その膨大すぎる力は、飼い慣らすことさえできれば、世界を変える最強の武器になる。……この子は、私やクラウスを超える王になる素質がある」
最強の王。
その言葉の重みに、私は少しだけ背筋を伸ばした。
親としては、ただ健康でいてくれればいいと思うけれど。
王族として生まれた以上、彼には背負わなければならない宿命がある。
「アルカディア王妃よ。私からの出産祝い……には少し遅いが、贈り物をさせてくれ」
「贈り物、ですか? 十分いただいておりますが」
「物ではない。……知識だ」
アデルバートは真剣な表情で言った。
「帝国の王立書庫には、古代魔法文明時代の文献が数多く眠っている。その中には、失われた『魔力制御術』や、高密度魔力の運用理論に関する書物もある」
「えっ……それは、国家機密レベルのものでは?」
「構わん。どうせ今の帝国の魔術師たちには解読できん代物だ。だが、お前たちなら……特に、その特異な魔力を持つレオンなら、役立てることができるだろう」
彼はニヤリと笑った。
「書庫の閲覧権限を与えよう。好きなだけ写本を持っていくがいい。……将来、この子が力に振り回されず、力を御する賢王になるための助けになるはずだ」
破格の申し出だった。
知識は力だ。
特にお金では買えない古代の叡智は、レオンの未来を切り開くための何よりの財産になる。
「……アデルバート。いいのか?」
クラウス様が驚いたように尋ねる。
アデルバートは肩をすくめた。
「未来の同盟国への投資だ。それに……私のような怪物を、これ以上増やしたくはないからな」
その言葉には、彼の実感がこもっていた。
孤独な怪物の苦しみを知る者としての、不器用な優しさ。
(……逃す手はありませんね)
私はナプキンで口を拭い、スッと右手を上げた。
「マリア、筆記用具と羊皮紙を。今すぐ」
「は、はい!」
マリアが飛んでくる。
私はサラサラとペンを走らせた。
『覚書。ガレリア帝国はアルカディア王国に対し、王立書庫の閲覧権および文献の複写権を無期限で譲渡する。対象は第一王子レオンの教育に関する全資料とする』
書き終えると、私はそれをアデルバートの前に差し出した。
「陛下。……感動的なお話の腰を折って恐縮ですが、サインをお願いします」
「……は?」
「皇帝陛下のお言葉ですもの、嘘はないと信じておりますが、万が一にも『言った言わない』になると外交問題ですので。……形にしておいた方が、お互いのためかと」
私がニッコリと営業スマイルを向けると、アデルバートは呆気にとられ、それからテーブルを叩いて爆笑した。
「はははは! これだ! この抜け目のなさ! やはり敵わん!」
「ミズキ……君という人は……」
クラウス様が額を押さえている。
ソフィアも「さすがですわ」とクスクス笑っている。
アデルバートは楽しそうにペンを取り、豪快にサインをした。
「いいだろう。契約成立だ。……お前たちの息子は、幸せ者だな。こんなに強欲で頼もしい母親がいて」
「ええ。この子の安眠のためなら、悪魔とだって契約してみせますよ」
私は契約書を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
これでレオンの将来の「教科書」は確保した。
あとは、彼が健やかに育つ環境を守るだけだ。
「あー、うー!」
レオンがパン粥を食べ終わり、声を上げた。
何かを訴えるように、私とクラウス様、そしてアデルバートたちを交互に見ている。
その瞳はキラキラと輝き、何か言葉を発しようと口を動かしている。
「おや? 何か言いたいのかしら」
「マンマ……?」
空耳かもしれない。
でも、確かに意味のある音の響きがした気がした。
「……今、喋りかけなかったか?」
「ええ、聞こえました。……もしかして」
私たちは顔を見合わせた。
成長は早い。
魔力の安定と共に、彼の知性も急速に発達しているのかもしれない。
風が吹き抜け、テラスの花々を揺らす。
心地よい午後の光の中で、私たちの関係は「敵対」から「商売相手」へ、そして今、「家族ぐるみ付き合いの親友」へと変わろうとしていた。
かつて私が望んだ「平穏」とは少し違うかもしれない。
もっと騒がしくて、刺激的で、でも温かい日々。
悪くない。
むしろ、これ以上の幸せはないかもしれない。
私はレオンの頭を撫でながら、この瞬間を心に刻んだ。
最強の家族と、最強の友人たちに囲まれた、最高のランチタイムを。




