第1話 王子の日課
スプーンに乗ったペースト状のニンジンが、慎重に運ばれていく。
緊張感が漂う食卓。
固唾を飲んで見守る侍女たち。
そして、額に脂汗を浮かべながらスプーンを握る、この国の国王陛下。
「……さあ、レオン。アーンだ」
クラウス様が、まるで爆弾処理のような慎重さで、小さな口元へスプーンを差し出す。
ベビーチェアに座らされた我が息子、レオン第一王子は、眠そうな瞳をしばたたかせ、無造作に口を開けた。
パクッ。
一口食べた。
もぐもぐと口を動かし、ごくんと飲み込む。
そして、満足そうに「あー」と声を漏らし、そのままコクリと船を漕ぎ始めた。
「食べた……! そして寝た!」
クラウス様がガッツポーズをする。
周囲から「おおお……」という称賛と安堵の声が上がった。
「お見事です、陛下。ニンジンのペーストは苦味が出やすいのですが、完璧な下処理でしたね」
「ああ。魔力で繊維を分解しつつ、甘味だけを抽出した甲斐があった。……しかし、食べて三秒で寝るとは。さすがは君の子だ、ミズキ」
クラウス様が手巾で汗を拭いながら、私に満面の笑みを向ける。
私は呆れ半分、愛しさ半分で、夫と息子を眺めていた。
「私の遺伝子だけではありませんよ。その食べることへの執着と、一口ごとの真剣さは間違いなくあなた譲りです」
私はナプキンでレオンの口元を拭いてあげた。
生後半年。
レオンは驚くほど順調に、そして健やかに育っていた。
何より素晴らしいのは、彼が「安眠の申し子」であることだ。
夜泣きはほとんどしない。
お腹が空いた時と、オムツが汚れた時だけ短く主張し、それ以外はひたすら眠っている。
お昼寝の時間も正確で、まるで体内に精巧な時計が埋め込まれているようだ。
「本当に、親孝行な子ですね」
「ああ。おかげで公務にも支障が出ない。……というか、私が厨房に立つ時間が増えたな」
クラウス様は最近、国王としての激務の合間を縫って、自ら離乳食作りに励んでいる。
王宮のシェフたちが涙目になるほどの凝りようだ。
素材の厳選から始まり、魔力を使った特殊調理法まで開発しているらしい。
「シェフたちに任せても良いのではありませんか?」
「駄目だ。万が一、変な不純物が混じったらどうする。レオンの体を作る大事な時期なんだ。私の目が届く範囲で作らなければ」
過保護だ。
相変わらず、この人の「守る」基準は高い。
でも、それが彼の愛の形なのだと知っているから、私は微笑んで見守ることにしている。
食事を終えたレオンを、クラウス様が慣れた手つきで抱き上げる。
銀色の髪がサラリと揺れ、レオンはパパの胸に顔を擦り付けて、本格的な眠りへと落ちていった。
窓の外には、穏やかな午後の日差しが降り注いでいる。
平和だ。
かつて帝国の脅威に怯え、戦場を駆けた日々が嘘のように、静かで満ち足りた時間が流れている。
***
その日の午後。
レオンを子供部屋のベッドに寝かせた後、私は執務室で書類の決裁を行っていた。
王妃としての公務も、今は完全に復帰している。
私が考案した「業務効率化マニュアル」のおかげで、以前の半分以下の時間で処理が終わるのが自慢だ。
「……ふむ。スノーランドとの魔石取引、今月も順調ですね」
報告書にサインをしながら、私は満足げに頷いた。
ソフィア王女とのビジネスは拡大の一途を辿っている。
私の魔力を使った「洗浄技術」で不純物を取り除いたスノーランド産魔導石は、今や大陸中で引っ張りだこの人気商品だ。
「妃殿下、少しよろしいでしょうか」
不意に、侍医長が声をかけてきた。
定期検診の時間だ。
レオンの健康状態をチェックするため、彼は毎日この時間にやってくる。
「どうぞ。レオンなら、ぐっすり眠っていますよ」
「ええ、拝見しました。……発育は順調そのものです。ただ」
侍医長が言葉を濁した。
その表情に、微かな曇りがあるのを見逃さなかった。
「何か、問題でも?」
「いえ、問題というほどでは……。ただ、レオン様の魔力値が、生後半年としては少々高すぎる傾向にあります」
魔力値。
私はペンを置いた。
「具体的には?」
「通常の赤子の十倍……いえ、二十倍近い魔力を内包されています。今は安定していますが、感情が高ぶった時などに、周囲へ影響が出る可能性があります」
二十倍。
背筋が少しだけ冷たくなる。
それは、ただ「才能がある」で済ませられる数値ではない。
「……先ほど、レオンの指先を見たのですが」
私は今朝の出来事を思い出した。
レオンが眠りながら指をしゃぶっていた時、その指先からパチパチと、小さな青い火花のようなものが散っていたのだ。
静電気かと思ったけれど、あれは魔力の漏出だったのかもしれない。
「パチパチと、音が鳴っていました。あれは?」
「ええ、魔力の余剰分が放出されている現象でしょう。……妃殿下、あまり心配なさらないでください。レオン様には、あなたの『鎮静』の血が流れています。自浄作用が働いている証拠でもありますから」
侍医長は努めて明るく言った。
そう。
レオンは私の子だ。
私とクラウス様、二人の魔力を受け継いでいる。
強い魔力を持つことは予想されていたし、それを制御する力も備わっているはずだ。
「分かりました。……引き続き、経過観察をお願いします」
「承知いたしました。何かあれば、すぐにご報告します」
侍医長が退室した後、私は窓の外を見た。
庭では、庭師たちが新しい花壇の手入れをしている。
平和な景色。
けれど、心の中に小さな小石が投げ込まれたような、波紋が残った。
クラウス様は「魔力過多症」で長く苦しんだ。
もし、レオンも同じ運命を辿ることになったら?
あの孤独と不眠の恐怖を、この小さな子が味わうことになったら?
(……考えすぎですね)
私は首を振って、ネガティブな思考を追い払った。
レオンには私たちがいる。
クラウス様の時には誰もいなかったけれど、レオンには最強のパパとママがついているのだ。
何かあっても、私たちが守ればいい。
コンコン、と扉がノックされる。
今度は侍女のマリアだ。
手には、分厚い封筒を持っていた。
「ミズキ様、北の帝国より急使です。……あの方から、親書が届いております」
「あの方?」
封筒を受け取る。
そこには、双頭の鷲の紋章。
ガレリア帝国皇帝、アデルバート二世からの手紙だ。
あの日、国境で契約を交わしてから半年。
彼は私の作った「強制安眠石」の定期購入者(サブスクリプション会員)として、毎月律儀に代金と近況報告を送ってくる優良顧客だ。
封を開け、中身を読む。
豪快な筆跡で、こう書かれていた。
『石の効き目は上々だ。おかげで毎晩、死んだように眠れている。だが、そろそろメンテナンスの時期だろう? 来週、そちらへ向かう。……ついでに、赤子の顔も見せてもらおうか』
来週。
向かう。
「……相変わらず、強引なお客様ですね」
私はため息交じりに笑った。
一国の皇帝が、そう簡単にお忍びで他国に来ていいものではない。
けれど、彼にとって「安眠」は何よりも優先すべき事項なのだろう。
それは私もよく分かる。
「マリア、迎賓館の準備を。それと、最高級のお茶菓子を手配して。……大口のお客様がいらっしゃいますよ」
「かしこまりました。……また、賑やかになりそうですね」
マリアも苦笑している。
平和な日常に、少しだけスパイスが加わる予感。
でも、それは決して悪い予感ではなかった。
私は椅子から立ち上がり、子供部屋へと向かった。
レオンの寝顔が見たくなったのだ。
すやすやと眠るその顔を見れば、どんな不安も吹き飛ぶ気がした。
子供部屋に入ると、クラウス様がベビーベッドの柵にもたれて、うとうとしていた。
レオンを見守っているうちに、自分も眠くなってしまったらしい。
二人して同じ角度で首を傾げ、同じリズムで寝息を立てている。
(ふふ、本当にそっくり)
私は毛布を手に取り、クラウス様の肩にそっと掛けた。
レオンの指先を見る。
今はパチパチとは鳴っていない。
ただの、小さくて可愛い赤ちゃんの指だ。
「大丈夫よ。ママが守ってあげる」
小声で囁き、私はレオンの頬にキスをした。
この完璧な幸福を、誰にも壊させはしない。
たとえそれが、生まれ持った血の宿命であったとしても。
私は二人の寝顔を守る番人として、静かに部屋の明かりを落とした。
来週の来客に備えて、私も体力を温存しておかなければ。
そう自分に言い聞かせて、私は執務室へ戻る足取りを早めた。
嵐の前の静けさ、と言うにはあまりに穏やかすぎる午後のことだった。




