第7話 安眠の商談
「……静かだ」
荒れ果てた大地に、掠れた声が落ちた。
砂煙が晴れ、露わになったのは、大の字になって空を見上げている一人の男の姿だった。
ガレリア帝国皇帝、アデルバート二世。
先ほどまで世界を壊そうとしていた怪物は、今はただの、疲れ切った人間に戻っていた。
「頭の中のノイズが消えた。……焼けるような熱も、殺意も、すべて」
彼は自分の両手を見て、信じられないというように瞬きをした。
その瞳は澄んでおり、知的な光が戻っている。
成功だ。
私の魔力が、彼の暴走回路を完全にシャットダウンしたのだ。
「お目覚めですか、陛下」
私はクラウス様に支えられながら、皇帝の枕元へと歩み寄った。
足が震える。
魔力を使い果たした脱力感と、極度の緊張の反動だ。
でも、まだ仕事は終わっていない。
最後のクロージング(契約締結)までが商談だ。
皇帝が視線を巡らせ、私とクラウス様を捉えた。
一瞬、驚愕に目を見開き、そして自嘲気味に笑った。
「アルカディア国王……それに、王妃か。……なぜ、私を殺さなかった?」
彼は上半身を起こし、私たちを真っ直ぐに見据えた。
「私は侵略者だ。貴国の領土を荒らし、王妃を奪おうとした。ここで首を刎ねれば、後患を断てたはずだ」
「ええ、その通りです。夫もそうしようとしていました」
私が答えると、隣でクラウス様が気まずそうに視線を逸らした。
剣の柄に置かれた手は、まだ警戒を解いていない。
「ですが、死人とは商売ができませんから」
私は懐から、あらかじめ用意していた羊皮紙の束を取り出した。
ソフィア王女と連携して作り上げた、条約の草案だ。
「商売?」
「はい。私たちは平和と安眠を望んでいます。あなたは病の治療を望んでいる。……需要と供給は一致しています」
私は皇帝の目の前に、契約書を突きつけた。
「取引をしましょう。我が国は今後、あなたの魔力過多症を抑制するための『鎮静石』を定期的に提供します。その代わり、あなたは軍を引かせ、我が国との不可侵条約にサインしてください」
皇帝が呆気にとられた顔をした。
無理もない。
命拾いをした直後に、ビジネスの話をされるとは思わなかっただろう。
「……慈悲ではないのか?」
「効率の問題です。戦争になれば、我が国もタダでは済みません。勝っても負けても、私の安眠は妨害されます。そんな非生産的なことはお断りです」
私がきっぱりと言うと、皇帝はしばらく私を凝視し、それから腹の底から笑い出した。
「ははは! 非生産的、か! 命のやり取りをそう断じるとは!」
彼は笑い涙を拭い、清々しい表情で立ち上がった。
ボロボロの軍服姿だが、そこには本来の王としての威厳が戻っていた。
「気に入った。……私は長い間、力に溺れ、孤独だった。誰も私を止められず、誰も私と対等に話そうとはしなかった。だが、貴様らは違う」
彼は私たちが差し出した契約書を受け取り、内容を一瞥した。
そして、懐から携帯用の筆記具を取り出し、迷うことなくサインをした。
「契約成立だ。アルカディア王妃よ。……その『鎮静石』とやら、定期購入を申し込むことは可能か?」
「もちろんです。大口顧客として優遇させていただきますわ」
「頼もしいな。これで私も、枕を高くして眠れるというものだ」
皇帝はクラウス様に手を差し出した。
クラウス様は一瞬ためらったが、私の顔を見て、ため息交じりにその手を握り返した。
「……二度と、私の妻に手を出さないと誓え」
「ああ、誓おう。こんな恐ろしい商売人を敵に回したくはないからな」
二人の王が握手を交わす。
歴史が変わる瞬間だった。
戦火の火種は消え、代わりに強固な経済的パートナーシップが結ばれたのだ。
「では、私は軍を引かせよう。……また会おう、商売敵殿」
皇帝はニヤリと笑い、風のように去っていった。
遠くで待機していた帝国軍が撤退していく気配がする。
終わった。
本当に、終わったのだ。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
「……ふぅ」
私は大きく息を吐き、その場にへたり込もうとした。
クラウス様が慌てて支えてくれる。
「ミズキ! 大丈夫か!? 無理をさせたな、すまない」
「いいえ、平気です。……ただ、少しお腹が……」
ズキン。
鋭い痛みが腰を走り抜けた。
今までの「張り」とは違う。
もっと根源的で、抗いようのない衝動。
内側から、何かが押し出されようとしている。
「……あっ」
思わず声が漏れた。
足元に、温かいものが流れ落ちる感覚。
破水だ。
「ミズキ!? どうした、顔色が……!」
「く、クラウス様……。商談は、終わりじゃなかったみたいです……」
私は彼の腕を強く掴んだ。
脂汗が滲む。
痛みの波が、さっきの魔力嵐よりも激しく押し寄せてくる。
「う、生まれます……っ!」
「なっ……!?」
クラウス様の顔が、皇帝と対峙していた時以上に蒼白になった。
世界最強の魔術師であり国王である彼が、ただのパニックになった夫の顔になる。
「こ、ここでか!? 馬車まで戻れるか!? いや、転移魔法で……!」
「動けません! 無理です! 痛いっ!」
もう一歩も歩けない。
赤ちゃんは待ってくれない。
平和になった世界に、一秒でも早く出てきたいと主張しているようだ。
「砦です! あそこの砦に運んでください! 今すぐ!」
私の絶叫に、クラウス様が弾かれたように動いた。
私を横抱きにし、全力疾走を始める。
ああ、なんてこと。
安眠を取り戻したと思ったら、今度は出産という大仕事が待っていたなんて。
やっぱり私の人生、スローライフには程遠いのかもしれない。
遠ざかる意識の中で、私は覚悟を決めた。
最後のひと踏ん張りだ。
この子に会うために。




