第6話 暴走する魔力
かつて、私の夫は夜を恐れていた。
眠れば制御を失った魔力が溢れ出し、部屋を破壊し、自分自身さえも傷つけてしまうからだ。
孤独な王太子は、誰にも触れられぬよう、氷の殻に閉じこもって震えていた。
私がその手を取るまでは。
今、私の目の前にある光景は、あの頃の悪夢を具現化したようだった。
「……アァァァァァァッ!!」
空気がびりびりと震える。
砦から百メートルも離れていない荒野の真ん中に、その男は立っていた。
ガレリア帝国皇帝、アデルバート二世。
しかし、今の彼を「人間」と呼べる者はいないだろう。
全身から噴き出す黒紫色の魔力が、巨大な竜巻となって天を衝いている。
地面はひび割れ、触れるものすべてを塵に変えていく。
その中心で、豪華な軍服はボロボロに引き裂かれ、乱れた髪の間から覗く瞳は白目を剥いていた。
苦しそうだ。
ただ暴れているのではない。
自分の内側から湧き上がる力に焼かれ、引き裂かれる苦痛にのたうち回っているのだ。
「……やはり、手遅れか」
隣で、クラウス様が剣を抜いた。
美しい装飾の施された宝剣が、彼の魔力を受けて冷たい光を放つ。
「理性が完全に飛んでいる。あれではもう、言葉も届かない。……せめて、私が楽にしてやるしかない」
悲痛な響きだった。
彼には分かるのだ。
同じ病を抱えていた者として、あの状態がどれほどの地獄であるかが。
死による解放。
それが慈悲だと、彼は本気で思っている。
クラウス様が一歩踏み出す。
攻撃のための魔力が練り上げられる。
世界最強の魔術師である彼が本気を出せば、皇帝ごとこの一帯を消し飛ばすことも可能だろう。
でも、それでは駄目だ。
「待ってください」
私は彼の手首を掴んだ。
剣を握る手が止まる。
「ミズキ、離れろ。巻き添えになる」
「いいえ。よく見てください、クラウス様。あれは、かつてのあなたです」
私は暴走する皇帝を指差した。
「あなたも、一歩間違えればあなっていたかもしれない。孤独の中で、誰にも助けを求められず、力に飲まれていたかもしれない」
「……だからこそ、終わらせてやるんだ」
「違います。終わらせるのではなく、救うんです」
私は彼の手を強く握りしめた。
「あの時、私があなたを一人にしなかったように。今度は私たちが、彼の手を取る番です」
クラウス様が私を見た。
揺れる青い瞳。
そこには、過去の自分への恐怖と、私への深い信頼が混ざり合っていた。
ドォォォォォン!!
皇帝から放たれた魔弾が、近くの岩山を粉砕した。
衝撃波が私たちを襲う。
クラウス様が反射的に結界を強化し、私を庇う。
透明な壁に、黒い風が激突して火花を散らす。
凄まじい圧力だ。
普通の人間なら、立っているだけで意識を刈り取られるだろう。
けれど、クラウス様の結界の中は、驚くほど静かだった。
「……私の魔力は、全て防御に回す」
彼が剣を収めた。
覚悟を決めた顔だった。
「攻撃はしない。その代わり、どんな攻撃も通さない。君が仕事をするための時間は、私が作る」
「はい。信じています」
私たちは頷き合い、二人で前へ進んだ。
一歩、また一歩。
死の嵐の中へ。
近づくにつれて、皇帝の咆哮が大きくなる。
言葉にならない叫びの中に、私は明確なSOSを感じ取っていた。
『助けてくれ』『誰か』。
その声は、私の「鎮静」の魔力に共鳴して、鼓膜を揺らす。
お腹の子が、きゅっ、と縮こまるのを感じた。
怖いよね。
ごめんね。
でも、ママは逃げないよ。
私は片手でお腹を優しく撫で、もう片方の手でポケットの中の石を握りしめた。
ひんやりとした感触。
私たちの希望の結晶。
「……ウ、アアアアッ!」
皇帝がこちらに気づいた。
白濁した瞳が、私を捉える。
本能が理解したのだ。
私が、彼を癒やす唯一の存在であると。
彼は獣のように四つん這いになり、凄まじい速度で突っ込んできた。
まるで黒い砲弾だ。
地面を抉り、土煙を上げながら、真っ直ぐに私を目指してくる。
「来るぞ! 衝撃に備えろ!」
クラウス様が叫び、両手を広げて結界の出力を最大にする。
次の瞬間。
ガギィィィィィン!!
耳をつんざくような衝突音。
皇帝の体当たりが、クラウス様の結界に激突した。
世界が歪むような衝撃。
足元の地面が陥没する。
「ぐっ……!」
クラウス様が苦悶の声を漏らす。
結界にヒビが入る音が聞こえた気がした。
相手は一国の皇帝。その魔力は底知れない。
まともに受け止めれば、クラウス様とて無傷では済まない。
それでも、彼は一歩も引かなかった。
私の前に立ち塞がり、仁王立ちで耐えている。
「この程度か……! 私の愛に比べれば、貴様の魔力など蚊ほどにも感じんぞ!」
強がりを叫ぶ彼の背中は、今まで見たどの瞬間よりも大きく、頼もしかった。
これが、私の夫だ。
世界一の男だ。
皇帝が弾き返され、たたらを踏む。
その一瞬の隙。
ここしかない。
「クラウス様、結界を一部解除してください! 正面だけ!」
「何だと!? 危険すぎる!」
「この石は、直接触れさせないと効果が薄いんです! お願いします!」
私の叫びに、彼は一瞬躊躇い、そして歯を食いしばって頷いた。
「……分かった。君に命を預ける!」
シュン、と正面の空気が晴れる。
防御壁が消えた。
生の暴風が私の顔を叩く。
焦げ臭い匂いと、濃厚な魔力の味。
目の前に、皇帝がいる。
距離は五メートル。
彼は涎を垂らし、虚ろな目で私を見ていた。
その手が、鉤爪のように私へ伸びる。
怖い。
足がすくむ。
逃げ出して、布団被って寝てしまいたい。
でも。
ここで逃げたら、一生安眠できない。
「……いい加減に、おやすみなさい!」
私は叫び、右手に握りしめた『強制安眠石』を高く掲げた。
そして、渾身の力を込めて魔力を解放する。
カッ!
石が砕け散った。
中から溢れ出したのは、暴力的なまでの「青」。
深い海のような、静寂の奔流。
それがレーザーのように、皇帝の胸へと吸い込まれていく。
『ガアアアアアアッ!?』
皇帝が絶叫した。
それは苦痛の叫びではなく、憑き物が落ちていくような、魂の咆哮。
彼の体を覆っていた黒紫色のオーラが、青い光に中和され、霧散していく。
私の魔力が、彼の暴走する回路を強制的に遮断し、冷却していく。
燃え盛る炎に、大量の水をぶちまけたようなものだ。
視界が揺れる。
魔力を使い果たした反動で、意識が遠のく。
倒れる。
そう思った瞬間、温かい腕が私を抱き止めた。
「よくやった、ミズキ!」
クラウス様の声。
私は安心して、その腕に身を委ねた。
砂煙が晴れていく。
その向こうには、大の字になって倒れている男の姿があった。
魔力の嵐は消え去り、そこにはただの静寂だけが残っていた。
やった。
商談成立だ。
これでやっと、家に帰って眠れる。
お腹の子が、安堵したように、ゆっくりと動いた。
私は深く息を吐き、勝利の余韻を噛み締めた。




