第5話 国境の会談
窓の外を流れる景色は、いつしか見慣れた緑豊かな森から、荒涼とした荒れ野へと変わっていた。
国境付近。
かつては交易の要所として賑わっていた街道だが、今は人っ子一人いない。
空は不気味な紫色に染まり、遠くで雷鳴のような低い音が絶え間なく響いている。
「……ミズキ。今からでも遅くない。引き返そう」
揺れる馬車の中で、クラウス様が私の手を握りしめながら、何度目か分からない懇願を口にした。
その顔色は、これから戦場に向かう王のものではなく、迷子になりそうな子供のように不安げだ。
「離宮に戻ってくれ。地下シェルターなら安全だ。皇帝の相手は私がする。殺さずに止めるよう、善処はするから」
善処。
つまり、殺してしまう可能性が高いということだ。
彼の実力なら、暴走した皇帝を滅ぼすことは造作もないだろう。
けれど、それでは意味がない。
「駄目です。これは、私にしかできない仕事ですから」
私は彼の手を両手で包み込み、真っ直ぐにその青い瞳を見つめた。
「皇帝陛下は、私の魔力を求めてここまで来たのです。私が隠れれば、彼は私を探して国中を破壊し尽くすでしょう。……ここで会って、終わらせるのが一番被害が少ないのです」
これは効率の問題だ。
そして何より、顧客対応の鉄則だ。
クレーム(暴走)客から逃げ回っても、事態は悪化するだけ。
誠意を持って(物理的に)対応し、鎮めるしかない。
「それに、私には最強の護衛がついていますから」
私は彼に微笑みかけた。
「世界で一番強くて、私のことを愛してくれている旦那様が隣にいるんです。これ以上、安全な場所なんてありませんよ」
私の言葉に、クラウス様は息を呑み、それから観念したように肩を落とした。
「……君には敵わないな。ああ、そうだ。私の命に代えても、君の指一本触れさせない」
彼は私を抱き寄せ、髪に口づけを落とした。
その腕に込められた力が、彼の覚悟の重さを物語っていた。
馬車が速度を落とす。
到着したようだ。
「陛下、王妃殿下。最前線の砦に到着いたしました」
御者の緊張した声。
クラウス様が先に降り、私に手を差し伸べる。
その手に掴まり、私は地面に降り立った。
肌を刺すような、ピリピリとした空気。
これは寒さではない。
高濃度の魔力が大気中に充満しているのだ。
「……ひどい」
砦の城壁の上から見た光景に、私は絶句した。
北の方角。
地平線の彼方から、黒い竜巻のようなものが近づいてきていた。
あれが、皇帝だというのか。
人ではない。
あれは、歩く自然災害だ。
通り過ぎた場所の木々はなぎ倒され、地面は抉れ、空さえも歪んでいる。
その中心に、微かに人の形をした影が見える。
「報告通りだ。理性を失っている」
クラウス様が剣の柄に手をかけ、私の前に立った。
彼の背中からも、対抗するように青白いオーラが立ち上る。
「私の結界の内側にいろ。絶対に離れるな」
「はい」
私は懐から、完成したばかりの『強制安眠石』を取り出した。
手のひらサイズの青い宝石。
この中には、私の全魔力が込められている。
チャンスは一度きり。
外せば、私に魔力を練り直す余力はない。
ドォォォォォ……。
地響きが大きくなる。
暴走する皇帝との距離は、もう目と鼻の先だ。
砦の兵士たちが恐怖に震え、後退りしている。
無理もない。
あんなものと戦えと言われても、人間の手には負えない。
お腹の子が、ポコッと強く蹴った。
怖いよね。ごめんね。
でも、これが終われば、もう怖いものはなくなるから。
「……来ます!」
誰かの叫び声と共に、黒い嵐が砦の目前に迫った。
その中心で、獣のような咆哮が響く。
『ウオオオオオオオッ!!』
言葉にならない叫び。
けれど私には、その叫びの裏にある悲鳴が聞こえた気がした。
痛い。
苦しい。
誰か、止めてくれ。
眠らせてくれ。
かつて、クラウス様が夜ごとに抱えていた孤独な悲鳴と同じだ。
(……待っていてください。今すぐ、楽にしてあげますから)
私は石を握りしめ、一歩前に出た。
クラウス様が展開した絶対防御の結界の中で、私は静かに呼吸を整える。
これが最後の商談だ。
私の安眠を脅かす最大のお客様に、最高の商品をお届けするために。
嵐が、私たちの目の前で弾けた。




