第2話 王の激怒、妻の冷静
クラウス様が執務机を拳で叩きつけた。
バンッ!! という破壊音が響き、頑丈なマホガニーの天板に亀裂が走る。
執務室に控えていた宰相や将軍たちが、一斉に息を呑んで平伏した。
「国境軍、第一から第三師団まで全て動員しろ。離宮周辺には結界師を倍増させろ。……帝国軍が一歩でも足を踏み入れたら、その瞬間に焼き払う」
低く、地を這うような声。
それは王の命令というより、怒れる魔獣の咆哮に近かった。
先ほど、帝国からの特使を追い返してから数時間。
クラウス様の怒りは収まるどころか、時間を追うごとに鋭さを増していた。
彼の全身からは青白い魔力が陽炎のように立ち上り、室内の空気を凍りつかせている。
「陛下、しかし即時開戦となれば、国民への負担も甚大です。まずは外交ルートでの抗議を……」
「抗議だと? 奴らは私の妻を『物』として要求したのだぞ! 交渉の余地などない!」
クラウス様が将軍を一喝する。
その瞳は血走り、理性の光が危うい。
彼は本気だ。
私を守るためなら、世界を敵に回してでも、国一つを灰にしてでも構わないと思っている。
それは深く激しい愛だけれど、同時に破滅的な愛でもあった。
私は部屋の隅にある長椅子に座り、震える手でお腹をさすっていた。
怖い。
戦争が始まるかもしれない恐怖。
そして何より、愛する夫が修羅になっていく姿を見るのが怖い。
お腹の子が、ポコポコと不安げに暴れている。
パパが怖いよ、と訴えているみたいだ。
(……しっかりしなさい、ミズキ)
私は自分自身を叱咤した。
ここで私が怯えていたら、誰が彼を止めるのか。
彼が世界を燃やしてしまったら、私たちの愛する「安眠」はどうなる。
平和な寝室も、穏やかな昼寝も、すべて戦火に消えてしまう。
それだけは絶対に阻止しなくてはならない。
私は元社畜で、効率主義者だ。
感情に任せてコストの高い戦争を選ぶなんて、私の美学に反する。
私は立ち上がった。
足が少し竦んだけれど、深呼吸をして踏ん張る。
「……皆さん、少し人払いを」
私が静かに告げると、将軍たちは救われたような顔をして、逃げるように退室していった。
部屋には、私とクラウス様だけが残される。
「ミズキ、君は休んでいろと言っただろう。ここは殺気が強すぎる。お腹の子に障る」
クラウス様が私に背を向けたまま言う。
私を気遣う言葉だが、その声は硬い。
きっと、今の狂乱した顔を私に見せたくないのだ。
「クラウス様。……こっちを向いてください」
「駄目だ。今の私は、君が知っている優しい夫ではない」
「知っています。あなたは今、怒れる王様です。でも、私にとってはパパですよ」
私は彼の背中に近づき、後ろからそっと抱きついた。
彼の背中は岩のように強張っていた。
冷たい魔力の棘が肌を刺すが、私は構わず腕に力を込めた。
「……戦争をすれば、あなたが忙しくなってしまいます」
「国を守るためだ」
「あなたが戦場に行けば、私は毎晩独りぼっちで寝ることになります」
「君を守るためだ」
「そんなの嫌です。私はあなたと、この子と、三人で川の字になって寝たいんです」
私の言葉に、クラウス様の体がピクリと震えた。
「……私だってそうだ! だが、奴らは君を奪おうとしている! あの狂った皇帝が、君を道具として消費しようとしているんだぞ!」
彼が振り返り、私の肩を掴んだ。
その目には涙が溜まっていた。
「耐えられないんだ。君がいなくなる世界を想像するだけで、気が狂いそうになる。……だから、殺すしかない。脅威となるものは全て」
ああ、やっぱり。
この人は、まだあの時の「孤独な少年」のままだ。
魔力過多に苦しみ、誰も信じられず、眠れない夜を過ごしていた頃の傷が、まだ癒えきっていない。
私は彼の手を取り、自分のお腹に当てさせた。
「落ち着いてください。私はここにいます。どこにも行きません」
私の掌から、鎮静の魔力を流し込む。
温かく、静かな波が、彼の荒れ狂う魔力を包み込んでいく。
「それに……あの皇帝も、あなたと同じなのでしょう?」
「え?」
「魔力過多症。強すぎる力に振り回され、眠れず、精神を蝕まれる病。……今の彼に必要なのは、剣による断罪ではなく、救いではないのですか?」
クラウス様がハッとして私を見た。
「君は……奴を、助けるつもりか? 自分を攫おうとした敵を?」
「いいえ。助けるのではありません」
私は首を横に振った。
「『取引』をするんです。私たちは平和と安眠が欲しい。彼は治療が欲しい。なら、需要と供給は一致しています」
これはビジネスだ。
感情論で殺し合うより、互いに利益のある解決策を探る方が、よほど建設的でスマートだ。
「……君という人は」
クラウス様の目から、狂気の光が消えていく。
代わりに宿ったのは、呆れと、そして深い信頼の色だった。
「聖女なのか、それとも稀代の商売人なのか」
「両方ですよ。そして何より、あなたの妻です」
彼が脱力したように私にもたれかかってくる。
私はその重みを支え、頭を優しく撫でた。
大きな子供をあやすように。
もう、彼は大丈夫だ。
私が支える。
守られるだけの姫は卒業した。
これからは、私が彼の手を引き、正しい道――一番よく眠れる道へと導いていくのだ。
その時。
執務机の上に置かれていた通信用の魔導具が、激しい光を放ち始めた。
緊急連絡を示す赤色ではない。
冷たく澄んだ、氷のような青色。
これは。
「……ソフィアからか?」
クラウス様が顔を上げ、魔導具に手をかざした。
空間に映像が投影される。
そこに現れたのは、隣国スノーランドの王女、ソフィア殿下の凛とした姿だった。
『ごきげんよう、アルカディア国王陛下、王妃陛下。……随分と物騒な空気が漂っているようね』
画面越しでも分かるほど、彼女の背景は慌ただしかった。
おそらく、彼女もまた帝国の動きを察知し、対応に追われているのだろう。
『単刀直入に言うわ。帝国の内情について、面白い情報が入ったの。……あなたたちの「安眠」を守るための、切り札になるかもしれないわよ』
彼女はニヤリと笑った。
それは、頼もしい共犯者の笑みだった。
風向きが変わる。
嵐の中で、一筋の光が見えた気がした。
「聞かせてください、ソフィア殿下」
私はクラウス様の手を強く握り返し、画面に向かって身を乗り出した。
さあ、反撃の準備だ。
私たちの平和な寝室を取り戻すための、最後の商談を始めよう。




