第1話 北からの脅迫状
空の色が、妙に白っぽく淀んで見えた。
即位式から数日が過ぎた午後のことだ。
私は離宮の庭園にあるガゼボで、膨らみ始めたお腹を撫でながら、ぼんやりと北の空を眺めていた。
風が冷たい。
春の柔らかな日差しは雲に遮られ、肌を刺すような冷気が、手入れされた花々を震わせている。
あの日、バルコニーで感じた「風が変わった」という予感。
それは気のせいなどではなかったようだ。
「……ミズキ、中に入っていなさい」
隣で書類を確認していたクラウス様が、ペンを置いて立ち上がった。
その声は低く、張り詰めていた。
いつもなら私を見る時は蕩けるような甘い表情をするのに、今の彼は「王」の顔をしている。
鋭く、冷徹で、敵を排除する捕食者の目。
「お客様ですか?」
「客ではない。……招かれざる侵入者だ」
彼の視線の先、離宮の正門付近が騒がしい。
蹄の音。
金属がぶつかり合う音。
そして、警備兵たちの怒号。
この離宮は、王都の中でも特に警備が厳重な場所だ。
アポイントメントのない者が門をくぐることなどあり得ない。
それなのに、黒い馬車を中心とした武装集団が、強引に敷地内へと乗り入れてくるのが見えた。
馬車には、双頭の鷲の紋章。
北の大国、ガレリア帝国の紋章だ。
「……随分と、乱暴なご訪問ですね」
「下がっていろ。私の背中から出るな」
クラウス様が私を庇うように前に立った。
その背中からは、ビリビリとした魔力の波動が放たれている。
私の「鎮静」が必要になるかもしれない。
そう思って、私は彼の手をそっと握った。
馬車が噴水の前で急停止する。
扉が乱暴に開かれ、降りてきたのは軍服を着た男だった。
顔色は悪く、目は血走り、全身から焦燥感を漂わせている。
外交官というよりは、戦場から逃げ帰ってきた敗残兵のような雰囲気だ。
「アルカディア国王陛下にお目通り願う!」
男が叫んだ。
警備兵たちが槍を突きつけるが、男は気にする素振りも見せない。
いや、見えていないのかもしれない。
彼の目は、真っ直ぐにクラウス様――そして、その背後にいる私に向けられていた。
「無礼であろう。ここは王妃の療養のための離宮だ。剣を帯びたまま立ち入るなど、宣戦布告と受け取るぞ」
クラウス様の声が、氷の刃となって空間を切り裂く。
しかし、特使と思われる男は怯まなかった。
怯まないというより、もっと恐ろしい何かに追い立てられているように見えた。
「形式などどうでもいい! 我らが皇帝陛下のご命令を伝えに来た!」
男は懐から羊皮紙の束を取り出し、震える手でそれを広げた。
「『我が国ガレリア帝国は、貴国の王妃ミズキ・フォン・アルカディアの身柄を要求する』」
……は?
私は耳を疑った。
身柄を要求?
一国の王妃に対して、誘拐犯のようなセリフを吐いたのか、この男は。
クラウス様の肩が、ピクリと跳ねた。
周囲の温度が一気に下がる。
「……聞き間違いか? 今、なんと?」
「聞こえなかったのか! 皇帝陛下は病に伏せっておられる! 貴国の王妃が持つ『鎮静』の力が治療に必要だと判断された! 直ちに貸与せよ!」
貸与。
物扱いだ。
私は人間であり、妻であり、母だというのに。
便利な道具か薬草か何かだと勘違いしているらしい。
以前の私なら、呆れてため息をついていただろう。
「どうぞどうぞ、厄介払いできてラッキー」なんて思ったかもしれない。
でも、今は違う。
お腹の子が、ポコッ、と不安げに動いた。
殺気立った空気に怯えているのだ。
私の大切な安眠の場所。
家族と過ごす穏やかな時間。
それを、土足で踏み荒らそうとする無礼者。
ふつふつと、静かな怒りが込み上げてきた。
「……治療の要請ではなく、命令か」
クラウス様が一歩、前に踏み出した。
その足元から、青白い魔力の光が漏れ出す。
地面の石畳が、バキバキと音を立てて凍りついていく。
「他国の王妃を、まるで奴隷のように差し出せだと? ……ガレリア帝国は、地図から消えたいらしいな」
本気の殺気だ。
クラウス様は激怒している。
王としての威厳すら忘れ、愛する妻を侮辱された一人の男として、目の前の敵を排除しようとしている。
特使の男が、ひっ、と息を飲んで後退った。
しかし、彼もまた引けない理由があるらしい。
「拒否すれば戦争だ! すでに国境には十万の軍が待機している! たかが女一人と国家の存亡、どちらが大事か分かるだろう!」
脅迫。
なりふり構わない姿勢。
これは通常の外交ではない。
皇帝の理性が飛んでいるのだ。
まともな判断ができる状態なら、こんな自殺行為のような要求をするはずがない。
(……皇帝も、魔力過多症なのですね)
私は冷静に分析した。
クラウス様と同じ病。
強すぎる魔力が精神を蝕み、周囲を破壊し尽くす呪い。
治療法がなく、暴走すれば死に至る。
だからこそ、藁にもすがる思いで、私の噂を聞きつけたのだろう。
同情はする。
あの苦しみは、側で見てきた私にもよく分かる。
けれど。
「クラウス様」
私は彼の上着の裾を引いた。
クラウス様が振り返る。
その目は赤く充血し、理性のタガが外れかけていた。
「ミズキ、見るな。……今すぐ、このゴミを掃除する」
「いけません。ここで斬れば、本当に戦争になります」
「構わない! 君を奪われるくらいなら、世界ごと燃やしてやる!」
彼は叫んだ。
その愛は深く、重く、そして狂気スレスレだ。
私が止めなければ、彼は本当にやってしまう。
私はお腹に手を当て、深呼吸をした。
胎動を感じる。
この子に、血の雨を見せるわけにはいかない。
これから生まれてくる世界が、戦火に包まれた地獄であっていいはずがない。
「特使殿」
私はクラウス様の横をすり抜け、前に出た。
冷たい風がドレスを揺らす。
護衛たちが慌てて制止しようとするが、手で制する。
「王妃ミズキ・フォン・アルカディアです。……皇帝陛下の病状、よほど深刻なのですね?」
「き、貴様が……! そうだ、陛下は毎晩叫び声を上げ、宮殿を半壊させている! お前の力があれば治るのだ! さあ、来い!」
男が手を伸ばそうとする。
その瞬間、クラウス様の手から放たれた氷の礫が、男の足元の地面を深々と抉った。
「……その汚い手を、私の妻に向けるな」
地獄の底から響くような声。
男が腰を抜かしてへたり込む。
「帰りなさい」
私は冷ややかに告げた。
「治療をご希望なら、礼儀を尽くして正式に依頼書を出しなさい。脅せば従うと思ったら大間違いです。……私たちは、安眠を妨害する者には容赦しませんよ?」
私の言葉に、特使は顔を青くし、それから悔しそうに唸り声を上げた。
彼には、もう後がないのだろう。
手ぶらで帰れば処刑されるかもしれない。
その恐怖が、彼を突き動かしている。
「……後悔するぞ。陛下は待ってくださらない。軍が動けば、この離宮など灰になる!」
捨て台詞を残し、特使たちは馬車に乗り込んだ。
逃げるように去っていく黒い馬車。
その背後には、重苦しい暗雲が立ち込めていた。
嵐が来る。
私の平穏な生活を、愛する家族との時間を、根こそぎ奪い去ろうとする嵐が。
「……ミズキ」
クラウス様が私を抱きしめた。
その体は小刻みに震えている。
怒りと、恐怖と、私を守りたいという強迫観念。
「絶対に渡さない。君は私のものだ。誰にも触れさせない」
「ええ、知っています。私はどこにも行きませんよ」
私は彼の背中を撫でながら、遠ざかる馬車を見つめた。
戦争。
その二文字が、現実味を帯びて喉元に突きつけられている。
ただ寝ていたいだけなのに。
どうして世界は、私を放っておいてくれないのだろう。
でも、もう逃げ隠れはしない。
守るべきものができた女は強いのだと、教えてあげなくてはならないようだ。
私はお腹の子に「大丈夫よ」と語りかけながら、冷え切った風の中に立ち続けていた。
クラウス様の殺気はまだ収まらず、その手は剣の柄にかかったままだ。
このままでは、彼自身が暴走してしまうかもしれない。
私が、舵を取らなければ。
この国と、家族の未来のために。




