第10話 新しい命と予感
「……疲れたか、ミズキ」
「ええ、正直に言えば。顔の筋肉が引きつって戻りません」
重厚な扉が閉められ、二人きりになった寝室で、私は大きく息を吐き出した。
豪奢な王妃の礼服を脱ぎ捨て、肌触りの良いナイトウェアに着替えた瞬間、どっと疲労が押し寄せてきた。
即位式、パレード、そして祝賀会。
一日中、何千人もの人々の視線に晒され、完璧な笑顔を貼り付け続けていたのだ。
元社畜としての根性で乗り切ったものの、今の私は電池切れ寸前の玩具のような状態だ。
「よく頑張ってくれた。君のおかげで、最高の即位式になったよ」
クラウス様――いいえ、今日からは国王陛下となった夫が、私を労るように抱き寄せた。
彼もまた、王冠の重圧に晒され続けていたはずなのに、その腕は力強く、体温は心地よい。
王としての威厳を纏った彼は素敵だけれど、こうして二人きりの時に見せる、甘えたような表情の方が私は好きだ。
「さあ、寝よう。明日は公務を入れないようにしてある。一日中、このベッドで過ごそう」
「ふふ、新国王がいきなりサボりですか?」
「サボりではない。王妃の体調管理も重要な公務だ」
彼は悪戯っぽく笑い、私を抱き上げてベッドへと運んだ。
慣れ親しんだスプリングの感触。
最高級の羽毛布団に包まれると、張り詰めていた神経がほどけていく。
サイドテーブルの明かりが落とされ、部屋は月明かりだけになった。
静寂が満ちる。
私の安眠を守るための結界が、今日も完璧に機能している証拠だ。
「……ねえ、あなた」
私は彼の胸に頬を寄せ、指先でその広い背中をなぞった。
「これからは、本当に何でも相談してくださいね。私を蚊帳の外に置かないでください」
「ああ、約束する。……ただし、条件は覚えているな?」
「はい。無茶はしないこと。危険な場所には近づかないこと。そして、睡眠時間を確保すること」
私たちが交わした、新しい契約。
それは一方的な保護ではなく、互いを尊重するためのルールだ。
ソフィア王女との一件で、私たちは学んだ。
隠し事は不信を生み、過保護は相手の翼を折るのだと。
「君には敵わないな。……本当に、強くなった」
「あなたのおかげですよ。守られているだけじゃ、つまらないと気づかせてくれましたから」
クラウス様の手が、私のお腹へと伸びてきた。
式典用のドレスの下で締め付けられていたお腹を、優しく撫でてくれる。
妊娠五ヶ月。
まだ目立つほどではないけれど、そこには確かに膨らみがある。
「この子も、君に似て強い子に育つだろうな」
「あら、あなたに似て甘えん坊かもしれませんよ?」
「それは困るな。ママを独占するのは私だけでいいのに」
本気とも冗談ともつかないことを言って、彼は私のお腹に耳を当てた。
「……聞こえるか? パパだぞ。早く出ておいで」
彼が話しかけた、その時だった。
ポコッ。
お腹の奥で、小さな気泡が弾けたような感覚があった。
今まで感じたことのない、不思議な感触。
私の胃腸が動いたわけではない。
もっと明確な、意思を持った動き。
「……!」
「あ……」
クラウス様が顔を上げ、私と視線を合わせた。
その青い瞳が見開かれている。
「今、動いたか?」
「はい……動きました。ポコって」
「胎動だ……!」
彼の手が震えている。
再びお腹に手を当て、全神経を集中させているのが分かる。
しばらくすると、また小さく、ポコッ、と内側からノックされた。
「……生きている」
クラウス様の声が湿り気を帯びた。
彼は感極まったように、お腹に額を押し付けた。
「ここに、命があるんだな。私と君の、新しい家族が」
その姿を見て、私も胸がいっぱいになった。
知識としては知っていた。
お腹に赤ちゃんがいることも、エコーのような魔導具で確認済みだ。
でも、こうして直接「ここにいるよ」と主張されたのは初めてだ。
守らなければ。
この小さな命を。
そのためなら、私はどんな敵とも戦える。
どんな困難も乗り越えられる。
かつて、私は自分の安眠のためだけに生きていた。
誰にも邪魔されず、静かに眠ることだけが幸せだった。
でも今は違う。
この子の寝顔を守るためなら、私は眠れない夜を過ごすことさえ厭わないだろう。
「……クラウス様。私たち、親になるんですね」
「ああ。……絶対に幸せにする。君も、この子も。私の命に代えても」
「命に代えちゃ駄目です。一緒に生きて、一緒に寝るんです」
私が叱ると、彼は涙ぐんだ目で笑った。
「そうだな。一緒に寝よう。……ずっと、三人で」
彼の腕が私を包み込む。
今夜の抱擁は、いつにも増して温かく、そして力強かった。
恋人としての情熱だけでなく、家族としての深い愛情がそこにはあった。
窓の外を見る。
満月が、青白い光を降り注いでいる。
庭の花々が風に揺れ、静かな音を立てている。
平和だ。
これ以上ないほど、満ち足りた夜。
けれど。
ふと、背筋に冷たいものが走った。
風の音が、変わった気がしたのだ。
南から吹いていた柔らかな春風が止み、北の方角から、鋭く冷たい風が流れ込んできたような。
北。
ソフィア王女の国、スノーランドよりもさらに北。
そこには、強大な軍事力を持つ帝国があるはずだ。
(……気のせいでしょうか)
私は身震いをして、クラウス様の胸に顔を埋めた。
彼は私の不安を察知したのか、何も言わずに背中を撫でてくれた。
その手つきは優しかったけれど、どこか彼もまた、同じ予感を感じ取っているように思えた。
幸せの絶頂。
けれど、その足元には、まだ見ぬ嵐の種が芽吹いているのかもしれない。
それでも、今の私はもう一人ではない。
隣には最強の夫がいて、お腹の中には希望がある。
私は彼を見上げ、不安を振り払うように微笑んだ。
「ねえ、クラウス。……風が、変わった気がしませんか?」
彼は一瞬だけ遠くを見る目をして、それから私に口づけをした。
「どんな風が吹こうとも、この場所だけは私が守り抜く。……さあ、おやすみ。今はただ、幸せな夢を見よう」
彼の言葉を信じて、私は目を閉じた。
安らかな眠りの中へ。
明日の風向きがどう変わろうとも、今日という日の幸福は、誰にも奪えない宝物なのだから。
(完)
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