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婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅


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第2話 求婚と安眠



 小鳥のさえずりと、頬を撫でる柔らかな布の感触で目が覚めた。


 あまりにも心地よい朝だ。

 カーテンの隙間から差し込む光は優しく、部屋の温度は暑くもなく寒くもなく、完璧に調整されている。

 何より、このベッド。

 雲の上に浮いているかのような浮遊感と、体を包み込む弾力。

 枕の高さも絶妙で、首への負担が一切ない。


(……最高)


 私は無意識に枕へ顔を埋め、深呼吸をした。

 ほのかに柑橘系の香りがする。

 昨夜の、あの「いい匂い」と同じだ。


 ん?

 昨夜?


 まどろんでいた意識が、急速に現実へと引き戻される。

 記憶の再生。

 卒業パーティー。

 デレク様の怒鳴り声。

 婚約破棄。

 そして、床へのダイブ。


 ガバッと上半身を起こす。

 見慣れた自室の天井ではない。

 見たこともないほど豪華な天蓋付きのベッド。

 壁紙は落ち着いた紺色で統一され、調度品の一つ一つが博物館級の輝きを放っている。


「起きたか」


 部屋の隅にある一人掛けのソファから、声がした。

 心臓が跳ねる。

 そこにいたのは、銀色の髪を窓からの光に透かした、一人の青年だった。


 整いすぎた顔立ち。

 冷ややかだが知性を感じさせる青い瞳。

 そして、漂う高貴なオーラ。


 間違いない。

 この国の第一王位継承者、クラウス・フォン・アルカディア王太子殿下だ。


「お、おはようございます……?」


 寝起きの掠れた声で挨拶をしてしまった。

 不敬極まりない。

 慌ててベッドから降りて膝をつこうとしたが、ふわりとした羽毛布団に足を取られ、無様に転がりそうになる。


「そのままでいい。ここは私の離宮だ。堅苦しい礼儀は必要ない」


 クラウス様は読んでいた本を閉じ、静かに立ち上がった。

 背が高い。

 昨夜、私を抱き上げた腕の持ち主だ。


「離宮……ですか」

「ああ。王都の北、湖に浮かぶ砦だ。許可なき者は誰も入れない」


 砦。

 物騒な響きだが、今の私には「誰も入れない」という部分が魅力的に聞こえた。

 つまり、あの騒がしい元婚約者も、口うるさい実家の父も、ここには来られないということだ。


「昨夜は騒がせてすまなかった。君があまりにも深く眠っていたので、そのまま連れ帰らせてもらった」

「……ご迷惑をおかけしました。あの、私はどれくらい寝ていたのでしょうか」

「十時間ほどだ」


 十時間!

 前世も含めて、そんなに長く眠ったのはいつ以来だろう。

 どうりで体が軽いわけだ。

 頭痛も消えているし、肩の凝りもない。


「水分を摂るといい」


 クラウス様がサイドテーブルのグラスを差し出してくれた。

 中身はただの水だが、喉を潤すと生き返るような心地がした。


「さて、ミズキ嬢。君に提案がある」


 クラウス様がベッドの端に腰掛けた。

 距離が近い。

 整った顔が目の前に迫り、私は思わず背筋を伸ばした。


「君との婚約は、昨夜のデレクの宣言により事実上破綻した。王家としても承認するつもりだ」

「はい。……ありがとうございます」


 私の安堵の声に、クラウス様は少しだけ眉を上げた。


「悲しくはないのか?」

「いえ、全く。むしろ解放感でいっぱいです。これであの過酷な労働から解放されるのですから」


 本音が口をついて出た。

 クラウス様は、ふっと口元を緩めた。

 笑った顔を見るのは初めてかもしれない。氷の王太子という二つ名からは想像できないほど、柔らかい表情だ。


「ならば話は早い。単刀直入に言おう。私と結婚してほしい」


「……はい?」


 思考が停止した。

 今、なんと?

 結婚?

 この国の王太子と?

 婚約破棄されたばかりの、傷物令嬢である私が?


「お言葉ですが殿下、それは冗談にしては笑えません。私は昨夜、公衆の面前で断罪された身です。そのような者を妻にすれば、殿下の名誉に関わります」

「名誉などどうでもいい。必要なのは実利だ」


 クラウス様は真剣な眼差しで私を見据えた。


「私は魔力過多症だ。知っているか?」

「……王家の方特有の、魔力が強すぎて体に負担がかかる症状、でしょうか」

「そうだ。特に私は歴代でも魔力が強く、その影響で重度の不眠に悩まされている。薬も効かない。もう何年も、まともに眠った記憶がない」


 不眠。

 その単語を聞いただけで、私は彼に同情した。

 眠れない辛さは、私もよく知っている。


「だが昨夜、君を抱き上げた時、私の魔力が凪いだのだ。君のそばにいるだけで、頭の中の雑音が消え、信じられないほど深く眠ることができた」


 クラウス様は少しだけ身を乗り出した。


「君には『鎮静』の魔力がある。他者の乱れた魔力を中和し、落ち着かせる希少な力だ」

「鎮静……? 私が?」


 初耳だ。

 確かに、私がいると「部屋の空気がきれいになる」とか「観葉植物がよく育つ」とは言われていたけれど。

 それが、王太子殿下の不眠を治す特効薬だなんて。


「君を私の専属として側に置きたい。だが、単なる侍女や医師として雇えば、君の実家や元婚約者が干渉してくるだろう。『娘を返せ』とな」

「……間違いなく、そう言ってくるでしょうね」


 父は私の事務処理能力を当てにしているし、デレク様も私がいないと何もできないことに、すぐに気づくはずだ。


「だから、結婚という契約が必要なんだ。王太子妃という立場があれば、何人たりとも君に手出しはできない。私が全力で盾になろう」


 クラウス様の提案は、あまりにも合理的だった。

 私の魔力を提供する代わりに、最強の盾を得る。


 しかし。

 王太子妃。

 その響きには、また別の種類の重圧がある。

 公務、外交、世継ぎ問題。

 あの地獄のような忙しさが、レベルアップして戻ってくるだけではないのか?


 私の懸念を察したのか、クラウス様は言葉を継いだ。


「勘違いしないでほしい。君に求めているのは、政治的な役割でも労働でもない。ただ、夜に私のそばにいてくれること。それだけだ」

「……それだけ、ですか?」

「ああ。公務は私がやる。社交も最低限でいい。君は好きなことをして過ごせばいい」


 好きなこと。

 私の好きなことといえば。


「あの、寝ていてもいいんでしょうか」

「構わない」

「一日中、部屋でゴロゴロしていても?」

「この離宮の設備は全て君のものだ。最高級の寝具も、専属のシェフも、庭の散策も、全て自由に楽しんでくれ」


 ゴクリ、と喉が鳴った。

 衣食住の保証。

 最高級のセキュリティ。

 そして、労働の免除。


 これは結婚ではない。

 終身雇用かつ福利厚生が完璧な、夢の再就職先だ。


 デレク様との婚約時代、私は常に何かに追われていた。

 誰かのために働き、誰かの尻拭いをし、感謝されることもなく罵倒された。

 でも、この人は違う。

 彼は明確に、私が必要だと言ってくれている。

 それも、労働力としてではなく、存在そのものを。


「……条件があります」

「何でも言ってみろ」


 私は指を一本立てた。


「睡眠時間は、一日最低八時間は確保させてください。あと、昼寝もします」

「約束しよう」

「実家からの手紙は、一切読みたくありません」

「焼却処分にさせよう」

「デレク様たちが押しかけてきても、会いません」

「城壁の外へ追い返そう」


 完璧だ。

 これ以上の条件など、世界中どこを探してもないだろう。


 私は深々と頭を下げた。


「謹んで、お受けいたします。雇って……いえ、結婚してください」


 クラウス様の手が伸びてきて、私の手をそっと握った。

 その手は大きく、ひんやりとしていて心地よい。


「ありがとう、ミズキ。これで私も、やっと眠れる」


 その声には、心からの安堵が滲んでいた。

 氷の王太子と呼ばれた人の、人間らしい弱さと素顔。

 それを見たとき、私は不思議と、この契約が悪くないもののように思えた。


 こうして、私の離宮での生活が始まった。

 世間では「悪役令嬢が王太子をたぶらかした」とか「拉致された」とか騒がれているらしいけれど。

 知ったことではない。


 だって今の私には、このふかふかのベッドと、安眠を約束してくれる旦那様がいるのだから。


 私はグラスの水を飲み干し、再び枕へと身を沈めた。

 二度寝の時間だ。

 これこそが、幸せというものに違いない。


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