第9話 戴冠と祝福
雲ひとつない青空が、どこまでも高く広がっていた。
王都の空気を震わせるのは、教会の鐘の音と、地鳴りのような歓声だ。
今日、この国に新しい王が誕生する。
「……気分はどうだ、ミズキ」
控え室で、クラウス様が私の手を握りしめた。
彼は白と金を基調とした豪奢な礼服に身を包み、その頭上にはまだ王冠はない。
しかし、その姿はすでに王の風格を纏っていた。
「悪くありませんよ。お腹の子も、今日はおとなしいみたいです」
「無理はするなよ。少しでも辛くなったら、すぐに合図してくれ。式なんて中断して構わないから」
真剣な顔で言う彼に、私は思わず笑ってしまった。
即位式を中断だなんて、前代未聞だ。
でも、この人は本気でやりかねない。
「大丈夫です。あなたの晴れ姿、一番近くで見届けさせてください」
私は彼の手を握り返した。
一ヶ月前、私たちはぶつかり合い、そして分かり合った。
過保護な鳥籠の扉は開かれ、私たちは手を取り合ってここまで来た。
今の私には、守られるだけの弱さはない。
「行こう、ミズキ。君と共に」
クラウス様が腕を差し出す。
私はその腕に手を添え、重厚な扉の向こうへと歩き出した。
***
大聖堂の中は、厳粛な空気に満ちていた。
ステンドグラスから降り注ぐ光の中、数百人の貴族や各国の要人が整列している。
赤い絨毯の上を進む。
以前なら、これだけの視線を浴びれば足がすくんでいただろう。
「逃げたい」「眠りたい」と考えていたかもしれない。
けれど今は、不思議と背筋が伸びていた。
隣に彼がいるからだ。
そして、お腹の中に新しい命がいるからだ。
私がしっかりしなければ、この国の母として恥ずかしい。
最前列の来賓席に、懐かしい顔を見つけた。
ソフィア王女だ。
スノーランドの正装である銀色のドレスを纏い、氷のように澄ました顔で立っている。
私たちの視線が交差する。
彼女はほんの一瞬だけ、口角を上げて微笑んだ。
そして、小さく頷いた。
『見事な手並みだったわ』
『あなたこそ、素晴らしい交渉でした』
言葉はなくとも、通じ合うものがあった。
かつての恋敵候補であり、商売敵であり、そして今は信頼できるビジネスパートナー。
彼女の参列は、我が国とスノーランドの雪解けを象徴していた。
祭壇の前で、私たちは跪く。
大司教の手によって、クラウス様の頭上に重厚な王冠が授けられる。
続いて、私の頭上にも、やや小ぶりな王妃の冠が載せられた。
ずしりとした重み。
それは宝石や金属の重さではない。
国を背負うという責任の重さだ。
以前の私なら押し潰されていたかもしれないその重圧を、今の私は心地よい緊張感として受け止めていた。
「新国王陛下、万歳! 新王妃陛下、万歳!」
大司教の声に合わせて、参列者たちが唱和する。
トランペットが高らかに鳴り響く。
クラウス様が立ち上がり、私の手を取って立たせてくれた。
その掌は温かく、汗ばんでいた。
彼もまた、緊張していたのだ。
人間らしい彼の一面に、私は愛しさがこみ上げる。
私たちは並んで祭壇を背にし、参列者たちに向き直った。
割れんばかりの拍手が、私たちを包み込む。
***
儀式を終え、私たちは王宮のバルコニーへと移動した。
広場を埋め尽くす国民への、最初のお披露目だ。
太陽が眩しい。
眼下には、色とりどりの旗を振る人々の波。
彼らの歓声が、風に乗ってここまで届いてくる。
「……すごい」
私は圧倒されそうになった。
これほど多くの人々が、私たちを見て、期待し、祝福してくれている。
かつて「悪役令嬢」と呼ばれ、後ろ指を指されていた私を、彼らは今「王妃」として受け入れてくれているのだ。
「怖いか、ミズキ」
隣でクラウス様が尋ねてきた。
私は首を横に振った。
「いいえ。……誇らしいです」
私は一歩前に出た。
手すりに手をかけ、大きく手を振る。
歓声がさらに大きくなった。
逃げない。
隠れない。
私はここで生きていく。
この人と、生まれてくる子供と、そしてこの国の人々と共に。
クラウス様も私の隣に並び、手を振った。
そして、不意に私の腰を引き寄せ、観衆の目の前だというのに、私のこめかみにキスをした。
「キャーーーーッ!」
広場から黄色い悲鳴が上がる。
私は顔が沸騰しそうになった。
「ちょっ、クラウス様! みんな見てます!」
「見せつければいい。私がどれほど妻を愛しているか、国民全員に知らしめてやる」
彼は悪びれもせず、ニヤリと笑った。
まったく、この人は。
国王になっても、中身はあの「妻依存症」の王太子のままだ。
でも、それが嬉しい。
公的な王と王妃としての顔。
私的な夫と妻としての顔。
その二つが、今ここで完全に融合した気がした。
どちらかを犠牲にする必要はない。
私たちは、両方を抱えたまま幸せになれる。
風が吹き抜ける。
春の匂いがした。
私が離宮の庭で育てた花々の香りが、ここまで届いているのかもしれない。
ここが私の居場所だ。
もう、どこへも逃げる必要はない。
最高の寝床は、この国の中心にある。
私は満ち足りた気持ちで、青い空を見上げた。
今日の昼寝は、きっと素晴らしいものになるだろう。
式典の興奮冷めやらぬまま、夜が近づいてくる。
二人きりになって、ゆっくりと語り合う時間が待ち遠しい。




