第8話 共同戦線
なぜ、私たちはもっと早くこうしなかったのでしょうか?
ふかふかの枕に背を預けたまま、私は手元の羊皮紙に視線を走らせた。
そこには、完璧な計算式と、冷徹なまでの合理的思考で構成された「未来」が描かれていた。
「……信じられないな」
ベッドの脇に腰掛けたクラウス様が、同じ書類の写しを見ながら唸った。
その声には、呆れと、隠しきれない賞賛が混じっている。
「スノーランド側からの関税撤廃要求に対し、我が国からの技術者派遣と製造ラインの共有で応じる。さらに、加工後の魔石利益は両国で五分五分……。こちらの保守派も文句のつけようがない、完璧な落とし所だ」
ソフィア王女からの書状は、単なる挨拶状ではなかった。
それは、両国の長年の懸案事項を一気に解決へと導く、黄金の設計図だった。
私が昨日のお茶会で提案した、「私の魔力を触媒にした洗浄技術の提供」。
ソフィア王女はそれを瞬時に理解し、具体的な数字と条文へと落とし込んでみせたのだ。
しかも、あの大混乱の去り際に、涼しい顔をして。
「彼女、仕事が早すぎますね。さすがは『氷の王女』です」
「君もだ、ミズキ」
クラウス様が書類を置き、私をじっと見つめた。
その青い瞳は、熱っぽく輝いている。
「君はこの一ヶ月、離宮から一歩も出ていない。誰とも会わず、ただ寝て過ごしていたはずだ。それなのに、いつの間にスノーランドの台所事情を把握し、こんな交渉をまとめたんだ?」
「……企業秘密です」
私は悪戯っぽく微笑んでみせた。
エルヴィンとの密会や、シーツの下に隠した手紙のことは、まだ内緒にしておこう。
全部ばらしてしまっては、ミステリアスな妻の威厳がなくなってしまうから。
「君は、ベッドの上から国を動かしたのか」
「人聞きが悪いですね。私はただ、美味しいタルトを食べながら、お友達とおしゃべりをしただけですよ」
「……恐ろしい妻だ」
クラウス様は苦笑し、私の手を取った。
その手は温かく、もう昨夜のような冷たい拒絶は微塵もない。
「クラウス様。お願いがあります」
私は握り返し、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
今なら言える。
私の本当の望みを。
「これからは、私に隠し事をしないでください。悪いニュースでも、難しい問題でも、全部共有してください」
「……君に心配をかけることになるぞ?」
「構いません。何も知らされずに鳥籠の中で震えている方が、よっぽど体に毒です」
私は、お腹に手を当てた。
まだ小さな命。
でも、この子はきっと、私たちが思っているよりずっと強い。
「私はあなたの『鎮静』薬です。あなたが不安で眠れないなら、私がその不安ごと抱きしめて溶かします。だから、一人で抱え込まないでください」
「ミズキ……」
「それに、私の事務処理能力を甘く見ないでくださいね? あなたの執務室の書類、今の倍の速度で片付ける自信がありますから」
私が胸を張ると、クラウス様は吹き出した。
久しぶりに見る、心からの笑顔だった。
肩の力が抜け、憑き物が落ちたように表情が柔らかくなる。
「ああ、そうだったな。君は私の有能な『影の宰相』だった」
「違います。抱き枕兼、経理担当です」
クラウス様は私の手を引き寄せ、甲に深く口づけを落とした。
それは契約の印ではなく、騎士が主君に捧げるような、あるいは共犯者が誓いを立てるような、重みのあるキスだった。
「分かった。約束しよう。これからは君を蚊帳の外には置かない。君の知恵と強さを借りるよ」
「はい。喜んでお貸しします」
契約成立。
私たちは、ただの「守る・守られる」関係から、背中を預け合うパートナーへと進化したのだ。
その時、ふとクラウス様が真顔になった。
「だが、一つだけ条件がある」
「条件?」
「無理はしないことだ。今日のように倒れられたら、私の心臓が持たない。仕事をする時は、必ず私の目の届く範囲で、休憩を挟みながらやること」
「……過保護は直っていないようですね」
「当然だ。君は私の命そのものなんだから」
開き直ったような彼の言葉に、私は呆れつつも、胸が温かくなるのを感じた。
まあいいでしょう。
それくらいなら、妥協してあげてもいい。
「では、早速仕事です」
クラウス様はソフィア王女からの書状を指差した。
「この提案、基本的に承認するつもりだが、細部の詰めが必要だ。特に、君の魔力をどうやって安定供給するか。君に負担がかからない方法を考えなければならない」
「魔石に私の魔力を封入して、それを希釈して使うのはどうでしょう? それなら、私が直接現場に行かなくても済みます」
「なるほど。魔力タンクの原理か。それなら王宮の魔導具師に試作させよう」
私たちはベッドの上で、国の未来を左右する議論を始めた。
熱を帯びた会話。
次々と生まれるアイデア。
それは、どんな甘い言葉よりも刺激的で、私たちの絆を深めてくれる時間だった。
ひとしきり話し合い、方針が固まった頃。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
「……さて。仕事の話はこれくらいにして」
クラウス様が書類をサイドテーブルに置き、改めて私に向き直った。
その表情が、王太子の顔から、夫の顔へと変わる。
「もう一つ、報告があるんだ」
「何ですか? まだ隠し事があったんですか?」
「いや、隠していたわけではない。……決まったんだ」
彼は深く息を吸い込み、告げた。
「即位式の日取りが決定した。来月の満月の日だ」
即位式。
ついに、その時が来る。
彼が名実ともにこの国の王となり、私が王妃となる日。
「……覚悟はできているか、ミズキ」
「ええ、もちろん」
私は微笑んだ。
不安がないと言えば嘘になる。
王妃という重圧、責任、そしてこれから生まれてくる子供のこと。
考えればキリがない。
でも、今の私には最強の味方がいる。
そして、私も彼の最強の味方だ。
「あなたが隣にいてくれるなら、どんな未来でも楽しみです」
「私もだ。君となら、どんな困難も乗り越えられる気がする」
クラウス様が私を抱きしめる。
その腕の中で、私は確信した。
私たちはもう、大丈夫だと。
長い夜が明けていく。
私たちの新しい時代が、もうすぐ始まろうとしている。
「今日はもう寝よう。明日は忙しくなるぞ」
「はい。……おやすみなさい、あなた」
私たちは寄り添い、目を閉じた。
背を向けて眠った昨夜とは違う。
しっかりと体温を確かめ合い、同じ夢を見るために。
来月の満月。
その日が、私たちの本当の始まりになる。




