第7話 倒れる妻、青ざめる夫
かつて実家の公爵家にいた頃、私は過労で倒れることなど日常茶飯事だった。
徹夜で帳簿を整理し、翌朝そのまま倒れて数時間気絶し、目覚めたらまたペンを握る。
それが当たり前だったし、私の体は頑丈にできていると信じていた。
多少の無理は気合でカバーできると。
けれど、昨夜の夫婦喧嘩から明けた今朝。
その過信は、あっけなく崩れ去った。
「……う」
重たい瞼を持ち上げ、ベッドから体を起こそうとした瞬間だった。
世界がぐらりと回転した。
床が天井になり、天井が床になるような、激しいめまい。
血の気が引いていくのが分かる。
視界がホワイトアウトする。
耳の奥でキーンという耳鳴りが響く。
「ミズキ!?」
焦燥に駆られたクラウス様の声が聞こえた気がした。
何かが倒れる音。
私の体を支えようとする腕の感触。
でも、それも一瞬のこと。
私の意識は、プツリと切れた糸のように途絶えた。
***
次に目を覚ました時、部屋は薄暗くなっていた。
窓のカーテンが引かれ、サイドテーブルのランプだけがぼんやりと灯っている。
「……ここは」
掠れた声が出た。
頭はまだ少し重いが、先ほどのような回転する感覚はない。
ふかふかの枕の感触に、ここがいつもの寝室だと理解する。
「お目覚めですか、妃殿下」
ベッドの脇に控えていたのは、白髪の侍医長だった。
彼は優しげな目で私を見つめ、脈を測るために手首に指を添えた。
「貧血ですな。妊娠中は血液が薄くなりやすいのです。それに、少しストレスと寝不足が重なったようです」
「……赤ちゃんは?」
「ご安心を。母子ともに無事ですよ。ですが、今日一日は絶対安静です。トイレ以外でベッドから出ることは許しませんぞ」
侍医長はわざとらしく怖い顔をして見せた後、部屋の隅へ視線を送った。
「……あちらの患者さんの方が、よほど重症ですな」
彼の視線の先を追う。
部屋の隅、一番光の届かない場所に、うずくまっている人影があった。
クラウス様だ。
彼は壁に背を預け、膝を抱えるようにして座り込んでいた。
その姿は、国を統べる王太子とは思えないほど小さく、脆く見えた。
「クラウス様……」
「……来るな」
私が呼びかけると、彼は顔も上げずに拒絶した。
その声は震えていた。
「私のそばに寄るな。……また、君を傷つけてしまう」
彼が顔を上げた。
その形相に、私は息を呑んだ。
数時間しか経っていないはずなのに、彼の顔はやつれ切り、青い瞳は絶望の色で濁っていた。
そして何より、彼の周囲の空気が歪んでいる。
制御しきれない魔力が、ささくれ立って漏れ出しているのだ。
「私が追い詰めたんだ。君を守ると言いながら、君の自由を奪い、ストレスを与え、あんな風に倒れさせてしまった……」
彼は自分の髪を掻きむしった。
「君の言う通りだ。私は君を鳥籠に閉じ込めていただけだった。……私は、夫失格だ」
痛々しいほどの自責。
彼の過保護が、愛ゆえの暴走だったことは知っていた。
けれど、その結果として私を危険な目に遭わせたという事実に、彼の心は砕け散ってしまったようだ。
この人は、最強の魔力を持ちながら、心は誰よりも繊細で臆病なのだ。
私を失うことへの恐怖。
それが、彼をここまで追い詰めている。
(……馬鹿な人)
昨夜の怒りは、もうどこにもなかった。
残っているのは、どうしようもない愛おしさだけ。
私は侍医長の制止を振り切り、ゆっくりとベッドから降りた。
足元は少しふらつくけれど、歩けないほどではない。
「ミズキ! 駄目だ、寝ていろ!」
クラウス様が叫ぶ。
けれど、彼は私に触れようとはしなかった。
自分の不安定な魔力が、私に悪影響を与えると思っているのだ。
私は構わず彼に近づき、その前に膝をついた。
そして、彼の冷たい頬を両手で包み込んだ。
「触らないでくれ……汚れる……」
「汚れません。私はあなたの妻で、あなたの『鎮静』薬ですよ?」
私は意識を集中させた。
体の中にある魔力の泉から、静かで透明な水を汲み上げるイメージ。
それを、手のひらを通して彼へと流し込む。
じわり。
私の温もりが彼に伝わる。
ささくれ立っていた彼の魔力が、雪が溶けるように静まっていく。
「……っ」
クラウス様の瞳から、涙が溢れ出した。
彼は私の手首を掴み、すがるように顔を押し付けた。
「ごめん……ごめん、ミズキ……」
「謝らないでください。私も悪かったんです。あなたの不安を、ちゃんと理解してあげられなくて」
私は彼を抱きしめた。
彼は子供のように泣きじゃくった。
「怖かったんだ。君がいなくなるのが。母上のように、私のせいで……」
以前聞いたことがある。
彼の母である前王妃は、彼の強すぎる魔力の影響で体を壊し、早逝したと。
それが彼のトラウマになっているのだ。
「私は大丈夫です。母上とは違います。だって、私はあなたの魔力を中和できる、世界で唯一の女ですから」
「……ああ、そうだ。君だけだ」
「だから、信じてください。私の強さを。あなたの隣に立っても、決して折れたりしない私の図太さを」
私が笑って言うと、クラウス様はようやく顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめた。
そこには、昨夜のような拒絶の色はもうなかった。
「……分かった。信じよう。君は私が思っているよりずっと、強くて賢い女性だ」
「ええ。それに、かなり頑丈ですよ。二度寝すれば治りますから」
冗談めかして言うと、彼はおかしそうに、泣き笑いのような表情を浮かべた。
部屋の空気が緩む。
重苦しかった雲が晴れていくようだ。
その時。
控えめなノックとともに、侍女のマリアが入ってきた。
彼女は少し緊張した面持ちで、一枚の書状を盆に乗せていた。
「お取り込み中、失礼いたします。……ソフィア・フォン・スノーランド王女殿下より、急ぎの書状が届いております」
「ソフィアから?」
クラウス様が眉をひそめ、涙を拭って立ち上がった。
私も彼に支えられながら立ち上がる。
マリアが差し出したのは、昨日私が送った招待状への返事……ではないようだ。
もっと厚みがあり、公的な封蝋が押されている。
クラウス様が封を切り、中身を取り出した。
数枚の羊皮紙に、びっしりと文字が書かれている。
彼はそれを読み進めるにつれ、驚きに目を見開いた。
「これは……『魔導石輸出入条約』の改正案か? しかも、非常に具体的で、我が国にとってもメリットのある条件だ」
彼は私を見た。
「『洗浄技術の供与と引き換えに、加工品の独占販売権を共有する』……ミズキ、これは昨夜、君が言っていたことか?」
「はい。昨日は途中で終わってしまいましたが、彼女には伝わっていたようですね」
私は胸を撫で下ろした。
ソフィア王女は、あのカオスな状況の中でも、私の提案の価値を正しく理解し、即座に行動に移したのだ。
やはり、彼女は敵に回すには惜しい、優秀なビジネスパートナーだ。
「……信じられない。あの強欲な保守派たちが何年も揉めていた案件を、君はたった一度のお茶会で動かしてしまったのか」
クラウス様は呆れたように、しかし誇らしげに呟いた。
その眼差しには、私への新たな敬意が宿っていた。
「どうですか、旦那様。あなたの奥さんは、ただの抱き枕ではありませんよ?」
「ああ、参ったな。……どうやら私は、とんでもない才女を妻にしてしまったようだ」
彼は私の額にキスを落とした。
そのキスは、今までで一番優しく、そして対等な温もりを持っていた。
手紙にはまだ続きがあるようだった。
私はクラウス様の腕の中で、これからの展開に思いを馳せた。
これで、私たちは前に進める。
二人で、手を取り合って。




