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【第4章追加しました!】婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅
第2章

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第7話 倒れる妻、青ざめる夫



 かつて実家の公爵家にいた頃、私は過労で倒れることなど日常茶飯事だった。


 徹夜で帳簿を整理し、翌朝そのまま倒れて数時間気絶し、目覚めたらまたペンを握る。

 それが当たり前だったし、私の体は頑丈にできていると信じていた。

 多少の無理は気合でカバーできると。


 けれど、昨夜の夫婦喧嘩から明けた今朝。

 その過信は、あっけなく崩れ去った。


「……う」


 重たい瞼を持ち上げ、ベッドから体を起こそうとした瞬間だった。

 世界がぐらりと回転した。

 床が天井になり、天井が床になるような、激しいめまい。

 血の気が引いていくのが分かる。


 視界がホワイトアウトする。

 耳の奥でキーンという耳鳴りが響く。


「ミズキ!?」


 焦燥に駆られたクラウス様の声が聞こえた気がした。

 何かが倒れる音。

 私の体を支えようとする腕の感触。


 でも、それも一瞬のこと。

 私の意識は、プツリと切れた糸のように途絶えた。


 ***


 次に目を覚ました時、部屋は薄暗くなっていた。

 窓のカーテンが引かれ、サイドテーブルのランプだけがぼんやりと灯っている。


「……ここは」


 掠れた声が出た。

 頭はまだ少し重いが、先ほどのような回転する感覚はない。

 ふかふかの枕の感触に、ここがいつもの寝室だと理解する。


「お目覚めですか、妃殿下」


 ベッドの脇に控えていたのは、白髪の侍医長だった。

 彼は優しげな目で私を見つめ、脈を測るために手首に指を添えた。


「貧血ですな。妊娠中は血液が薄くなりやすいのです。それに、少しストレスと寝不足が重なったようです」

「……赤ちゃんは?」

「ご安心を。母子ともに無事ですよ。ですが、今日一日は絶対安静です。トイレ以外でベッドから出ることは許しませんぞ」


 侍医長はわざとらしく怖い顔をして見せた後、部屋の隅へ視線を送った。


「……あちらの患者さんの方が、よほど重症ですな」


 彼の視線の先を追う。

 部屋の隅、一番光の届かない場所に、うずくまっている人影があった。


 クラウス様だ。

 彼は壁に背を預け、膝を抱えるようにして座り込んでいた。

 その姿は、国を統べる王太子とは思えないほど小さく、脆く見えた。


「クラウス様……」

「……来るな」


 私が呼びかけると、彼は顔も上げずに拒絶した。

 その声は震えていた。


「私のそばに寄るな。……また、君を傷つけてしまう」


 彼が顔を上げた。

 その形相に、私は息を呑んだ。

 数時間しか経っていないはずなのに、彼の顔はやつれ切り、青い瞳は絶望の色で濁っていた。

 そして何より、彼の周囲の空気が歪んでいる。

 制御しきれない魔力が、ささくれ立って漏れ出しているのだ。


「私が追い詰めたんだ。君を守ると言いながら、君の自由を奪い、ストレスを与え、あんな風に倒れさせてしまった……」


 彼は自分の髪を掻きむしった。


「君の言う通りだ。私は君を鳥籠に閉じ込めていただけだった。……私は、夫失格だ」


 痛々しいほどの自責。

 彼の過保護が、愛ゆえの暴走だったことは知っていた。

 けれど、その結果として私を危険な目に遭わせたという事実に、彼の心は砕け散ってしまったようだ。


 この人は、最強の魔力を持ちながら、心は誰よりも繊細で臆病なのだ。

 私を失うことへの恐怖。

 それが、彼をここまで追い詰めている。


(……馬鹿な人)


 昨夜の怒りは、もうどこにもなかった。

 残っているのは、どうしようもない愛おしさだけ。


 私は侍医長の制止を振り切り、ゆっくりとベッドから降りた。

 足元は少しふらつくけれど、歩けないほどではない。


「ミズキ! 駄目だ、寝ていろ!」


 クラウス様が叫ぶ。

 けれど、彼は私に触れようとはしなかった。

 自分の不安定な魔力が、私に悪影響を与えると思っているのだ。


 私は構わず彼に近づき、その前に膝をついた。

 そして、彼の冷たい頬を両手で包み込んだ。


「触らないでくれ……汚れる……」

「汚れません。私はあなたの妻で、あなたの『鎮静』薬ですよ?」


 私は意識を集中させた。

 体の中にある魔力の泉から、静かで透明な水を汲み上げるイメージ。

 それを、手のひらを通して彼へと流し込む。


 じわり。

 私の温もりが彼に伝わる。

 ささくれ立っていた彼の魔力が、雪が溶けるように静まっていく。


「……っ」


 クラウス様の瞳から、涙が溢れ出した。

 彼は私の手首を掴み、すがるように顔を押し付けた。


「ごめん……ごめん、ミズキ……」

「謝らないでください。私も悪かったんです。あなたの不安を、ちゃんと理解してあげられなくて」


 私は彼を抱きしめた。

 彼は子供のように泣きじゃくった。


「怖かったんだ。君がいなくなるのが。母上のように、私のせいで……」


 以前聞いたことがある。

 彼の母である前王妃は、彼の強すぎる魔力の影響で体を壊し、早逝したと。

 それが彼のトラウマになっているのだ。


「私は大丈夫です。母上とは違います。だって、私はあなたの魔力を中和できる、世界で唯一の女ですから」

「……ああ、そうだ。君だけだ」

「だから、信じてください。私の強さを。あなたの隣に立っても、決して折れたりしない私の図太さを」


 私が笑って言うと、クラウス様はようやく顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめた。

 そこには、昨夜のような拒絶の色はもうなかった。


「……分かった。信じよう。君は私が思っているよりずっと、強くて賢い女性だ」

「ええ。それに、かなり頑丈ですよ。二度寝すれば治りますから」


 冗談めかして言うと、彼はおかしそうに、泣き笑いのような表情を浮かべた。

 部屋の空気が緩む。

 重苦しかった雲が晴れていくようだ。


 その時。

 控えめなノックとともに、侍女のマリアが入ってきた。

 彼女は少し緊張した面持ちで、一枚の書状を盆に乗せていた。


「お取り込み中、失礼いたします。……ソフィア・フォン・スノーランド王女殿下より、急ぎの書状が届いております」

「ソフィアから?」


 クラウス様が眉をひそめ、涙を拭って立ち上がった。

 私も彼に支えられながら立ち上がる。


 マリアが差し出したのは、昨日私が送った招待状への返事……ではないようだ。

 もっと厚みがあり、公的な封蝋が押されている。


 クラウス様が封を切り、中身を取り出した。

 数枚の羊皮紙に、びっしりと文字が書かれている。

 彼はそれを読み進めるにつれ、驚きに目を見開いた。


「これは……『魔導石輸出入条約』の改正案か? しかも、非常に具体的で、我が国にとってもメリットのある条件だ」


 彼は私を見た。


「『洗浄技術の供与と引き換えに、加工品の独占販売権を共有する』……ミズキ、これは昨夜、君が言っていたことか?」

「はい。昨日は途中で終わってしまいましたが、彼女には伝わっていたようですね」


 私は胸を撫で下ろした。

 ソフィア王女は、あのカオスな状況の中でも、私の提案の価値を正しく理解し、即座に行動に移したのだ。

 やはり、彼女は敵に回すには惜しい、優秀なビジネスパートナーだ。


「……信じられない。あの強欲な保守派たちが何年も揉めていた案件を、君はたった一度のお茶会で動かしてしまったのか」


 クラウス様は呆れたように、しかし誇らしげに呟いた。

 その眼差しには、私への新たな敬意が宿っていた。


「どうですか、旦那様。あなたの奥さんは、ただの抱き枕ではありませんよ?」

「ああ、参ったな。……どうやら私は、とんでもない才女を妻にしてしまったようだ」


 彼は私の額にキスを落とした。

 そのキスは、今までで一番優しく、そして対等な温もりを持っていた。


 手紙にはまだ続きがあるようだった。

 私はクラウス様の腕の中で、これからの展開に思いを馳せた。

 これで、私たちは前に進める。

 二人で、手を取り合って。


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