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【第4章追加しました!】婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅
第2章

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第6話 夫婦喧嘩



 バタン、と耳が痛くなるほどの音を立てて、寝室の扉が閉められた。


 先ほどまでのサロンでの緊迫した空気は、場所を移しても変わらない。

 むしろ、二人きりになったことで密度を増し、息苦しいほどに重くのしかかってくる。

 広い寝室の中央で、私は夫と向かい合った。


 クラウス様の顔は、まだ蒼白だった。

 激務と強行軍による疲労、そして私への怒りが混ざり合い、いつもなら冷静な青い瞳が激しく揺れている。


「……座りなさい」


 彼は努めて声を抑えようとしていたが、その端々には隠しきれない棘があった。

 私は言われた通り、ソファに腰を下ろした。

 彼は座らなかった。

 私の前に立ち塞がるようにして、見下ろしてくる。


「説明してくれるね、ミズキ。なぜ、私の許可なくソフィアを招き入れた?」

「許可を求めても、あなたは却下したでしょう?」

「当然だ!」


 クラウス様の声が跳ね上がった。


「彼女は他国の王族だ。何をしてくるか分からない。現に、君を精神的に追い詰めようとしていたじゃないか!」

「それは誤解です。彼女はビジネスの話をしに来ただけ。私は彼女と対等に交渉していました」

「交渉だと? 君が?」


 彼は鼻で笑った。

 馬鹿にしているのではない。

 信じられないのだ。

 私が、守られるべきか弱い妻が、あの食えない「氷の王女」と渡り合えるなんて。


「君は妊婦なんだぞ。安静にしていろと言ったはずだ。もし興奮して倒れたらどうする? 毒を盛られたら? ……君に万が一のことがあれば、私は……!」


 彼の言葉が詰まる。

 握りしめられた拳が白くなっている。

 その姿を見て、私の胸にも痛みが走った。

 分かっている。

 この人は、怖がっているのだ。

 私と子供を失うことを、何よりも恐れている。


 でも。

 だからといって、私の意思まで奪っていい理由にはならない。


 私は立ち上がった。

 彼を見上げる。

 身長差はあるけれど、気持ちでは負けないように背筋を伸ばした。


「クラウス様。私は、あなたの所有物ではありません」


 はっきりと言葉にした。

 クラウス様が息を呑む。


「私は鳥籠の中で、ただ餌をもらって囀るだけの鳥にはなりたくないのです。あなたの役に立ちたい。隣に立って、一緒に国を守りたい。……それが、そんなにいけないことですか?」

「役に立つ?」


 クラウス様が顔を歪めた。


「そんなことは求めていない! 君が政治に関わる必要はない。汚いことは私が全部やる。君はただ、清らかなままで、ここで幸せに笑っていてくれればいいんだ!」


 決定的なすれ違いだった。

 彼は私を「聖域」に閉じ込めようとしている。

 外の世界の汚れから隔離し、無菌室で培養するように愛そうとしている。


 それは愛だ。

 間違いなく、深く巨大な愛だ。

 けれど、今の私にはそれが窒息しそうなほど苦しい。


「……私は、元は公爵家の娘です。裏帳簿を整理し、借金取りと交渉し、泥水を啜るような苦労もしてきました。清らかでなんてありません」

「過去の話だ。今は違う」

「違いません! それが私の本質です!」


 私は声を張り上げた。

 涙が出そうだったけれど、ここで泣いてはいけないと思った。

 泣けば、彼はまた私を「守るべき弱者」として抱きしめ、うやむやにしてしまうだろう。


「ソフィア王女との交渉は、我が国に利益をもたらすものでした。私の魔力を使えば、不平等条約を改正できる手札になるんです。……どうして、私の能力を見てくれないのですか? どうして、私を信じてくれないのですか?」


 私の訴えに、クラウス様は口を閉ざした。

 青い瞳が揺れ、そしてふいっと逸らされた。


「……信じていないわけではない」

「なら、任せてください」

「できない」


 彼は頑なだった。

 壁に向かって、背中を向けたまま呟く。


「理屈ではないんだ。君が危険な目に遭う可能性が、一パーセントでもあるなら……私はそれを排除する。それが私の愛し方だ」


 拒絶だった。

 私の「意思」よりも、彼の「安心」を優先するという宣言。

 

 力が抜けた。

 怒りや高揚感が引いていき、代わりに冷たい悲しみが足元から這い上がってくる。

 この人には、私の声が届かない。

 恐怖という耳栓をしているから。


「……分かりました。もう、何も言いません」


 私はソファに戻ることもなく、ベッドへと向かった。

 これ以上話しても無駄だ。

 今は、お互いに頭を冷やす時間が必要だ。


 クラウス様はしばらく窓の外を眺めていたが、やがて無言でバスルームへと消えた。

 水音が聞こえる。

 私はその間に着替えを済ませ、ベッドの端に潜り込んだ。


 いつもなら、彼が来るのを待つ。

 彼も、私が起きているのを確認してから隣に入ってくる。

 そして「おやすみ」のキスをして、抱き合って眠る。

 それが私たちの日課であり、至福の時間だった。


 けれど今夜は、私は彼を待たずに目を閉じた。

 背中を向けて、壁際ギリギリに身を寄せる。


 やがて、気配が近づいてきた。

 ベッドが沈む。

 クラウス様が隣に入ってきたのが分かる。

 石鹸の香り。

 愛しい匂い。


 彼は、私に触れようとして、ためらった気配を見せた。

 伸ばしかけた手が、空中で止まったような空気の揺らぎ。

 そして、触れることなく、シーツの衣擦れの音だけがした。


 彼もまた、私に背を向けたのだ。


 広いキングサイズのベッド。

 その真ん中には、冷たくて深い溝ができていた。

 物理的な距離は数十センチしかないのに、心は何キロメートルも離れてしまったように感じる。


(……寂しい)


 本音が漏れそうになるのを、唇を噛んで堪えた。

 寂しいからといって、ここで縋ってはいけない。

 今、安易に妥協すれば、私は一生「カゴの中の鳥」として生きることになる。

 ソフィア王女に笑われたくない。

 何より、自分自身に嘘をつきたくない。


 お腹の中の子供が、ぽこり、と動いた気がした。

 まだ胎動を感じるには早い時期だ。気のせいかもしれない。

 でも、まるで「ママ、負けないで」と言ってくれているようで、私はお腹にそっと手を添えた。


 大丈夫。

 私は一人じゃない。

 この子のためにも、私は強い母親にならなければ。


 背中越しに、クラウス様の寝息が聞こえ始めた。

 私の「鎮静」の魔力は、私の意思に関わらず、彼を癒やし眠らせてしまう。

 なんて皮肉な能力だろう。

 こんなに喧嘩していても、私は彼にとっての安眠装置であり続けている。


 悔しさと愛しさが入り混じった涙が、枕に吸い込まれていく。

 私はその夜、一度も振り返ることなく、冷たい壁を見つめ続けた。


 そして翌朝、私の体は悲鳴を上げることになる。


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