第6話 夫婦喧嘩
バタン、と耳が痛くなるほどの音を立てて、寝室の扉が閉められた。
先ほどまでのサロンでの緊迫した空気は、場所を移しても変わらない。
むしろ、二人きりになったことで密度を増し、息苦しいほどに重くのしかかってくる。
広い寝室の中央で、私は夫と向かい合った。
クラウス様の顔は、まだ蒼白だった。
激務と強行軍による疲労、そして私への怒りが混ざり合い、いつもなら冷静な青い瞳が激しく揺れている。
「……座りなさい」
彼は努めて声を抑えようとしていたが、その端々には隠しきれない棘があった。
私は言われた通り、ソファに腰を下ろした。
彼は座らなかった。
私の前に立ち塞がるようにして、見下ろしてくる。
「説明してくれるね、ミズキ。なぜ、私の許可なくソフィアを招き入れた?」
「許可を求めても、あなたは却下したでしょう?」
「当然だ!」
クラウス様の声が跳ね上がった。
「彼女は他国の王族だ。何をしてくるか分からない。現に、君を精神的に追い詰めようとしていたじゃないか!」
「それは誤解です。彼女はビジネスの話をしに来ただけ。私は彼女と対等に交渉していました」
「交渉だと? 君が?」
彼は鼻で笑った。
馬鹿にしているのではない。
信じられないのだ。
私が、守られるべきか弱い妻が、あの食えない「氷の王女」と渡り合えるなんて。
「君は妊婦なんだぞ。安静にしていろと言ったはずだ。もし興奮して倒れたらどうする? 毒を盛られたら? ……君に万が一のことがあれば、私は……!」
彼の言葉が詰まる。
握りしめられた拳が白くなっている。
その姿を見て、私の胸にも痛みが走った。
分かっている。
この人は、怖がっているのだ。
私と子供を失うことを、何よりも恐れている。
でも。
だからといって、私の意思まで奪っていい理由にはならない。
私は立ち上がった。
彼を見上げる。
身長差はあるけれど、気持ちでは負けないように背筋を伸ばした。
「クラウス様。私は、あなたの所有物ではありません」
はっきりと言葉にした。
クラウス様が息を呑む。
「私は鳥籠の中で、ただ餌をもらって囀るだけの鳥にはなりたくないのです。あなたの役に立ちたい。隣に立って、一緒に国を守りたい。……それが、そんなにいけないことですか?」
「役に立つ?」
クラウス様が顔を歪めた。
「そんなことは求めていない! 君が政治に関わる必要はない。汚いことは私が全部やる。君はただ、清らかなままで、ここで幸せに笑っていてくれればいいんだ!」
決定的なすれ違いだった。
彼は私を「聖域」に閉じ込めようとしている。
外の世界の汚れから隔離し、無菌室で培養するように愛そうとしている。
それは愛だ。
間違いなく、深く巨大な愛だ。
けれど、今の私にはそれが窒息しそうなほど苦しい。
「……私は、元は公爵家の娘です。裏帳簿を整理し、借金取りと交渉し、泥水を啜るような苦労もしてきました。清らかでなんてありません」
「過去の話だ。今は違う」
「違いません! それが私の本質です!」
私は声を張り上げた。
涙が出そうだったけれど、ここで泣いてはいけないと思った。
泣けば、彼はまた私を「守るべき弱者」として抱きしめ、うやむやにしてしまうだろう。
「ソフィア王女との交渉は、我が国に利益をもたらすものでした。私の魔力を使えば、不平等条約を改正できる手札になるんです。……どうして、私の能力を見てくれないのですか? どうして、私を信じてくれないのですか?」
私の訴えに、クラウス様は口を閉ざした。
青い瞳が揺れ、そしてふいっと逸らされた。
「……信じていないわけではない」
「なら、任せてください」
「できない」
彼は頑なだった。
壁に向かって、背中を向けたまま呟く。
「理屈ではないんだ。君が危険な目に遭う可能性が、一パーセントでもあるなら……私はそれを排除する。それが私の愛し方だ」
拒絶だった。
私の「意思」よりも、彼の「安心」を優先するという宣言。
力が抜けた。
怒りや高揚感が引いていき、代わりに冷たい悲しみが足元から這い上がってくる。
この人には、私の声が届かない。
恐怖という耳栓をしているから。
「……分かりました。もう、何も言いません」
私はソファに戻ることもなく、ベッドへと向かった。
これ以上話しても無駄だ。
今は、お互いに頭を冷やす時間が必要だ。
クラウス様はしばらく窓の外を眺めていたが、やがて無言でバスルームへと消えた。
水音が聞こえる。
私はその間に着替えを済ませ、ベッドの端に潜り込んだ。
いつもなら、彼が来るのを待つ。
彼も、私が起きているのを確認してから隣に入ってくる。
そして「おやすみ」のキスをして、抱き合って眠る。
それが私たちの日課であり、至福の時間だった。
けれど今夜は、私は彼を待たずに目を閉じた。
背中を向けて、壁際ギリギリに身を寄せる。
やがて、気配が近づいてきた。
ベッドが沈む。
クラウス様が隣に入ってきたのが分かる。
石鹸の香り。
愛しい匂い。
彼は、私に触れようとして、ためらった気配を見せた。
伸ばしかけた手が、空中で止まったような空気の揺らぎ。
そして、触れることなく、シーツの衣擦れの音だけがした。
彼もまた、私に背を向けたのだ。
広いキングサイズのベッド。
その真ん中には、冷たくて深い溝ができていた。
物理的な距離は数十センチしかないのに、心は何キロメートルも離れてしまったように感じる。
(……寂しい)
本音が漏れそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
寂しいからといって、ここで縋ってはいけない。
今、安易に妥協すれば、私は一生「カゴの中の鳥」として生きることになる。
ソフィア王女に笑われたくない。
何より、自分自身に嘘をつきたくない。
お腹の中の子供が、ぽこり、と動いた気がした。
まだ胎動を感じるには早い時期だ。気のせいかもしれない。
でも、まるで「ママ、負けないで」と言ってくれているようで、私はお腹にそっと手を添えた。
大丈夫。
私は一人じゃない。
この子のためにも、私は強い母親にならなければ。
背中越しに、クラウス様の寝息が聞こえ始めた。
私の「鎮静」の魔力は、私の意思に関わらず、彼を癒やし眠らせてしまう。
なんて皮肉な能力だろう。
こんなに喧嘩していても、私は彼にとっての安眠装置であり続けている。
悔しさと愛しさが入り混じった涙が、枕に吸い込まれていく。
私はその夜、一度も振り返ることなく、冷たい壁を見つめ続けた。
そして翌朝、私の体は悲鳴を上げることになる。




