第4話 秘密の会合
離宮の温室は、ガラス越しに歪んだ空を切り取っている。
エルヴィンへの手紙を託してから、数日が経過した午後のことだ。
私は日課となった散歩を装い、警備兵たちの交代時間を狙って温室の裏手へと回り込んだ。
そこは巨大な熱帯植物の葉が茂り、外部からの視線が遮られる唯一の死角だ。
湿った土の匂いに混じって、懐かしいインクと紙の匂いがした気がした。
「……お久しぶりです、お嬢様。いえ、今は妃殿下とお呼びすべきですね」
葉の陰から現れたのは、茶色の髪を目立たないように切り揃えた、地味な身なりの青年だった。
エルヴィン。
かつて実家の公爵家で私直属の文官として働き、私が追い出された後はその能力を買われて財務省へ移った、優秀な元部下だ。
「エルヴィン。来てくれてありがとう。危険はなかった?」
「洗濯係の親戚に感謝してください。汚れたシーツの中に紛れるのは、あまり良い気分ではありませんでしたが」
彼は苦笑しながら、鼻眼鏡の位置を直した。
その仕草が変わっていないことに、私は少しだけ安堵した。
ここには、私を「壊れ物」扱いしない、対等な仕事仲間がいる。
「時間はあまりないわ。単刀直入に教えて。ソフィア王女は何を求めているの?」
私が尋ねると、エルヴィンは表情を引き締め、懐から一枚のメモを取り出した。
「さすが、話が早くて助かります。……結論から申し上げますと、スノーランド側は『魔導石輸出入条約』の改正を求めています」
「条約改正?」
「はい。現在の条約は、我が国がスノーランド産の魔導石を安価で独占輸入できる代わりに、加工品を高値で売りつけるという、いわゆる不平等条約です。ソフィア殿下はこれを撤廃し、関税の引き下げと技術供与を求めています」
なるほど。
私は顎に手を当てて考え込んだ。
スノーランドは寒冷地で資源は乏しいが、高品質な魔導石の産地だ。
一方、我が国は魔導技術が発展しており、魔石を加工して魔道具を作る技術に長けている。
「正当な要求ね。むしろ、今までよく我慢していたわ」
「ええ。ですが、我が国の保守派貴族たちは既得権益を手放したくない。そこで交渉は難航しています。……ソフィア殿下は、その膠着状態を打破するための『梃子』として、あなた様を利用しているのです」
エルヴィンが痛ましげに私を見た。
「『現王太子妃は無能であり、次期王妃としての資質に欠ける。そのような不安定な王家と長期的な同盟は結べない』……そう吹聴することで、王太子殿下の政治的基盤を揺さぶり、譲歩を引き出そうとしているのです」
点と線が繋がった。
なぜ彼女が私を「何もしていない」と嘲笑ったのか。
なぜクラウス様が私に情報を遮断したのか。
クラウス様は、不平等条約の改正という政治的難題と戦いながら、同時に私への個人攻撃を防ごうとしていたのだ。
身重の私に余計な心配をかけまいと、全てを一人で背負い込んで。
「……馬鹿な人」
愛しさとともに、胸の奥からふつふつと熱いものが込み上げてきた。
それは怒りではない。
久しぶりに感じる、武者震いのような高揚感だった。
私は守られているだけの、か弱いお姫様ではない。
元社畜で、数字と交渉の世界で生きてきた女だ。
「エルヴィン。スノーランドの魔導石、品質にばらつきがあるという報告は上がっている?」
「えっ? あ、はい。採掘技術が古いため、不純物が混じることが多いと聞いています。それが加工時のコストを押し上げている原因の一つでもあります」
「なら、話は早いわ」
私は温室の棚に並ぶ、実験中の鉢植えに視線をやった。
そこには、私の「鎮静」の魔力を注いで育てた、異常なほど純度の高い結晶草が育っている。
「私の魔力と、我が国の最新の洗浄技術を組み合わせれば、彼らの悩みを解決できるかもしれない。……ビジネスチャンスよ」
私がニヤリと笑うと、エルヴィンは数秒間ぽかんとした後、懐かしそうに吹き出した。
「ははっ……その顔です。久しぶりに見ました、お嬢様の『悪巧み』の顔」
「失礼ね。『業務改善』と言ってちょうだい」
私は彼にメモを返した。
「ありがとう、エルヴィン。状況は把握したわ。あとは私がなんとかする」
「どうされるおつもりで?」
「お茶会を開くの。女同士の、腹を割った話し合いをね」
エルヴィンは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに深く頭を下げた。
「承知いたしました。私は王宮に戻り、財務省側から条約改正の試算表を準備しておきます。……ご武運を」
「ええ。あなたも気をつけて」
彼は音もなく茂みの奥へと消えていった。
私は一人、温室に残された。
心臓が早鐘を打っている。
これは、クラウス様への裏切りに近い行為かもしれない。
彼が必死に遠ざけようとした「政治」と「争い」の場に、自ら飛び込むのだから。
でも、もう決めた。
ただベッドの上で彼の帰りを待ち、疲れた顔を見るだけの生活は終わりにする。
私が動けば、彼が不利になる?
いいえ、逆だ。
私が動くことで、彼の手札を増やしてあげるのだ。
私は温室を出て、自室へと戻った。
誰にも見つからないように、慎重に、しかし足取りは軽く。
部屋に戻ると、すぐに最高級の便箋を取り出した。
宛名は、ソフィア・フォン・スノーランド王女殿下。
『春の日差しが心地よい季節となりました。先日のお詫びと、おいしいお菓子のご紹介を兼ねて、内密にお茶でもいかがでしょうか』
当たり障りのない文面。
けれど、行間に「取引に応じる用意がある」というニュアンスを込める。
彼女ほど聡明な女性なら、この招待状の意味を正しく読み取るはずだ。
ペンを置く。
インクの匂いが、私を「仕事」の世界へと引き戻してくれる。
眠気なんて、どこかへ吹き飛んでいた。
今の私は、誰よりも目が冴えている。
さあ、反撃の時間だ。
私の安眠と、愛する夫の笑顔を取り戻すために。
私は招待状に封をし、マリアを呼ぶためのベルに手を伸ばした。
この手紙を、公式ルートではない「裏のルート(エルヴィン経由)」で届けるために。




