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婚約破棄? 知りません。睡眠の方が大事です! ~復讐は不眠症王太子に丸投げして、離宮で抱き枕生活はじめます~  作者: 月雅


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第10話 幸福と二度寝



 柔らかな春の日差しが、レースのカーテン越しに降り注いでいる。


 窓を開けると、風に乗って甘い花の香りが漂ってきた。

 離宮の庭は今、色とりどりの花で埋め尽くされている。

 一年前、私が暇つぶしに植えた種たちが、私の魔力をたっぷり吸って成長し、見事な花園を作り上げたのだ。


「……平和だわ」


 私はバルコニーに出て、大きく伸びをした。

 あの喧騒に満ちた舞踏会から、一年が経った。


 あの日、デレク様たちは連行され、その後、鉱山での強制労働刑が決まったと聞いた。

 実家の公爵家は取り潰しとなり、父は爵位を剥奪された。

 リナ嬢は修道院へ送られ、二度と社交界には戻れないらしい。


 全ては過去の話だ。

 今の私にあるのは、この穏やかな離宮での生活と、愛する旦那様との時間だけ。


「ミズキ、ここにいたのか」


 背後から、聞き慣れた声がした。

 振り返ると、公務から戻ったばかりのクラウス様が立っていた。

 相変わらず、ため息が出るほど美しい。

 けれど、その眉間には少しだけ不満げな皺が寄っている。


「おかえりなさい、クラウス様。今日は随分とお早いですね」

「逃げてきたんだ」

「はい?」

「父上が、そろそろ王位を譲りたいなどと言い出してな。即位式の準備だの、新しい公務の割り振りだの、面倒な話ばかりする」


 クラウス様は私の腰に腕を回し、子供のように私の肩に顔を埋めた。


「王になれば、今以上に忙しくなる。君との昼寝の時間が減るなんて、絶対に嫌だ」

「……次期国王としての自覚を持ってください」


 私は苦笑しながら、彼のアメジストのような銀髪を撫でた。

 この国最強の権力者であり、冷徹と恐れられる氷の王太子。

 その素顔が、こんなに甘えん坊で、愛妻家(というより妻依存症)だなんて、国民の誰が想像できるだろう。


「仕事なら、私がマニュアルを作ったおかげで、以前の半分の時間で終わるはずですよ」

「それでもだ。私は一分一秒でも長く、君とベッドでゴロゴロしていたいんだ」


 クラウス様が駄々をこねる。

 その腕の力が、少しだけ強まった。

 私を離したくないという、切実な温もり。


 一年前、契約結婚から始まった私たちの関係。

 最初は「魔力タンク」と「不眠症患者」という利害の一致だった。

 でも今は違う。

 互いになくてはならない、魂の半身だ。


「……クラウス様。ベッドのスペースについてですが」

「ん? 狭いか? なら特注のキングサイズよりさらに大きいものを作らせよう」

「いいえ、そうではなくて」


 私は一度、彼から体を離し、真っ直ぐにその青い瞳を見つめた。

 言わなければ。

 今朝、侍医から告げられた、とびきりのニュースを。


「今のベッドでも十分広いんですが……これからは、二人じゃなくて三人で使うことになるかもしれません」


 クラウス様が瞬きをした。

 意味が分かっていないようだ。


「……三人? まさか、猫でも飼うのか? それとも新しい抱き枕か?」

「いいえ。もっと小さくて、手のかかる、可愛い同居人です」


 私は彼の手を取り、そっと自分のお腹に当てた。

 まだ平らで、何の変化もないけれど。

 そこには確かに、新しい命が芽吹いている。


「……ここに、赤ちゃんがいます」


 時が止まった。

 鳥のさえずりさえも聞こえなくなったような静寂。

 クラウス様の目が、限界まで見開かれる。

 口がパクパクと動き、言葉にならない音を漏らす。


「あ……赤、ちゃん……?」

「はい。二ヶ月だそうです。最近、私がやたらと眠かったのは、そのせいみたいで」


 私が説明する間も、彼は石像のように固まっていた。

 そして次の瞬間、私の膝から力が抜けるほど優しく、壊れ物を包むように抱きしめられた。


「……ありがとう」


 震える声だった。

 肩口に、熱いものが落ちてくる気配がした。


「ミズキ、ありがとう。……夢みたいだ。君と、私の子が……」

「ふふ、泣かないでください。パパになるんでしょう?」

「ああ、そうだな。……守らなければ。この国ごと、君たちを」


 クラウス様が顔を上げると、そこには涙で濡れながらも、決意に満ちた王の顔があった。


「即位するよ。王になって、この子が安心して暮らせる、最高の国を作る。……もちろん、激務は部下に丸投げして、定時で帰るがな」

「それがいいです。この子もきっと、パパと一緒に寝たいでしょうから」


 私たちは微笑み合った。

 幸せだ。

 かつて「平凡」と言われ、婚約破棄され、全てを失ったと思っていた私。

 でも、失ったからこそ、手に入れられたものがある。


 最高の寝具。

 最高の旦那様。

 そして、最高の未来。


「さて、今日はもう仕事をしない」


 クラウス様がいきなり宣言し、私を横抱きにした。


「えっ、まだお昼ですよ?」

「妊婦には休息が必要だ。それに、私も嬉しすぎて、君を抱きしめていないと心臓が保たない」

「……仕方ないですね」


 私は彼の首に腕を回した。

 拒否する理由なんて、どこにもない。

 だって私は、三度の飯より睡眠が好きなのだから。


 寝室へ向かう廊下を歩きながら、私は窓の外を見た。

 空はどこまでも青く、澄み渡っている。


「おやすみなさい、クラウス様」

「おやすみ、ミズキ。愛している」


 ふかふかのベッドが私たちを待っている。

 これから始まる新しい生活も、きっと暖かくて、幸せな夢の続きになるに違いない。


 私の再就職先は、やっぱりここが天職だったようだ。


 (完)


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