第1話 断罪と爆睡
「ミズキ・フォン・ローゼンバーグ! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
学園の講堂に、よく通る声が響き渡った。
シャンデリアの煌めきが目に刺さる。
華やかな音楽は止まり、周囲のざわめきも波が引くように消えていく。
私は重たい瞼を無理やり持ち上げ、声の主を見つめた。
視界の先には、侯爵家嫡男であり私の婚約者、デレク様。
その隣には、彼の腕にぴったりと張り付く小柄な少女、リナ男爵令嬢の姿がある。
デレク様は勝ち誇ったような顔で、私を指差していた。
リナ嬢はピンク色の髪を揺らし、怯えるような仕草で彼を見上げている。
「聞こえなかったのか? 貴様のような冷酷で陰湿な女は、僕の妻には相応しくないと言ったんだ!」
ああ。
うるさい。
私の頭の中を占めていたのは、絶望でも悲しみでもない。
ただひたすらに、暴力的なまでの「眠気」だった。
――今日で、何日目だろう。
まともにベッドに入っていないのは。
三日前の夜、王妃教育の課題図書を読み終えたのが深夜二時。
翌朝四時には起こされて、登城して王妃様との朝食会。
その間に、リナ嬢の取り巻きたちが私の教科書を隠したり、ドレスにインクをこぼしたりといった、幼稚な嫌がらせへの対応に追われた。
昨日は昨日で、デレク様が処理し忘れた生徒会の会計書類が山積みになっているのを発見し、徹夜で片付けた。
私がやらなければ、連帯責任で生徒会全体が処罰されるからだ。
前世の記憶があるからだろうか。
私は昔から、効率よく仕事をこなすことには長けていた。
かつて日本という国で、社畜として数字と戦っていた記憶。
それが、この異世界での私を支えている。
けれど、体は正直だ。
十九歳の乙女の体は、カフェインと栄養ドリンクで無理やり稼働させていた前世の体とは違う。
限界だった。
立っているだけで、足が震える。
頭の奥でガンガンと鐘が鳴っているようだ。
「……ミズキ、何も言えないのか? 図星だからだろう!」
デレク様がさらに声を張り上げる。
リナ嬢が「かわいそうなミズキ様……」と嘘くさい涙を拭うふりをした。
周囲の貴族たちがひそひそと囁き合う。
「やはり噂は本当だったのか」
「リナ様をいじめていたと聞くしな」
「なんて恐ろしい……」
違う。
反論したいことは山ほどある。
いじめなどしていないし、書類を隠したのはそっちだ。
デレク様の尻拭いをしてきたのは誰だと思っているのか。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
声を出す気力さえ、今の私には残っていない。
ふと、デレク様の言葉が遅れて脳内で再生された。
『婚約を、破棄する』
……え?
婚約破棄?
つまり、私はデレク様と結婚しなくていい?
将来の侯爵夫人として、あるいは王家入りする可能性のある立場として求められていた、あの地獄のような王妃教育を受けなくていい?
公爵家という実家のしがらみは残るかもしれない。
でも、少なくとも「王太子の側近候補」であるデレク様の婚約者という立場は消える。
ということは。
明日の朝、四時に起きなくていい。
積み上がった書類の山を見なくていい。
あの堅苦しいコルセットも、完璧な淑女の微笑みも、必要ない。
――眠れる。
その事実を認識した瞬間、私の体からふっと力が抜けた。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
視界がぐらりと傾く。
重力に従って、私の体はゆっくりと床へ沈んでいく。
「あ……」
床は大理石だ。
硬いけれど、ひんやりとしていて、今の火照った体には何よりも心地よい。
視界の端で、ドレスの裾がふわりと広がるのが見えた。
「ミ、ミズキ!?」
デレク様の焦ったような声が遠くで聞こえる。
周囲からは悲鳴が上がった。
「倒れたぞ!」
「ショックで気を失ったのか!?」
違う。
ショックなんかじゃない。
これは、歓喜の休息だ。
私の意識は、急速に闇の中へと落ちていく。
泥のように重たい手足を、もう動かす必要はない。
まぶたを閉じると、そこには極彩色の安らぎが待っていた。
おやすみなさい、皆さん。
私はもう、店仕舞いです。
***
騒がしかった講堂が、突然静まり返ったような気がした。
薄れゆく意識の中で、誰かの足音が近づいてくるのを感じる。
カツ、カツ、カツ。
規則正しく、威厳に満ちた足音。
その音だけで、周囲の空気が凍りついたように冷たく澄んでいく。
「……騒々しいな」
頭上から降ってきたのは、低く、艶のある声だった。
聞いたことがある。
もっと遠い場所、雲の上のような場所から、いつも淡々と国を動かしている人の声だ。
「で、殿下……!」
デレク様の裏返った声が聞こえた。
殿下?
王太子、クラウス様のことだろうか。
なぜ、こんな卒業パーティーの末席に、雲の上の人が?
「私の婚約者の元で、一体何をしている」
冷徹な響き。
ん?
誰の婚約者?
デレク様は今、私との婚約を破棄したばかりだけれど。
まあいい。
思考がまとまらない。
私は今、大理石の床と一体化して、素晴らしい眠りの旅に出ようとしているのだから。
誰かが、私の体に触れた。
乱暴に揺さぶるような手つきではない。
そっと、壊れ物を扱うような慎重さで、背中と膝裏に腕が差し込まれる。
次の瞬間、体がふわりと浮いた。
「……っ」
誰かに抱き上げられたのだと、ぼんやりと理解する。
硬い床の感触が消え、代わりにしっかりとした胸板と、上質な軍服の感触が頬に伝わった。
いい匂いがする。
真冬の朝の空気のような、清冽で、どこか甘い香り。
その香りを吸い込んだ瞬間、私の体の中に澱のように溜まっていた疲労感が、少しだけ和らいだ気がした。
「ミズキ! おい、その女は罪人で……!」
デレク様が何か叫んでいる。
うるさいなあ。
せっかくいい気分なのに。
「黙れ」
短く、鋭い一言。
まるで氷の刃で空気を切り裂くような声だった。
その一言で、デレク様だけでなく、会場中の人間が呼吸を忘れたかのように静まり返る。
私を抱いている腕が、少しだけ強まった。
守られているような、閉じ込められているような、不思議な感覚。
「彼女は預かる。……文句がある者は、後ほど私の執務室へ来るがいい」
それだけ言い捨てて、その人は歩き出した。
揺れが心地よい。
ゆりかごのようだ。
私は無意識のうちに、その温かい胸に顔を擦り寄せた。
安心感が全身を包み込む。
もう、何も考えなくていい。
明日起きなくてもいい。
(ああ、ふかふか……)
それが、私の意識が途切れる直前の、最後の感想だった。
私は前世も含めて久しぶりに、心からの安眠へと落ちていった。




