私にとっての婚約破棄
突如大きな音を立てて一人の少女が床へと手をついた。よくもまあ何の凹凸もなくきれいに磨かれた床で器用に転ぶことができるものだ。
周囲から見て明らかに簡素なドレス、髪飾りも最低限で貴族の夜会へ参加しているとは思えないいでたちである。
私があきれつつも少女へ手を伸ばし立ち上がらせようとすると、それを遮るように煌びやかな装飾を施した白いスーツを着た男性が割って入ってきた。
「殿下…… ありがとうございます」
少女は立ちあがるとすぐ、私から逃げるように男性の背後へと回る。
すると男性は一言 ――
「やはり婚約は破棄せねばなるまいね」
「今なんと?」
私が大反対したにもかかわらず、豪華絢爛な夜会を強引に開いた王子の口から発せられたのは、私以外の出席者にとってセンセーショナルな宣言だっただろう。
しかし私は気にも留めておらず、無言で王子が言葉を続けるのを待った。
「その立ち振る舞い、とても侯爵令嬢とは言えまい。やはりあなたはそういう女性だったのだな。あまりにもひどい仕打ちに私は心を痛めているんだ。これでは到底共に生き行くことなどできぬよ」
「でしたらいったいどうなされるとおっしゃるのです? 王国にはわたくしが必要なのでございますよ?」
「いいやそんなことはない。少なくとも私はあなたを必要としていないのだ。よってナロシエッタ嬢、この場であなたとの婚約破棄を言い渡す!」
「さようでございますか…… わたくしは王子をもっと聡明な方だと考えておりましたので誠に残念でございます」
「見くびらないでくれ。これはこれまでの状況と聞き取り結果をもとに熟考した結果なのだ。分かったのなら今日中に荷物をまとめておくように。明日には男爵が迎えの手配をするだろう」
結局こうなってしまったのか。これまで私はなんとか王子を守ろうとしてきたつもりだった。
しかし結果として王子は、あの悪い魔女が遣わしてきた少女に魅了されてしまったのだから仕方ない。
だがこれはこれで好機ととらえることもできる。なんと言っても積年の恨みを晴らす機会がようやく訪れたのだから。
その晩、私が荷物を整理していると国王がこっそりとやってきた。
「やあナロシエッタ嬢、少しよろしいかな? まったくもって恥ずかしいことだが貴女の言うとおりに進んでしまったな。わずかながら期待していた儂自身を処刑したい気分だよ」
「何をおっしゃいますか。陛下はできるだけのことをなさったのです。ですがあの魔女が王妃様に成り代わってしまった今、我々のような普通の人間では抗うことはできません」
「うむ、だが何も知らぬ民衆には迷惑がかかってしまうのであろうな。それで例の約束だが明日の朝にはテイフレイダ卿自ら迎えに来るよう申し伝えてある。その後、手筈通りに処置するつもりだ」
「お心遣い感謝いたします。できることならその前の暴挙をお止めいただきたかったのですが、今となっては仕方のないこと。わたくしは両親の残してくれたこの知恵でどうとでも生きていかれるでしょう」
「母上にはいくら謝っても許してもらえないだろう。あの時、儂の目が曇っていなければこんなことにはならなかったのだからな」
「ですがそれももはや過去のこと。できることなら未来へ向けてできる限りのことをなさってくださいまし。それが民のため、最終的には王子のために―― 間に合うかはわかりませんが……」
「それが国王として最後の務め、なるべく平穏に国を畳めるよう努力することを約束しよう。隣国への出国手配は全て済ませておる。心配せずに新たな生活を送ってくれたまえ」
「お心づかい痛み入ります。願わくば、心優しき陛下に安息が訪れますようお祈り申し上げます」
「それは最後は苦しまずに、と言うことかな? いやいや冗談だ。気にせんでくれ」
お互いに苦笑した顔を見せあい、国王は戻って行った。
私は傾きかけている王国の財政を立て直すため、王子の元へ迎え入れられることになっていた。要はただで使える財務担当というわけだ。
父テイフレイダ男爵は、私に王子との縁談が持ち上がった際、男爵家では釣り合わないと進言した。そのため正式な婚姻が結ばれる前には侯爵の地位を与えられることになっていた。
だがあの男のくだらない野望はもう叶わない。私の見立てで今回の婚約破棄は予想できており、事前に国王と密約を交わしていたからである。
それはもし王子が早まった行動へ出た場合には、外部から私が助言をする代わりに父を何らかの罪で裁き断罪することだった。
あの男を父と呼ばなければならない苦痛も、これでようやく終わりを告げる。
遡ること十一年 ――
テイフレイダ家出入りの商人だった父が男爵に無礼討ちされ、その責を取らされ母と私は男爵家へと連れてこられた。
商才に優れた父と聡明で美しい母は街で評判の夫婦であり、商売も順調、親子三人で幸せに暮らしていた。だがそこへ目を付けた男爵が父を亡き者とし母を自分のものとしたのだ。
だが一年ほどたっても母は男爵を受け入れることなく拒み続けた。時には私に暴力を振るうことで脅していたが、その時も母は私を守りひどい仕打ちを受け続け、そして耐え続けた。
それでも永遠に拒絶し続けることは無理である。いつしか母は手籠めにされ、その身には屈辱的な印が宿された。
今までどのような仕打ちにも耐えてきた母も、自身の身に起きた事実に耐えかね、とうとう平常心を保てなくなり身を投げてしまったのだ。
そんな苦い過去の記憶を振り返りながら私は出国の支度を終え、最後に訪れるべき場所へとやってきていた。
「母上、これで形はついたと言えるでしょうか。この先国も長くは持ちません。運よく生き延びていても、これまで贅を尽くしてきた貴族がどうなるかは推して知るべきこと。できることなら陛下の望み通り、殿下を改心させることができたなら良かったのですが力及びませんでした」
母の墓へと手を合わせ祈るように独り言をつぶやく。個人的には王子がどうなろうとも知ったことではないが、国王にとってはただ一人残った紛うことなき肉親、大切には違いない。
こうしてこの国を棄てることになった私を亡き両親はどう思うだろうか。仕方のないことだと理解してくれるといいのだが。
そんなことを考えながら、私は新たな生活に向かうべく馬車へと乗り込んだ。頭の中では生まれ持った常人離れした計算力を用いて生活費の算出をする。
教会では神から与えられし特別な力だと言われたがきっとそうではない。これは両親が私に残し、誰にも取り上げられずに済んだただ一つの遺産であり武器なのだ。
結果的には王国のために使うことはできなかったが、これからの人生には役立つだろう。だからもう余計な過去を振り返ることはない。
あの日の夜会で見た煌びやかな装飾、訪れた貴族たちが身につけていた色とりどりのドレスや宝飾品はまるでたわわに実った葡萄畑のようだった。
だが実際には土壌はすでに干からび始めており、残った最後の一粒から最後の一滴を絞りきる行為に等しい。
私の背後に広がっている王国は数年後には没落するだろう。近代化が進むにつれ独裁的な王国制度はもはや限界なのだ。
自分にとって祖国とはなんだったのだろうか。私の中では複雑な思いや感情が交錯しており、必ずしも計算で算出できることばかりではない。
忘れてしまいたいこともあるし忘れられないこともある。そう簡単に割り切れるはずがないのが感情と言うものだろう。
ガタゴトと揺れ動く馬車の中で、私は祖国の行く末を憂いていた。




