メイドの一日
「いってきます!」
と言って家を出ていくアル様の姿を心から嬉しく思いながら見送る。
(アル様があんなに嬉しそうに……)
と思うと涙をこらえるのに必死にならなければならないくらい嬉しい気持ちが込み上げてきた。
元気に駆けていくアル様の後姿が見えなくなるまで見送って家に戻る。
それからアル様のお部屋のお掃除をしていると、ふとあの広いお屋敷の小さな離れで暮らしたあの日々のことを思い出してしまった。
私がアル様のお母様、エルザお姉様に出会ったのは九歳のころ。
擁護院の院長から、
「とてもよいお話があるのよ。侯爵様のお屋敷でメイドにおなりなさい」
と言われた時のことは今でもよく覚えている。
その時の院長はどこかほっとしたような顔をしていた。
今にして思えば口減らしが出来たという思いがあったのだろう。
今なら、あの時の院長の気持ちをなんとなく察することができる。
そして、見習いで右も左もわからない私の教育係になってくれたのが、エルザお姉様だった。
「初めまして、なにちゃん?」
と優しい笑顔で聞かれて、そのあまりの美しさにドキドキしながら、
「め、メルです」
と、しどろもどろに答えた時の頬の熱さは今でも忘れられない。
私は一瞬であの人の虜になってしまったのだろ。
そんなエルザお姉様と出会って、私の人生に彩りが加わり始める。
今にして思えば、それまで私の人生は灰色だった。
毎日誰かとご飯の取り合いをして、窮屈なベッドで寝る毎日。
当時はそれが当たり前だと思っていたけれど、私はお城でエルザお姉様と一緒に働くようになって、それまでの人生には色が無かったことを知る。
そして、その彩りに溢れた生活はいつまでも続いていくのだと、純粋に信じ込んでいた。
そんなことを思い出して、ふとため息を吐く。
「……もう、あの日は帰っては来ないのに……」
そうつぶやくと自然と涙がこぼれてきた。
そんな私を見て、サクラが、
「みゃぁ?」
と鳴く。
私にはサクラの言葉はわからないけれど、きっと心配してくれているのだろう。
「うふふ。大丈夫。ちょっと埃が目に入っただけよ」
と下手な言い訳をして、サクラを撫でてやると、サクラは嬉しそうに、
「ふみゃぁ」
と鳴いて少しくすぐったそうな顔をした。
それから、気を取り直して、掃除を済ませる。
そして、お洗濯やお料理の手伝いをしに台所へと向かった。
「あら。もう終わったの?」
と声を掛けてくるミュウさんに、
「はい。お待たせしました。今日はなにをすればいいですか?」
と指示を仰ぐ。
「じゃぁ、お洗濯をお願いできるかしら? うふふ。男の子がいると洗濯物が増えて大変よね」
と、どこか嬉しそうに言うミュウさんに微笑みながら、
「かしこまりました」
と返事をして裏庭に出た。
そこで、洗濯をしているとスミレがやってきて私に甘えてくる。
おそらくおやつが欲しいんだろう。
そんなスミレに私はそっとエプロンのポケットの中から小さく切った干し肉を渡して、
「内緒よ?」
と微笑みながらスミレのことを撫でてあげた。
「わっふ」
と喜びながら、スミレがじゃれついてくる。
私は、
「うふふ」
と笑いながらしばらくスミレとじゃれ合い、また洗濯の続きにとりかかった。
やがて、洗濯が終わりお昼になる。
その日のお昼は卵がたっぷり挟まったサンドイッチだった。
ミュウさん曰く、アル様も同じものを食べているらしい。
(アル様もこんなに美味しいお弁当を食べているのね……)
と思うと、たまらなく嬉しくなる。
そして、そんな美味しい料理を当たり前のように作ってくれるミュウさんに改めて感謝の念を抱いた。
そして、玄関で掃き掃除をしているとアル様が学問所から帰って来る。
私はそれをサクラ、デイジー、スミレと一緒に出迎えると、
「本日もミュウさんが裏庭でお稽古をつけてくださるそうですよ」
とアル様に告げた。
「うん。わかった!」
とはしゃぐように言ってアル様がお部屋に戻っていく。
私はその後姿を微笑ましく見つめながら、仕事へと戻っていった。
午後は繕い物をして過ごす。
時折、裏庭の方から「えい! えい!」というアル様の元気な声が聞こえてくるのがたまらなく嬉しい。
私は、そんなアル様の声を聞きながら、心の中でそっと、
(アル様は今日もお元気でいらっしゃいますよ)
と遠くまで続く空に向かってそんな言葉を投げかけた。
そんな私の肩にデイジーがのぼってくる。
「きゅきゅっ」
と鳴いて頬ずりをするのはきっとスミレと同じでおやつをもらいたいからだろう。
「もう……。みんな食いしん坊さんね」
と苦笑いしながら、ポケットの干し肉を取り出す。
そして、それを美味しそうに食べ、
「きゅきゅっ!」
と鳴いてじゃれついてくるデイジーに、
「うふふ。今日はここまでよ」
と言って、軽く撫でてあげた。
それから、デイジーを肩に乗せたまま繕い物を済ませる。
そして、頃合いを見計らって台所にいくと、そこではすでにミュウさんが晩ご飯の準備を始めていた。
「すみません。遅くなりました」
と頭を下げる私に、
「うふふ。今日はアルちゃんの好きなナポリタンにしましょうね」
とミュウさんが優しく声を掛けてきてくれる。
私はそんな優しいミュウさんにどこかエルザお姉様と同じようなものを感じながら、
「はい」
と答えて、ナポリタン作りを手伝い始めた。
やがて、夕食が終わりアル様がベッドに入ったのを見届けて私も部屋に下がる。
手早く準備を整えてお風呂に行くと、そこには先にミュウさんが来ていた。
「あ。ごめんなさい。上がったらお声がけくださいましね」
と言ってその場を去ろうとする。
するとそこへ、
「あら。せっかくですもの、一緒に入りましょう?」
とミュウさんが笑顔で意外な言葉を掛けてきた。
「え?」
と戸惑う私にミュウさんが、
「うふふ。ロロアともたまに一緒に入るのよ」
と言うミュウさんに半ば強引に押し切られて一緒にお風呂に入る。
誰かと一緒にお風呂の入るのは擁護院でもお屋敷でも慣れていたが、まだ出会って間もないミュウさんと一緒にというのはなんだか妙に気が引けた。
「うふふ。どう? そろそろ慣れてきた?」
と、大雑把に聞いてくるミュウさんに、
「はい。おかげ様で快適に生活させていただいております」
と、少しかしこまって答える。
そんな私にミュウさんは優しく微笑むと、
「もう少し肩の力を抜いてもいいのよ」
と、どこか諭すような感じでそう言ってきてくれた。
「あの……」
と少し照れてしまう私の頭を、
「うふふ」
と笑いながらミュウさんが優しく撫でてくれる。
私はその行為にかなり照れながらも、小さい頃、エルザお姉様に同じようにしてもらったことを思い出して、思わず涙を流してしまった。
「あらあら。ごめんなさい。なにか気に障ったかしら?」
と慌てて私を覗き込むようにして聞いてくるミュウさんに、私も慌てて、
「いえ。その……。昔のことを思い出してしまって……」
と言い訳をする。
そんな私にミュウさんは、
「そうだったのね。……ごめんなさい」
と言うと、私を優しく抱きしめて、
「ここにいればもう大丈夫ですからね」
と言って私の背中をトントンと優しく叩いてくれた。
「うっ……」
と思わず嗚咽を漏らしながら、ミュウさんの胸に縋りつく。
私はなんて恥ずかしいことをしているんだろうと思いつつも、その時はミュウさんの優しさに抗うことができなかった。
「大丈夫、大丈夫」
と繰り返し言ってくれるミュウさんの胸で泣く。
そして、その涙が少し落ち着いたころ。
私は思い切って昔のことをミュウさんに話してみた。
「そう。そんなことがあったのね……」
「すみません。こんな話を……」
「いいの。こういうことは誰かに話した方が楽になるものよ。……アルちゃんには?」
「いえ。まだ、詳しくは……」
「そう……」
と言ったところで少しの間沈黙が流れる。
その間を埋めるようにまたミュウさんが私の頭を軽く撫で、
「今まで辛かったわね……」
と言ってくれた。
その言葉でまた目頭が熱くなる。
そんな私をまたミュウさんは優しく抱きしめて、
「これからはみんないっしょよ。メルが一人で背負い込むことはありませんからね」
と言ってくれた。
また涙を流す。
私はこの日、ミュウさんに自分の弱い所を全部さらけ出してしまった。
少し恥ずかしい気持ちでお風呂から上がる。
そんな私の髪をミュウさんが風魔法で優しく乾かしてくれて、私もお返しにミュウさんの髪を乾かしてあげた。
「「うふふ」」
と二人して笑い合う。
その日を境に私とミュウさんの距離はすごく縮まった。
翌朝も、
「いってきます!」
と元気に駆けて行くアル様を見送る。
そして、また今日という日が楽しく始まることを嬉しく思いながら、私はミュウさんの手伝いをすべく台所へと向かった。