3.オタク、ざまぁ気分
冬真一華としての登校初日は、朝から心臓バクバクな緊張の連続だった。
授業時間中は教壇に顔を向けて教師の言葉に耳を傾け、時折板書をノートに書き写す程度で良い――と思っていたのだが、その考えすら甘かった。
教師が黒板に向かって説明しながら板書している隙に前後左右席のクラスメイトらが次々に小声で話しかけてきたり、何らかのアイコンタクトを取ってこようとする為、何かと気忙しかった。
そうかと思えば、休み時間には入れ代わり立ち代わりでこれまた同じく、クラスメイトらが次々と声をかけてくる。
彼ら彼女らの顔と名前は一華の記憶の中に大体残っているから、それなりに対処は出来た。
が、翔輔自身がもとは根暗な陰キャオタクだった為、これだけ大勢の同年代の男子女子と接するのが事実上初めてであり、ちょっとした受け答えだけでもゴリゴリに精神が削られてゆく。
(ちょっと待って待って……一華ちゃん、めっちゃ人気者やったん?)
何とか顔には出さず、それでも驚き慌てながら一華の記憶を紐解いてみる。
どうやら彼女はかなり多方面に色々と良い顔を見せまくっていたらしく、特定のカレシは居ないものの、相当に親しい男子もひとりやふたりでは済まなかった様だ。
(いや……無理無理無理無理。絶対無理)
翔輔は己がコミュ障であることを自覚している。
とてもではないが、従来の一華が成し遂げてきた様な幅広い人脈の維持は不可能であろう。出来ることなら、交友関係は数名程度に絞り込みたい。
が、いきなり人間関係の断捨離なんぞを実行してしまうと、それはそれで色々なところに波風を立ててしまう恐れがあった。
(ちょっとずつ……ちょーっとずつ、フェードアウトしてくしかないやろな……)
口から魂が抜けてしまいそうな錯覚に見舞われつつ、翔輔は引きつった笑顔を浮かべてひたすら愛想を振りまくった。
そうして、やっと迎えた昼休み。
翔輔は一華愛用の弁当箱を小脇に抱えて、猛ダッシュで教室を飛び出した。あんなところに居たら、押し寄せる友人知人の波に揉まれてしまって食事など出来よう筈も無い。
まずは一にも二にも、逃げることが肝要だった。
行き先は、第一校舎裏の非常階段口で良いだろう。道中、一華の美貌に振り向く男女の姿は決して少なくなかったが、そんな連中にいちいち構っている暇は無い。
兎に角今は、安らげる場所が必要だ。
翔輔は早くも息切れし始めた一華の貧弱な体力を呪いながら、それでも何とか目的の場所へと辿り着くことが出来た。
(アカン……これちょっと、ロードワークした方がエエで……体力無さ過ぎ……)
一華の記憶を掘り起こしても、体育会系の部活に所属していた過去は無い。当然ながら、翔輔の頃に鍛えた格闘技系の技など使える筈も無かった。
(これ多分、そこらのしょーもないチンピラ相手にしても負けるやろな……)
そう思うと、何だか泣けてきた。
必死に頑張って稽古してきた技の数々が、今のこの体では何ひとつ使えないというのが物凄く悔しい。
(おー……ここは誰も居らんな)
やっと心のオアシスを見つけたと安堵した翔輔は、非常階段に腰を落ち着けて弁当箱を開いた。
(うわ……何これ、小っさ……)
何となく予想はしていたが、女子の食欲ってこんなに貧相なのかと嘆いてしまえる程に、一華専用の弁当箱は容量が少なかった。
ところがいざ箸を動かしてみると、意外とこの量でも十分に腹が膨れた。
これが女子の食事量なのかと、少しばかり新鮮な気分だった。
(いや、でもちょい待てよ……確か女子って、別腹とか何とかいうて、デザートとかはがっつり食うんやなかったっけ……)
ふと、そんな疑念が脳裏に浮かんだ翔輔。余りに気になって、つい腕を組んで真剣に考え込んでしまった。
そして何気に視線を左右に巡らせると、いつの間にか少し離れたところで、ひとりの男子生徒がぎょっとした顔つきでその場に棒立ちになっているのが見えた。
彼の視線は、間違い無く翔輔に注がれている。ただ、その角度が少しばかり下向きだ。
その目線を追って、翔輔は思わず喉の奥で、あっと声を漏らしてしまった。
現在翔輔は、非常階段の降り口から三段目の位置にどっかりと腰を下ろしている。そしてその座っている格好だが、麗しの女子がよくやるような足組みポーズではなく、普通に大股開きだった。
つまり、ミニスカートの中身が丸見えになっている訳である。
そりゃあこんなものを堂々と披露していたら、年頃の男子はがっつり見入ってしまうだろう。
ここで翔輔は決して慌てず騒がず、引きつった笑みを浮かべながらゆっくりと膝を閉じた。すると件の男子生徒も顔を真っ赤にしながら、ぷいっと視線を外してそそくさと立ち去っていった。
(エラいモン、見せてしもうた……ちょっと気の毒なことしたな)
反省せねばならぬと、翔輔は小さな拳骨で自身の頭を軽く叩いた。
それから気を取り直し、空になった弁当箱を携えて教室へと引き返す。戻ったら戻ったでまた色々と面倒臭いことになりそうな気がしたが、他に行く当ても無い為、ここは腹を括って自席に向かうしか無いだろう。
ところがその途中、一年B組の教室近くで事件は起こった。
隣の一年A組の教室前に差し掛かったところで、ひとりの男子生徒が幾分びっくりした様子で目の前で凝り固まっていたのである。
確かクラスメイトの男子で、アニメやライトノベルが大好きな吉竹悠太という少年だった筈だ。
悠太は翔輔と真正面から向き合ったまま、その場で硬直している。顔が微妙に上気している様に見えた。
「あー、えーっと……吉竹くんやったかな……俺……やなくて、うちに何か用かな」
その瞬間、悠太は信じられないといった顔つきで更にあたふたと慌て始めた。
否、彼だけではない。
周囲に居た他の生徒らも、物凄く驚いた表情で翔太=一華と悠太のやり取りを覗き込んでいる。
と、その時だった。
「おー、何ナニ? オタクくんよぉ、お前とうとう、冬真にコクってる訳ぇ?」
嘲笑の響きが伴う下卑た声が飛んできた。
クラスメイトの陽キャ連中が、ぞろぞろと群れて近づいてきている。悠太に嘲りの声を投げかけてきたのは、そのうちのひとりだった。
(何やこいつら……カンジ悪……)
翔輔は、何となく腹が立ってきた。
自分も一華の体に入る前は、陰キャなオタクだった。その同族意識が働いたのかは分からないが、少なくとも今は悠太を守ってやらなければという変な使命感が湧き起こってきた。
「あんなん、放っとき……吉竹くん、教室戻ろうや」
「あ、え……えぇぇぇぇ?」
悠太が心底驚いた様子で、素っ頓狂な声を放った。翔輔が悠太の手を、さも当然の様に握って教室へと引っ張ってゆく姿を見せたのである。
驚いたのは悠太だけではない。たった今、彼を嘲笑していた陽キャ連中も、信じられないものを見たといわんばかりの表情で、愕然とその場に凍り付いていた。
(エエ気味や……ざまぁ見さらせ)
超絶美少女が陽キャなパリピ連中を無視して、大人しげな根暗オタクの手を引いて堂々と歩いてゆく。
その様が、我ながら痛快に思えてならなかった。