溺愛されながら溺愛について考察したら
私には婚約者がいる。
「お願いがあるのですが、聞いてくださいますか?」
目の前の麗しい婚約者は少しだけ驚いた様な表情を見せた。私がお願いをするのが珍しいからだろう。
「なんだろうか」
「私の事を溺愛してくださいませんか?」
「……何だそれ」
驚いた顔は怪訝な表情へと変わった。今日のお茶会は庭で開いたので、風が目の前の婚約者のサラッサラの髪を靡かせた。おかげで眉が寄った動きが良く見えた。
さあ、ここからが私のプレゼンテーションタイムだ。このお茶会にこっそり持って来た本をテーブルの上にスッと差し出した。
「今ご令嬢達の間で流行っている恋愛小説です。この中に登場する令嬢が王子様に恋をして、障害を乗り越えながら徐々に二人の距離が近づき愛を育んでいきます。お互いの気持ちを伝え合ってから王子様は令嬢に惜しみない愛を注ぎます。その様子を巷では“溺愛”と呼ぶそうです」
「へー」
初めて聞いた様な、そしてさほど関心が無い様な反応である。
「世のご令嬢達はこれを読んで悶え、『私もこんな事言われてみたーい!こんな事されてみたーい!』と考えるのです」
「……考えたのか?」
「残念ながら私は世のご令嬢達とは少し違う様で、悶えはしましたが自身に置き換えて考える事はしませんでした」
「でもさっき溺愛してくれって言っただろう」
「はい、言いました」
「矛盾してないか?」
「結論に至るまでが早すぎます。もう少し私の経緯を聞いてください」
「……聞こうか」
私の婚約者は優しい。「面倒くさい」とか「話が長い」とか「だから何だ」とか言わずに私の話に耳を傾けてくれる。
「私は何故こんなにも悶えてしまうのだろうかと考えました」
「真面目だな」
「そもそも悶えるとは何かと思い、辞書で調べました。“非常に思い悩む”“気絶しそうになる程苦しむ”等といった意味でした」
「小説を読んで思い悩んだという事か」
「恥ずかしながら辞書に載っていた内容は使っているニュアンスとは違い、悶えるという単語の意味合いを若干間違えていた事を学びました。でも小説を読んで胸が苦しくなる程にキュンとしたと言う意味で受け取れなくもないです」
「キュン……」
「キュンです」
私の婚約者はどうやら“キュン”が分からないらしい。残念ながら“キュン”については調べて来ていない。それにこれは辞書にも載っていないかもしれない。
「人間には情があります。その情が刺激される事で昂って胸がいっぱいになり苦しくなるのだと思います。それが悲しい情であればこんな体験をしたいとは思わないでしょう。でも心を温かく時に熱くしてくれる愛情ならば羨ましく思い自分も体験してみたいと思うのではと考えました」
「なる程」
「しかし私は情が刺激され昂りはしましたが自分も体験してみたいとは思わなかった訳で、それが何故なのだろうかと疑問に思いました」
「不思議だな」
「溺愛というものにそこまで憧れが無いからか。そもそも溺愛を理解しきれていないからか。もしくは端から私とは無縁なものだと諦めているからか。または小説に出てくる王子様が好みじゃ無いからか」
「一番最後のは関係あるのか?」
「意外と大事な要素だと思います」
「なる程」
ここで一旦コホンと咳払いして居直った。
「そこで結論です」
「ついに来たか」
「実際に溺愛して貰ったら疑問が解けるのではないかとの結論に至り、冒頭のお願いとなりました」
「……」
やっと結論に辿り着いたのに私の婚約者は無言になり反応を返してくれない。
ここはやはり考える時間も必要とティーカップに手を伸ばしお茶を飲む事にした。でもティーカップを持つ手が僅かに震え小さくカタカタと音を鳴らしてしまった。私もこんな提案をするのに緊張したという事だろう。僅かな音だ。考え込んでいる婚約者には気づかれてはいない筈だ。
お茶を口に含み、一気に話して乾いた喉をゆっくりと潤した。そして鼻から細く息を吐き出すと手の震えも収まった。
「俺が君を溺愛すれば良いのか?」
「……はい!一時だけで構いません」
「溺愛とはそもそも何だ?」
「溺愛とは辞書には“むやみに可愛がる事”や“盲目的に愛する事”だと書かれていました」
「可愛がって愛すれば良いのか?」
「溺愛とは恋愛面だけのものではありません。子を溺愛するとか、ペットを溺愛するとかにも使われます。例として、我が国の王は王女を愛するあまり彼女専用の豪華な別荘をリゾート地に建てましたよね。これも溺愛と言えるでしょう」
「別荘を建てれば良いのか?」
それをさらりと言えてしまうのが凄い。
「私に別荘は必要ありません。私が喜びそうな事をして頂けると嬉しいです。王女は祖父である公爵からも溺愛されており、うさぎ好きな王女の為に噂では護衛すらもうさ耳を着けないと入れないうさぎ園を作ったとも聞きました」
「ああ……メイドにもうさ耳を着けさせるので結局は公爵の為の公爵が得するうさぎ園なんじゃないかって学友達も噂してたな」
何とも殿方らしい視点の噂だ。
「うさ耳好きですか?」
「残念ながらの見た事が無いので判断のしようが無い」
何て真面目な返しなんだ。いや、誤魔化されたのか?
「話が少し逸れましたが、貴方は植物が好きですよね?お部屋で育てている植物に毎日水をやっているでしょう?その水は植物にとっては愛情であり、毎日愛でているその状態を溺愛と言えるでしょう」
私の婚約者は植物が好きで現在も植物学を学んでいる。とても優秀で教授からも期待されていると聞いている。
「なる程、分かった。とても分かりやすかった」
「ありがとうございます」
「では君を溺愛しよう」
「本当ですか!」
「そんなに喜んでくれているのに嘘だなんて言えないな」
「では来週のお茶会の時にお願いします」
「いや、せっかくだからデートしよう」
まさかのデートのお誘い。婚約者として毎週こうしてお茶会をしている他はお呼ばれした夜会でパートナーを務める位しか会わない私達。植物学の研究で忙しい彼との前回のデートの記憶はきっと一年も前だ。
「来週のデートまでに俺も溺愛について学びたいのでその本を貸して貰えないか?」
「学んでくださるのですか?」
「何事も予習は大事だ」
こんなにも前向きに取り組んで貰えるとは思わなかった。
「これで良ければ是非どうぞ」
目の前の婚約者に本を差し出した。婚約者はその本に手を伸ばした。
テーブルの上で溺愛小説をお互いが握る様は、何かの契約でもしたかの様であった。
私と彼が婚約したのは十年も前だ。両親が仲良くほぼノリで婚約した。婚約者と言っても十年の月日から幼馴染と言った方がしっくりくる。現在彼は十九歳で私が十八歳。二年後に結婚する予定だ。彼は大学で植物学を研究している。私は家で嫁入り修行中。
婚約しているが幼馴染の様な私達は恋人の雰囲気とは違う為、キスもした事が無い。
デートの約束の日に向けて心の準備をする。何を着て行こうか、何処に行こうか、何をしようか。彼が考えてくれているかもしれない。そこら辺確認しておけば良かった。当日困らない様に候補を考えておいても良いかもしれない。
前のデートは確か植物園に行った。彼は何度もそこに来た事がある筈なのに完全に研究者の目になっていて、さらに植物に関する話をつらつらとされた覚えがある。解説員と来ている様だった。
あれはデートだったのだろうか。まあ、不思議とイヤでは無かったけれど。
デート当日、緊張でドキドキしながら待っていたら彼が来た。
「迎えに来ました」と言う彼は今日も髪がサラッサラで僅かな風で靡いた。
「今日も美しいですね」
私の手を取って指先に唇を寄せた。
そんな事をされたのが初めてで私は驚いてしまった。
「もう始まっていますか?」
「デートが始まっているので溺愛も始まっているぞ」
私がお願いをした通り、出だしからちゃんと演じてくれているらしい。予習の賜物だろうか。私の婚約者は意外にも役者なのかもしれない。
彼はキザな事をするタイプでは無いが、とても綺麗な顔立ちの美男子なので、恋愛物の芝居でも観ている様だ。ヒロインポジションが私で大変申し訳無い。
何も事情を知らない我が家の使用人達は、これまで見た事の無い婚約者の姿に驚いている。女性使用人の中には顔を赤らめている者すらいる。
そんな彼等の様子を気にする事無く彼は私をエスコートして、用意してくれた馬車に乗り込んだ。
走り出す前、彼は向かえに座る私に「おいで」と言った。
「え?」
「膝の上」
「え……え!?」
予想外の提案だった。両手を広げて私を迎い入れようとしている光景に驚きと恥ずかしさが同時にやって来た。
「それは遠慮させてください!」
「なんでだ?小説ではやっていただろう?」
「絶対に重たいので無理です!」
私の婚約者は体が大きくは無い。昔から体を鍛える事より植物図鑑を片手に植物を観察していた。貴族の嗜みとして乗馬や剣術等は一通り出来る様だが、背丈も私とさほど変わらないし、体つきも横から見ると薄い。私が膝に乗ったりしたら潰してしまいそうだ。
「……イヤなのか」
「イヤと言うか……」
婚約者の膝を砕いてしまうのが怖い。
「分かった。じゃあ変えるか」
そう言うと今度は腰を浮かせて私の隣に座った。そして私の肩に手を回すとグッと彼の体に引き寄せられた。
「これで行こう。馬車を出してくれ」
私の返答を聞く事無く抱き寄せられた状態で出発してしまった。
正直、ドキドキしない訳が無かった。初めてだったのだ。ダンス以外でこうして密着する事自体が初めてで、ここまで近づかなければ気がつかなかった程彼の使用する香水がほんのりと香った。
でも緊張のせいか、もしくは体を彼に傾けていたせいか、居心地は悪かった。どこかに到着して馬車を降りた時、お尻の半身と片足が痺れてしまっていた。溺愛とは意外にも忍耐が必要なのだろうか。
どこに連れて行ってくれるのだろうかと思っていたが、到着した目の前には衣装店の入り口があった。
婚約者にエスコートされて店に入ると、予約がしてあった様で個室に通された。そして個室の中には既に数着が並べられ準備されていた。ここまで根回しがされていた事にまたまた驚いた。こんな事が出来る人だったのだろうか。でもこれも小説で学んだのかもしれない。
取り敢えず試着してみたが、その度に彼は褒めてくれた。「綺麗だ」「とても良く似合う」そんな感じで。
一番気に入った物を聞かれたので答えると、彼は「それを着てデートしよう」と言った。
ちょっと待て!
「これを今着て出掛けるのですか?」
「そうだ。小説でも店で服をプレゼントしてそのまま着てデートしていただろう?」
本当にしっかり予習をしてくれている。真面目だ。それに優しい。
でもちょっと待て。
「服をプレゼントしてくださるのはとても嬉しいですが……」
「何か違ったか?」
「私は今日のデートの為に何を着て行こうか悩みました。そしてやっとの思いで決めて今日着てきました」
「とても美しかったな」
「ありがとうございます……じゃなくて、悩んで決めた服に似合う様に髪型もセットしましたし、靴も選びました。だから今日のデートは悩んで決めた着てきた服で過ごしたいのです」
「……なる程」
我が儘だっただろうか。でもその乙女心は理解して欲しいとも思う。
「分かった。ではその服はプレゼントするから今度のデートで着てくれたら嬉しい。考えが及ばなくて悪かった」
けっして威張る事も押しつける事もしないし、私を尊重する事を忘れない。私は彼のそういう所を尊敬している。
「ありがとうございます」
恋愛小説の王子様はプレゼントした服を褒め称えて、履いてきた靴と合わない様なら靴もプレゼントしてしまうし、アクセサリーすらもプレゼントして自分色にヒロインを染め上げてしまう。その少し強引な感じと財力に惹かれる女性もいるだろうが、私はそういうタイプではない。
衣装店での買い物を終えて次に連れて来られたのはレストランだった。ここも予約をしてくれており、案内された席は段差を上った窓辺の席で、とても良く手入れのされた庭園が美しく眺められた。
彼はとてもスマートで、段差を上る時のエスコートも紳士的だった。小説ではヒロインが躓いてそれを王子様が抱きかかえる場面があり、ヒロインがキュンとするのに私も同調したけれど、残念ながら足腰のしっかりした私は躓く事は無かった。彼のエスコートが自然だったおかげにしておこう。
さらに彼は素敵な席も準備してくれていた。料理もこの店の名物を既に注文してくれており、長く待たされる事も無かった。小説で学んだ成果だろうか。
「あーん」
……これさえ無ければ完璧だった。
目の前に座る婚約者は一口大に切った肉をフォークに刺して私に差し出している。これを食べろと。真顔で。
カップルデートでの定番、あーんだ。勿論小説にもそんなシーンがあった。確かヒロインは頬を染めて恥ずかしがりながらも口に運んで貰っていた。
「……それは、やめませんか?」
「やっぱりイヤか?」
やっぱりと言う位だ。婚約者もあまり好まない行為なのではないだろうか。真顔なのもそのせいだろう。
「周囲の人に見られたら恥ずかしいのもありますし、大きな口を開けて口の中を見られるのも恥ずかしいです。それにお肉のソースが垂れて汚したらマナー的にもどうかと思いますし、人に口に運ばれると口の周りに付いてしまうのも気になります」
「ほぼ同感だな」
目の前の婚約者は差し出していたフォークを引いて自分の口に運んだ。せっかくの溺愛行為を断った事に少し申し訳ない気持ちもあった。でも彼は私の気持ちに同調してくれ気にせず食事を続けている。
やるのを恥ずかしく思い笑顔では無く真顔だったとしたら、その気持ちを我慢して私の為にやってくれた事が照れくさく感じる。やるのは恥ずかしいけれど、真顔であーんする顔はあまりにも貴重で可愛らしくもあった。可能なら彼が恥ずかしさを押し殺してあーんするのを決意した時の心の中を覗いてみたかった。
食事も終わり、今度は植物園に連れて来られた。
あれ、デジャブ?
しかも何故か大きな荷物を持って馬車を降りた。
婚約者にエスコートされて園内を歩くと、目の前には見覚えのある温室。熱帯地域で見られる珍しい植物が沢山育てられているこの温室に入るのかと思いきや、温室の脇にある小道を進んで行く。
「この温室には入らないのですか?」
「今日はここじゃない」
ここでしか見られない珍しい植物が沢山あり、以前来た時はここで色々と教えて貰った記憶がある。まあ、へーと聞いていたにもかかわらず内容は殆ど覚えていないけれど。
小道は煉瓦が敷き詰められ、両脇には植物園らしく植物が植えられている。途中分かれ道があったけれど婚約者は迷わずに進んで行く。どこに行くかは分からないがきっとここは彼の庭の様な所で、どこに何があって何の植物が植えられているのかも分かっているのだろう。
ここで有名なバラ園の前を通り過ぎ、デートスポットの季節の花に囲まれた四阿も通り過ぎ、さらにはメルヘンチックな花のアーチの小道も通らず、そして「着いたよ」と連れて来られたのは特に花が何も無い芝生だった。
無駄に瞬きを沢山してしまった。
「ここは……何か植えてあるのですか?」
「そうじゃない。ちょっと待っててくれ」
私には見分けのつかない植物が芝生に植えてあるのかと思ったがどうやら違うらしい。そして婚約者は大きな荷物の中から敷物を出して木陰の芝生の上に敷き、さらにクッションまでもが荷物の中から出て来た。
「どうぞ」
再び無駄に瞬きを沢山してしまった。
もしかしたら移動の馬車の中で私は眠ってしまい、これは夢の中なのではとも思ったがどうも違うらしい。
「どうも」
どうぞと言われたからどうもと言って敷物の上に乗った。これはピクニック的な事なのかしらと思って突っ立っていたら、婚約者は敷物の上に座るとクッションを足の上に置き、ポンポンッとクッションを叩いた。
「ここに頭乗せて寝転がって」
まさかの膝枕的な事だった。
そうだ。そう言えば小説にそんなのもあった。
いや、でも、逆じゃなかったかな……?
「私が、される側ですか?」
「まあ、そう」
「小説では反対じゃありませんでした?」
「今日は俺が溺愛をする側だからされるのは違うかと思って」
なる程。それでこうなったのか。
「……言って良いですか?」
「どうぞ」
「恥ずかしいです」
「まあ、だろうね。そう思って人に見られない場所にしたんだけど」
なる程。それで花が無い芝生の上。これまで通って来た温室もバラ園も四阿もアーチも、どこも人が居たから。
「ずっと頭を足に乗せていたら足が痛くなりませんか?それはとても申し訳ないです」
「じゃあ、痛くなったら言うからそれまでやってみるのはどうだ?」
色々と考えて譲歩してくれる婚約者に申し訳なくて、勇気を出して敷物に座りそのまま頭を彼の足の上のクッションに乗せた。緊張から体の強張りが凄く、リラックスは出来そうになかった。そして何より、顔を上に向けると彼が私の顔を覗き込んでいて、視線が絡んだ瞬間一気に顔が熱くなった。
「やっぱり恥ずかしいです。顔見ないでください」
「……そうだな」
何故か婚約者まで照れている。耳が真っ赤だ。私の熱が伝染したのかもしれない。
両手で顔を隠す羽目になり、協議の結果膝枕的な事は止めにして、二人ただ並んで寝転がる事にした。お互い真っすぐ空を眺めているおかげで恥ずかしさは引いていった。
寝転がって気がついたが、ここは植物園の全体が良く見える場所だった。すくそばには塀があり、植物園の奥まった端の方なのだろう。周囲に人が居なくてとても静かだ。それでも植物園に幾つかある庭園の花々が美しく彩っているのが遠目からも見え、それはそれでとても綺麗だった。
「今日はとことん溺愛が裏目に出たな」
隣で寝転がっている婚約者がぽそっと言った。
「そんな事無いです」
「すまなかった。勉強不足だった」
「本当に!そんな事無いです!」
謝らせてしまう結果となり、私は全力で否定した。
「私、今日ので疑問がやっと解けた気がします」
「そうなのか?何故溺愛の恋愛小説を読んでキュンとしたのに自身も体験してみたいと思わないのか、と言う謎がか?」
え、この婚約者素晴らしいな。
私がつらつらと経緯を述べた“溺愛をして欲しい”の理由をちゃんと理解して一文にまとめてくれている。頭が良いからかな。それともこういった考察が得意だからかな。しかも要点である“溺愛”と“キュン”をしっかりと組み込んでくれている。
「簡単な事です。王子様の溺愛行為にヒロインがときめくからキュンとしたけれど、私にとってはときめく行為では無かったと言うだけです」
「俺が下手だっただけかもしれない」
「いいえ、そんな事はありません。だって、嬉しかった行為もありましたから。お膝の上に乗るのや服を着替えてデートするの、それに食事をあーんするのや膝枕についてはご遠慮してしまいましたが、デートに向けて悩んで選んだ服を着たいという我が儘な乙女心を理解してくださったのはとても嬉しかったですし、色々と考えてレストランを予約してエスコートしてくださったのも素敵だなぁと思いました。それから私が恥ずかしがる気持ちを理解して代案を考えてくださったのも嬉しい事でした。それに今見ているこの景色も私には知らなかった美しいものです。ありがとうございます」
「そうか……」
今日一日、私の我が儘なお願いに付き合ってくれたその優しさに、私は一番ときめいた。充分な思い出を貰った。
だから、私はここで、今、言うべきなのだ。
「大切なお話があります」
心臓が激しく鳴っていた。喉にまで響く様に鳴るので、声が震えてしまいそうだった。
隣に寝転がっていた婚約者は私の真剣な声に、顔を横に向けて私を見ている気配がした。私は彼の顔を見たら言えなくなりそうで、空を眺めたままだった。
「婚約を解消しましょう」
婚約者はガバっと半身を起こした。視界の端に彼が映ったけれど、焦点を合わせるのが怖かった。
「……何故?」
「外国の有名な先生のいる大学の研究室に留学する話があると聞きました」
「……何故、知っている?」
「父と、貴方のお父上がお酒を飲みながら話しているのを聞いてしまいました」
婚約者は大きな溜め息をついて「酔っぱらい親父」と呟いていた。ちょっと口が悪くてそんな一面もあったのかと少し吃驚した。私の前ではいつも紳士的だから。
「私が……婚約者がいるのでと断ったのでしょう?留学となれば最低四年間は向こうに、場合によってはそのままその国で研究を続ける事もあると。大学卒業後に留学するとしたら結婚して直ぐか、もしくは結婚を延期して行く事になる。私を連れて行く事は難しいし、結婚して直ぐに私を置いて行くのも悪いと思っていて、けれど結婚を延期すると私の婚期が遅れる事になり外聞も悪くなる。私の父が貴方のお父上に『留学の話を断ってくれて良かった。助かった』と言っていました。私はそれが嫌でした。父の心配は分かりますがあまりにも自分本位過ぎて貴方の将来を考えていない。私の存在が貴方の未来を潰してしまうのは嫌なのです」
「……それは違う」
「だから婚約を解消してから留学してください。貴方はとても優秀な方です。素晴らしい環境で好きな事を続けて欲しいです。私がいなければ留学先で素敵なご令嬢との出会いがあった時に罪悪感を抱かずに済みますし」
「ちょっと待て!」
私の言葉に被せるように言ったその言葉は、少し怒りを滲ませていた。そして婚約者は私の上に両手をついて覆い被さった。空を見ていたのに彼の姿が視界を占めてしまった。
膝枕なんかよりもずっとずっと恥ずかしくなった。それだけじゃなく、心臓がより早く動いて上手く呼吸が出来なくなった。そして体が動かなかった。
「留学を断ったのは君のせいじゃない」
「……貴方が優しいからそう言ってくださるのでしょう?」
「先ず、俺の話を聞いてくれ」
私を見下ろす婚約者のいつになく真剣な声に繋ぎ止められて、視線を逸らしたいのに逸らせなかった。
私は小さく頷いた。
「留学の話は確かにあったが父達の会話は全て憶測で事実では無い。留学を断ったのは別の理由だ」
「……本当ですか?」
「本当だ。断った理由は教授の名誉の為に父には伝えなかった。だから憶測を君の父に伝えたのだろう」
「教授の名誉、ですか」
「君に誤解されたままは嫌なので教えるが他言はしないでくれ」
「そんなっ!大事な理由があったのなら私なんかが聞く訳にはまいりません!」
「いや、聞いてくれ。君との間にわだかまりは一切持ちたくない」
この方のこの生真面目さが私は好きだ。言葉の端々から伝わってくる彼の想いに、勘違いをしてしまう程に期待をしてしまう。今日の中で一番この瞬間が彼にときめいている。
「留学を進められたのは教授のスパイとして俺を送り込みたかっただけだ」
「え……」
「留学先にと言われた研究室は植物学会でも有名な所でこれまで多くの発見と功績を残している。国としてもそこにこれまで幾度となく先を越され、我が国で権威のある教授に期待と圧力が掛かっており、そのプレッシャーからスパイを送ると言う悪案を思いついたのさ。本当にくだらない。俺はそんな事に協力などしたくはない。だから断ったんだ」
私の知らない世界だった。婚約者がそんな薄汚れた思惑に巻き込まれていたとは全く知らなかった。
「でも、断ったりして大丈夫だったのですか?教授は我が国では権威のある方なのですから、断る事で何か不都合な事にはなりませんか?」
「スパイをした方が良かったと思うのか?」
「いえっ!そんな事は……!ただ、大学に居づらくなったり今後の研究に支障が出たり等は無いのでしょうか?」
「全く問題は無い。寧ろこちらの方が弱みを握った様なものだろう。俺はもうあの教授に従事するつもりは無い。研究室も変更する届け出を出した」
「教授に対してこんな言い方はよろしく無いかもしれませんが、今後貴方の研究の邪魔をされたりはしないのでしょうか?貴方の功績を妬み名誉を傷つけられたりはしないのでしょうか?」
「君は随分と俺に対する評価が高いのだな」
「貴方はとても賢い方です。そして真面目で真っ直ぐに植物を愛しているのを知っているからです。研究はずっと続けたいと思っておいでなのでしょう?」
「そうだな。大学を卒業しても研究は続けていくだろう。でもそれは名誉が欲しいからじゃない。ただ好きだからだ。好きな人のそばで、好きな物の研究を好きな様にしたい、それだけだ」
ひときわ大きくドクンと心臓が鳴った。彼の視線が真っ直ぐに私の目を見るから、その行動の確信が欲しくなった。
「……好きな、人?」
「好きで大切な婚約者だ」
彼は木と空と太陽を背にしているから陰になっており暗く、はっきりと表情が見える訳ではない。でもあまりの近さと木漏れ日で、言いながら照れて赤くなっているのはどことなく感じた。
「大切にして貰っている自覚はありましたが、好きだとは初めて聞きました」
「初めて言った。やっぱり恥ずかしいものだな」
「私ばかりが貴方を好きなのだと思っていました」
私の言葉に婚約者はピクッと体を強張らせ、口をきゅっと結んだ。私の告白に反応してだろう。
告白とはこんなにも緊張するものだろうか。彼の気持ちに返したくて言ったものの、顔が沸騰しそうな程に熱を帯びていた。
「十年前君と婚約したばかりの頃、照れくささと緊張で気の利いた話が何も出来ず、君の隣で逃げる様に植物図鑑を眺めていた。でも君は俺とコミュニケーションを取ろうと大して興味も無いのに必死に図鑑に載っている植物について聞いて来たな。視線を合わせて質問に答える俺に安堵して笑い、そしてけっして図鑑を見ている俺に怒った事も文句を言った事も無かった。あの時から俺は君に惚れている」
彼の指が私の唇をゆっくりとなぞった。それは甘い仕草で、唇が震えた。そのまま彼の唇が下りて来た。初めてのキスだった。
唇が離れるとお互いの顔を見るのも恥ずかしくなってしまい、結局また並んで寝転がった。でも彼の手が私の手を握ってくれたので、私は彼の手を握り返した。
彼にお願いをして溺愛して貰い、そして溺愛について考察したら彼の本当の気持ちを知る事が出来た。溺愛して貰うのは婚約を解消する前の思い出作りの為だったのに。無茶なお願いをする私に愛想を尽かして貰えば婚約の解消にも一役買うのではとの考えもあった。
溺愛は小説の様には上手くいかなかった。そもそも小説に書かれた溺愛行為は私が望むものでは無かった。だから私もされたいとは思えなかったし、彼にして貰ってもときめかずに困惑するだけだった。でも確かに今日一日彼にときめいた瞬間があった。彼が私を大切に想ってくれているのを感じた。私に合った溺愛の行為や行動、そして言葉があると言う事だろう。その好みは彼とより似ている気がするし、それが嬉しく思う。きっと恥ずかしさとキュンは紙一重なのかもしれない。彼とのキスや手を繋ぐのは恥ずかしかったけれど、胸がぎゅっと締め付けられるようにキュンとして小説を読むだけでは無かった幸せを感じたから。
私には婚約者がいる。溺愛について一緒になって考えてくれる、自慢の優しい婚約者だ。この日から彼は私に愛を伝えてくれる様になった。それは私にとっては充分な愛情表現で、この想いの温かさを溺愛だと感じている。
私はその婚約者と二年後に結婚した。
END
お読みくださりありがとうございました。
知香