家庭内別居? いいえ、リモート結婚です!
「嫌よ! 私、やっぱり結婚なんてできないわ!」
「ワガママを言うんじゃない、ナターシャ!」
研究室にて、私はお父様と言い争っていた。
「もう婚姻宣誓書も出してあるんだ。そして、後数時間もしない内に花婿一行がうちに来る。今さらなかったことにできるか」
「でも、でも……!」
「いいから支度をしなさい。風呂に入って着替えて……やることは山のようにあるんだぞ。お前は我が家の跡取り娘なんだ。しっかりせんか」
私は唇を噛む。胃がしくしくと痛むのを感じた。
この結婚が決まったのは、半年ほど前のことだ。
――お宅のお嬢さんに、うちの次男はいかが?
そんな風に同格の貴族から持ちかけられたお父様は、あっさりと承諾してしまったらしい。
けれど、私としてはたまったものではなかった。
「うう……。何でこんなことに……。知らない人と会わなきゃならないなんて、気が変になりそうだわ……」
「……結婚すればお前の性格も変わるかと思ったが、そう上手くはいかないか」
お父様がため息を吐いて、私の研究室を見渡した。
「育て方を間違えたな。一人娘だからと甘やかして、魔法の研究に打ち込むあまり社交界どころか部屋の外にも出なくとも文句を言わず……。その結果、お前をこんなにも人見知りかつ引きこもりにさせてしまった」
お父様がハンカチで目元を拭う。流石に申し訳なくなって、私は「不出来な娘でごめんなさい……」と謝った。
「それなら、私たちと一緒に花婿を出迎えてくれるな?」
「それとこれとは話が別よ!」
「ナターシャ!」
「嫌ぁー!」
「何してるの、二人とも」
お母様だ。
柱にしがみついて頑なに部屋から出ようとしない私と、そんな娘をどうにか外に出そうと引っ張る夫を見て目を丸くしている。
「ナターシャ、侍女たちが待ってるわ。早くおいでなさい」
「無理、無理無理!」
「ナターシャ!」
お父様とお母様の声が重なる。二人とも爆発寸前のようだ。
……ああ、もうごねるのも限界なのね。こうなったら奥の手を使うしかないわ。
「……これ、持って行って」
私は机の引き出しから手鏡を取り出して、お母様に渡した。
「私の発明品よ。この手鏡は、こっちの姿見と繋がってるの」
私は部屋にかかっていた上半身が丸々映るくらいの鏡を指差す。
「その手鏡に向かって、『鏡よ鏡、ナターシャに会わせて』って言ってみて」
お母様が訝しみつつも言う通りにする。すると、部屋の姿見から声がした。
「ナターシャ様、お母様より通信です」
「繋いで」
私の言葉に反応して、姿見の鏡面にお母様の姿が浮かぶ。一方、手鏡には、研究中に汚れてもいいように作業着をまとい、髪を無造作に一つ結びにした女性が……私が映し出されていた。
両親はあんぐりと口を開ける。私はほくそ笑んだ。
「どう? これで私がわざわざ出向く必要はないでしょう? これぞ新しい時代の結婚! 嫁ぎ方改革……婿入り方改革? ……とにかく、魔法技術の勝利よ!」
****
「上手くいったわ」
両親が出て行った後、私はにんまりとして椅子の背もたれに体重を預けた。
最初は二人とも「こんな面会の仕方があるか!」と言っていたが、最終的には折れた。やっぱりお父様もお母様も私には甘い。
「これで私の結婚生活は安泰ね」
花婿さんは屋敷の東棟に住んでもらう予定だ。一方、私の研究室は西棟の地下にある。二つの建物は離れているし、彼がうっかり私の生活圏に足を踏み入れてしまうことはないだろう。
家庭内別居バンザイ! どうしても用がある時は鏡を使えばいいんだから、結婚していながらも私の静かなお一人様生活は守られる。最高だ。
「ふんふ~ん」
鼻歌を歌いながら、棚から薬草の入った瓶を取り出す。面倒事はこれで終わり。後はいつもと同じように、思う存分魔法の研究をしよう。
……そのつもりだったのに。
数時間後、壁の姿見から声がした。
「ナターシャ様、キリアン様より通信です」
「……へ?」
私は火にかけていたフラスコから目を上げる。
「キリアン? 誰、それ」
「あなたの花婿ですよ」
私は慌てて時計を見た。もう夫の一行が着いていてもおかしくない時刻になっている。
全身から血の気が引くのを感じた。
「いないって言って!」
「わたくしは真実のみを映す鏡。嘘は吐けません」
「この分からず屋!」
私は叫んだ。せっかく一人楽しく実験してたのに、何もかも台無しじゃない! 恨むわよ、キリアン!
「どうするんです? 繋ぎますよ」
「待って待って! キリアンは何の用があって通信してきたの? 『この根暗女が! 引きこもってないで顔を見せろ!』とかいびるつもりじゃ……」
「そんなこと、わたくしが知るわけないでしょう。繋ぎますからね?」
「ストップ! せめて音声だけにしてちょうだい!」
知らない人と直に会うなんて鳥肌が立つ。鏡が「はいはい」と言うと、鏡面が真っ暗になった。
「もしもし?」
鏡から聞こえてきたのは、深みのある低い声だった。セクシーでいかにも落ち着いた男性という感じ。「いじめられるかも」という心配はしなくてもいい……かしら?
でも、そのこととスムーズな応対ができるかは別問題だ。
「は、はじ……はじめまって!」
緊張で声が裏返る。手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながら、私は勇気を振り絞って自己紹介した。
「ナターシャと、申す! よろしく!」
パニックが襲ってきて、自分でも何を言っているのか分からない。でも、鏡面越しのキリアンは意に介さずに「初めまして」と冷静に挨拶してきた。
「私はキリアン。こうして声が聞けて嬉しいよ。君とは式も挙げず、書類手続きで夫婦になっただけだったからね」
「は、はひ!」
「病気はそんなにひどいのかい?」
「え?」
私、健康ですけど? ともう少しで言いそうになった。キリアンは話を先に進める。
「義父上と義母上から聞いたよ。君は重い病で療養中だって。出迎えができなかったこと、気にしなくていいからね。病気なら仕方ない」
……そういうことか。
お父様とお母様は、娘が夫と会おうとしない嘘の理由をでっち上げたんだ。「あの子は極度の人見知りの引きこもりで……」なんて言えなかったから。
なら、私もこれに乗っかっておこう。
「ね、熱が上がってきたわ! グェッホ! グェッホ! ……ウエエッ!」
咳き込むマネをする。キリアンが「大丈夫かい?」と気遣ってくる。
「お見舞いに行こうか?」
「め、面会謝絶よ! あっ、お医者様だわ! 鏡よ鏡、もう切って!」
真っ暗だった鏡面に、再び辺りの光景が映る。
私は心臓をバクバクさせながら「はあぁぁっ!」とお腹の底から息を吐き出した。
「お医者様なんて来ていませんが」
「知ってるわ」
私は鏡に向かってふくれっ面をする。
ああ、緊張した。でも、中々の演技じゃなかった? お陰でキリアンもすっかり嘘を信じ込んでくれた。
「親切な方でしたね。しかも美形です」
「最悪。綺麗な人が相手だと、話す時にいつも以上にドギマギするもの。……彼からの通信がまたあったら、これからも音声だけでお願いね? まあ、もうそんな機会はないと思うけど」
あんな汚い咳をする妻にわざわざ会いたいなんて思うわけがない。大丈夫。私の静かな生活は守られる。
無理に自分を納得させ、実験に戻った。
キリアンが通信してきた理由は、私の病気を心配したからだったと気付いたのは、それからずっと後のことだった。
****
「ナターシャ様、キリアン様より通信です」
「また?」
私は目を見開く。
「まだ午前中なのに、これで三回目じゃない。あの人、暇なの? 今日はガーデンパーティーがあるとか聞いてたけど」
「ナターシャ様は愛されているんですよ」
「バカなこと言わないで」
「わたくしは真実しか申し上げませんよ。お繋ぎしますか?」
「……ええ」
私は手近な本を開いて、その内容を紙にまとめるふりをした。こっちの姿は見えてないんだから、こんな小細工、する必要はないけど。
「一時間ぶりだね、ナターシャ」
「……そうね」
相変わらずいい声だ。体の奥の方がムズムズしてくる。
「さっき面白い話を聞いたから、君にも教えてあげたかったんだ。三年前のちょうど今くらいの時期のことなんだけどね……」
キリアンがうちにやって来てから一週間が経っていた。その間、私はずっと「病気療養中」だ。当然彼とは一度も顔を合わせていない。
その代わりとでも言うかのように、キリアンはしょっちゅう通信を入れてくる。用件は本当に些細なことばかりだ。今回みたいに小耳に挟んだ話をするとか、ちょっと雨が降ってきたとか。
きっと病人を慰めたいんだろう。親切なことだ。でも、一人でいたい私には耐えられない。
……ということもなかった。
キリアンは、私がお喋りが得意でないとすぐに察したらしい。通信を入れてきても一人であれこれ話すだけで、こちらの反応は別に求めて来なかった。
会話をしたがる人は苦手だけど、話したがりは嫌いじゃない。ただ聞いていればいいだけっていうのはすごく気が楽だ。
私は「ふり」ではなく、今度は本当に本の内容を紙に書き写し始めた。ふと、彼のしびれるような美声でこの書物に書いてあることを読んでもらえたら作業も捗るかも、と考えてしまう。
声しか知らないとはいえ、キリアンと面識ができたお陰だろうか。もう「知らない人」じゃなくなった彼に、心を許し始めているのかもしれなかった。
「ねえ、昨日の歌、歌って」
キリアンの話が一段落した後、私は何気ない気持ちでリクエストをする。
「あなたの実家に伝わっているっていう子守歌」
「分かった」
柔らかな声で了承して、キリアンはゆったりとしたメロディーを口ずさむ。
「眠れよ 眠れ 愛しい子
微睡みたたけ 夢の門
潜った先で また遊ぼう
ゆりかご離れて この手を取って
こちらへおいでよ 愛しい子
やっと会えたね 愛しい子」
緩やかな旋律に、私はついウトウトした。昨日は夜通し実験をしていたから、睡眠不足だったんだ。
キリアンなら、私が途中で寝ちゃっても気を悪くしたりしないわよね……。
そんなことを考えていたら、まぶたの裏側にチラチラと踊る赤いものが見える。船を漕いでいた私はうっすらと目を開けた。
その途端、一気に意識が覚醒する。
「ぎゃー!」
寝ぼけた拍子に燭台をうっかり倒してしまったようで、テーブルの一角から火の手が上がっていた。
私は慌ててソファーに敷いてあった毛布を引っ張ってきて、バサバサと振り回して鎮火しようとする。
「ナターシャ!? どうしたんだ!?」
「な、何でも……熱っ!」
幸いにもすぐに火は消えたから、ほっとして表紙が焦げてしまった本を手に取った。
でも、まだ完全には消火できていなかったらしく、指に痛みが走る。思わず本を投げると、それが鏡に当たって鏡面にヒビが入った。
キリアンの声が不鮮明になり、通信が強制的に終了する。……壊しちゃったかしら?
「もう!」
水差しの中に指を突っ込んでいた私は眉根を寄せる。
今度こそきちんと火を消して、散らかってしまった机の上を片付ける。問題は割れてしまった鏡だ。修理に少し時間がかかるかもしれない。
「……その間は、キリアンとの通信はお預けね」
……別にいいけど? 落ち込んでなんかないわよ? 一人ぼっちは最高だもの。今度は鏡もあんなお喋りじゃないように改造しましょう。もっと事務的に。俗っぽさを消すの。
私は鏡の魔法回路を記した図面を棚から取り出す。その他にもいくつか必要な資料を取りそろえ、作業に没頭しようとした時だ。
ドアにいささか乱暴なノックの音がした。
「ナターシャ! ナターシャ!」
キリアンの声だ。予想外の事態に私は固まった。
「ナターシャ! いるんだろう!? ナターシャ!」
「か、鏡よ鏡……」
反射的にそう言ったけど、これは鏡越しの通信ではないと思い至る。
ドア一枚隔てたところにキリアンがいる。
その事実に、私はひどく狼狽えた。
「ナターシャ! 無事なら返事してくれ! 入るぞ!」
大丈夫。カギがかかっているから彼はここには来られない。
と安心したのも束の間、どう考えてもドアを蹴破ろうとしているとしか思えない音が響いてきて、喉の奥から「ひえっ」と短い声が漏れ出た。
蝶番が壊れるのと、私が机の脇にあった大きな箱の中に飛び込むのが同時だった。
「ナターシャ! どこにいるんだ!? 頼むから何か言ってくれ!」
石造りの床に大きな靴音が反響する。
私は蓋を閉めた真っ暗な箱の中で震えていた。
今まで声しか聞いたことがない人がすぐそこにいる。どうすればいいんだろう?
「……ナターシャ?」
しばらく室内をウロウロしていたらしいキリアンが、私が隠れている箱のすぐ傍で立ち止まる気配がした。
どうしてここが分かったの? と思ったけど、服が引っ張られる感覚に、どうやら完全に姿を隠せたわけじゃなかったようだと愕然となる。きっと箱の外に裾か何かがはみ出してしまっているんだろう。
「そこにいるのか、ナターシャ?」
キリアンが箱を開けようとしたから、私は内側から蓋を押さえて全力でそれを阻止した。
「い、いないわ!」
鏡越しには一度も使えなかった居留守を持ち出す。
「ここには誰もいないわ!」
「……じゃあ私は誰と話してるんだ」
「た、宝箱の魔神よ」
「宝箱の魔神? ランプじゃなくて?」
「最近の魔神は宝箱にも住むの! 言っておくけど、こすっても出てこないわよ! 宝箱の魔神は気難しいんだから!」
私は一体何を言っているんだろう。我ながら無茶苦茶な説明に呆れ返ってしまう。
けれどキリアンは「なるほど」と、それ以上ツッコんだことは聞いてこなかった。
「では、魔神殿に少し質問をしてもいいかい? 私の妻は無事かな?」
「ええ、平気よ」
意外な展開にどう反応していいのか迷いつつも答える。てっきり「バカなことを言ってないで出てこい」って叱られるかと思っていたのに。
……いや、キリアンはそんなことは言わないか。
「さっきは何があったんだ? 病気が悪化して倒れてしまったのかと思ったんだが」
「倒れたのは燭台よ。わた……ナターシャは火傷もしなかったわ。全くの健康体だから安心して」
「健康体? 病気じゃないのか?」
「えっ、そ、その……びょ、病気よ! 病気だけど健康なの! ゲホッ、ゲホッ……」
いや、魔神が咳き込んだらおかしいでしょ! もう支離滅裂だ。キリアンは黙り込んでいる。
しばらくしてから「分かった」と聞こえてきた。
「妻に伝言を頼む。また気が向いた時にお喋りに付き合って欲しい、と」
靴音がして、キリアンが立ち去ろうとする気配がする。私は驚いて「待って!」と言った。
「そ、その……『嘘つき!』とか怒らないの? だって私、病気じゃないのよ?」
「妻が健やかなことを喜ばない夫がどこにいるんだ。彼女には感謝してるんだよ。お喋りな男って嫌われがちだからね。でも、ナターシャは私を受け入れてくれた」
「だけど……一度も会ったことがないわ」
「彼女のことなら顔以外はよく知っているよ。少しシャイで聞き上手。すごく頭がよくて発想も柔軟だし、ユニークな鏡までくれた」
「あの鏡、余計なことしか言わないけど」
「でも、私は好きだよ」
キリアンは軽く笑った。
「じゃあ、妻によろしく」
キリアンは再び去ろうとする。私は思わず、もう一度「待ってよ!」と呼びかけた。
「私は……魔神だから、あなたのお願い事を何でも一つだけ叶えてあげてもいいわ。その……本当に何でもいいのよ?」
例えば、「ナターシャに会いたい」とか。そうしたら、ここから出て行けるから。人見知りはきっかけがないと外に出られないのよ!
けれど、優しいキリアンには引きこもりをわざわざ外に出そうなんて考えもつかなかったようだ。「何にもないよ」と返される。
「強いて言うなら……今後は火の取り扱いには注意して欲しいってことくらいかな。ナターシャの悲鳴が聞こえた時は心臓が止まるかと思ったから」
足音が聞こえる。「キリアン?」と話しかけてみたけど、返事はなかった。しばらく迷った末、恐る恐る蓋を開けて這い出してみる。
外には誰もいなかった。
私はがらんとした研究室で立ち竦む。
「キリアン様なら庭にいますよ」
壁際からの声に、私は飛び上がった。鏡が喋っている。
「あなた……壊れたんじゃなかったの?」
「ナターシャ様製なんですから、そんなに柔なわけがないでしょう。通信機能が使えなくなっただけです。わたくしとしては一刻も早い修理を望みますが……。ナターシャ様は他に最優先でやるべきことがあるのではないかと」
指摘され、我に返る。そうだ。そのために私は箱から出てきたんだ。
「キリアンは庭だったわね? ……行ってくるわ」
覚悟を決め、部屋の外に出る。
私はそのまま廊下を駆けた。ほら! 人見知りの引きこもりだってやる時はやるんだから!
でも、野外に出た瞬間に足が止まる。
「え……すごい人……」
木々はガーランドで飾られ、芝生には料理が乗ったテーブルがいくつも設置されている。奥の方には楽団が陣取っていた。
その間を埋め尽くすのは、人、人、人……。どうせ出席なんかしないからとすっかり忘れていた。今日はうちでガーデンパーティーが開かれていたんだ。
こんなにたくさんの人の中からキリアンを見つけないといけないの……? 私は頬を引きつらせる。
正気の沙汰じゃないわ! パーティーだなんて、想像しただけでじんましんが出てくるくらいなのに!
それに私、キリアンの顔も知らないのよ! 分かってるのは彼の声だけ! それなのにどうやって……。
「眠れよ 眠れ 愛しい子」
ふと耳朶を打った深みのある声に、ハッとなった。
「微睡みたたけ 夢の門」
「キリアン……?」
彼が教えてくれた子守歌が、どこからともなく聞こえてくる。私は辺りを見渡した。
どこもかしこも人でいっぱいだ。けれど私の視線はその人波を縫うようにして、一人の男性を捉えた。
「潜った先で また遊ぼう」
おくるみに包まれた赤ちゃんを抱いた青年が、木の下に立っている。肩幅が広くて背が高い。手も大きくて、頼もしそうな印象を受けた。
「ゆりかご離れて この手を取って」
亜麻色の前髪の間から澄んだ瞳が覗いているのが色っぽい。高い頬骨やしっかりした鼻筋も、彼に官能的な魅力を添えるのに一役買っていた。
「こちらへおいでよ 愛しい子」
「やっと会えたね 愛しい子」
私は歌の最後のフレーズを口にした。青年が顔を上げる。
彼は「抱かせてくれてありがとう」と言って、近くにいた女性に赤ちゃんを返した。私の方へと歩み寄ってくる。
「……ナターシャ?」
低く、温かな声で尋ねてくる。
その声色が、私の中に鮮やかにこだまする。そして、ゆっくりと体の内側へと染み込んでいった。
彼はすでに私の一部だ。だから、面と向かって話したって怖くない。
「初めまして、キリアン」
私の言葉に、彼の顔がパッと華やいだ。
私たちは互いから目が離せない。鏡越しにも……それこそ相手の声しか知らなくても恋は生まれるけど、こうして直接会うのはまた別格の素晴らしさがあった。
「魔神殿の言った通り、元気そうだ」
「これからは直接確かめられるわよ。鏡を通してじゃなくて、こうして対面して、ね」
私はキリアンの腕を取った。しなやかな筋肉の感触に目を細め、そこに自分の腕を絡める。こんなことができるのは、直で会うことの特権だ。
「行こうか」
キリアンが穏やかな声で誘う。
「皆に君のことを『大切な妻です』と紹介して回りたいんだ」
爽やかな笑顔で言われる。私が「しなくていいわ!」と絶叫したのは言うまでもない。