ニアリーイコール
喉の渇きを覚え、グレースは小さな咳を何度か落とした。
瞼を閉じていても感じる日の光が恐ろしくて、目を開けない。
とんでもなく体がだるく、指一本動かすのも億劫だ。
このまま眠っていたいのは山々だが、後回しにしている洗濯物がそれを許さない。
いや、家事も大事だが、まずは浴槽に浸かってアルコールを飛ばしたい。
ゆっくりと目を開き、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
途端、グレースは声にならない悲鳴を上げた──隣に男が背中を向けて眠っていることに、気付いたからだ。
どうやら、グレースは彼の服を掴んでいたようで慌てて離すが……背中面がびろびろに伸びている。あとで弁償しよう。
自分の格好は裸ではないが、下着姿で心許ない。
落ち着かないので、クローゼットから部屋着のゆったりしたワンピースを引っ張り出して頭から被る。
考えても分からないし、頭が鈍く痛んで仕方がない。
覚えていないわけではないが、全部を覚えているわけでもなかった。
虫が食ったように穴ぼこの記憶しかない。
昨夜の自分に言ってやりたい。
酒は嗜む程度にしておけ、と。
「もうお酒は飲まない」
溜め息を吐いて、悲壮感いっぱいに呻く声は掠れていた。
「──そう言う奴ほど、なんとやら?」
くくっと笑いを噛み殺す声に、グレースはぎょっとして飛び上がった。
寝ていると思っていた男は、起きていたらしい。
着替え終えたタイミングで声をかけるなんて、趣味が悪い。
「おはよ、グレース」
爽やかな朝に、似つかわしくない妖艶な笑みはやめていただきたい。
「……レオン」
朝日に照らされる銀髪と、琥珀色の瞳を持つ彼は、紛うことなくグレースの幼馴染だった。
すっかり疎遠になっていた幼馴染と、グレースが会ったのは帝都にあるバーだ。
グレースが、自棄酒を呷っている時、偶然隣に座ったのが彼である。
付き合って一か月半の男が、女学校時代の友人と浮気をしたせいでグレースはやさぐれていた。
『昔から大嫌いだった』
友人だと思っていた女に、愉しげに言われた台詞だ。
『浮気される君にも原因があると思うだろ?』
恋人だった浮気男も、グレースに謝るどころか訳の分からないことを言って、開き直った態度を見せた。
グレースはそんな二人に業務的な笑みを向けた。
ここでさめざめと泣いて見せれば、結果は変わったかも知れない。
されど、泣いて縋ってしがみついてまでして傍にいたい男だろうか、とグレースの中の冷静な自分が問うたのだ──否、そんな男はくれてやれ。
『私のお古で良かったら、差し上げるわ。お幸せにね』
拍手喝采!
なかなかに格好良い台詞だったと自分でも思う。
そのことを武勇伝の如くレオンに語った。
そして、グレースから酒を取り上げ、水を寄越しながら彼が言った言葉と表情も、朧げだが覚えている。
『俺が、慰めてあげよっか?』
その言葉に、グレースは頷いた。
「朝から、よくそんなに食べられるね」
グレースはレモン水をちびちび飲みながら、朝食を食べるレオンを見る。
普段から朝食を摂らないグレースとは違い、レオンは食欲旺盛だ。
簡単に作ったサンドイッチをばくばく食べている。
「腹減ってんだよ。昨日は全然食えなかったし。なあ、これ全部食っていい?」
「うん」
食べ方は豪快でも、決して下品ではない。
彼は朝食がよほど美味しいのか、頭痛が収まらない自分と違って、すこぶる機嫌が良い。
黙っていると近寄りがたい雰囲気の美形な男だが、笑うと目が垂れて幼く見えるから不思議だ。
後頭部に前衛的な寝癖があるレオンは、実は肩書が凄い。
彼は、男も女も憧れる、軍の最高峰である帝国陸軍第一支部の第一番隊に所属している。
「グレースは、昨日のことどこまで覚えてる?」
すっかり油断していたところで、この質問である。
「ごめんなさい」
グレースはとりあえず謝った。叶うなら有耶無耶にしたい。
ところが、レオンは誤魔化されてくれなかった。
「俺は、覚えてるかって聞いたんだけど?」
圧が凄い。
「……隣で、寝ただけでしょ」
グレースの『寝た』は健全な意味の『寝た』である。
二十三歳の女と、二十四歳の男が同じベッドで『寝た』だけであってやましいことはこれっぽちもない。
何なら、二十年前も隣で『寝た』。
「ああ、一晩中、一緒に、寝たな」
一言一言、区切って親指に着いたソースを舐めるレオンの目がギラリと光った気がして、グレースは落ち着かない気持ちになる。
そんな目で見ないでほしい。
レオンの言う『寝た』は、別の意味に聞こえる。
ちなみに、別の意味の記憶はグレースには無い。
「ごめん」
「だから謝罪は要らないって。それに役得だったし」
「ヤクトク?」
「うん。可愛かったよ、お前の寝顔」
「……うわぁ」
「何だよ、その声」
会わないうちに、こんな女にもリップサービスが言える男になっていたことに驚いている声である。
そもそも、グレースはこの男のせいで、思春期時代に拗れまくった為、恋愛がど下手になった。
『我が儘で自分のこと可愛いって勘違いしてる痛い奴だよ。幼馴染だか何だか知らないけど、付き纏われて迷惑してるんだ』
九年前──十四の頃に、レオンが友人に言っていたのを、計らずも聞いた日から、彼とは疎遠になった。
初恋だった。
故に、盛大に拗らせまくっているグレースは、二十三歳になるまで恋愛なんて全くしてこなかった。
別れた浮気男のことは、溺れる程好きではなかったが、嫌いでもなかったし、押しに押されて断り切れないのもあってお付き合いした。
ゼロから育てていく愛もあると思ったのだ……が、その結果は散々であったので、自分は恋愛に縁がないと思い知っているところである。
そこに丁度良く現れたのが、拗れた原因の男なのだから、グレースはとことんロマンスの神様の玩具だ。
「少しも覚えてないのか?」
「……うん」
「へえ」
心なしか、レオンが怒っているように見えて肝が冷える。
彼を怒らせるようなことをしたのだろうか。
もしかして──
嫌がるレオンに、良いではないか~と迫る自分を想像して、グレースは青ざめる。
「──私、レオンのこと襲っちゃった?」
「あのさあ、俺、男なんだけど」
「見たら分かるよ」
レオンは端正な顔立ちをしているが女顔ではないし、身長も高く体格も良い。
遠目薄目で見たって、絶対に女には見えない。
「……だったら逆だろ? 襲う側は俺で、襲われる側がお前」
「そんなことある訳ないでしょ?」
おかしなことを言う男だ。
今をときめく第一支部の軍人様が、自分ごときに食指は動かないだろうに。
「何でだ」
「レオンは私なんて相手にしないもん」
「……お前マジで言ってんの?」
「?」
「馬鹿なのか」
「ねえ、この話もうやめない? 何も無かったんだからいいでしょ」
レオンの言葉に、ムッとして言うと、彼は不貞腐れたようにカップに残っている冷えたコーヒーを一気に飲んだ。
「お前のこと抱いた、って言ったらどうする?」
がちゃん、とカップとソーサーが打つかる音が部屋に響く。
「え」
グレースとレオンの母親同士は大親友で、加えて、父親同士は上司と部下の関係だ。
自分達に何かあったら、割と大事なのではないだろうか?
──この間、三秒。
「嘘!? ……本当に?」
驚愕しているグレースに、レオンが怪訝な顔を向ける。
なんでそんな顔をするのか分からないでいると、今度はわざとらしく溜め息を吐かれた。
「……いちいち聞くな。何となく感覚で分かるだろ」
「ナントナク、カンカクデ、ワカル?」
そんなこと言われても未経験なグレースには分からない。
グレースは派手な見た目に反して、男という生物に免疫も耐性も殆どない。
元恋人ともキス止まりだ。それも数回。
「グレース……まさか、」
「しーっ! ちょっと黙ってて」
レオンの言葉を遮って、自分にある精一杯の知識を寄せ集めて考える。
痛みがあるのは二日酔いの頭だけだし、シーツや身に着けている下着に痕跡はなかった。
つまり、彼とはやっぱり何もなかったのだ。
「なるほど」
グレースが納得して呟くと、今度はレオンが驚いた顔をしてこっちを見ていた。
どんな表情でも、腹立つくらい顔が良い。
「お前……処、」
「ストップ、言わないで!」
「マジか」
「悪い?」
「いや、悪かないけど」
──嘘吐き。
声には出さなかったがそう思った。
恋人だった男には面倒な顔をされたし、グレースも怖くてなかなか踏み出せなくて、その結果浮気された。
「そういう野郎だけじゃない」
絶対、嘘だ。
男は『慣れた女』が好きに決まっている。
「おい、俺は違うからな?」
何も言ってない。
「目が言ってんだよ!」
レオンの空になったカップに気付いてお湯を沸かす為に席を立つ。
「なあ、って」
なぜか着いてきて、何やら言っているが無視をしてやった。
「……降参です、喋ってください」
「ふふっ」
何回か同じやり取りを繰り返した後、遂には必死なレオンが面白くて笑ってしまった。
「機嫌直った?」
「直ってないよ~」
「馬鹿にした訳じゃない」
「……今、機嫌直った」
グレースが笑窪を作ると、レオンも口角を上げた。
お互いに近況や家族のことを話していると、急にレオンが居住まいを正した。
緊張した様子に、グレースが首を傾げる。
「どうしたの?」
「……なんで、グレースは俺に会いに来なくなったんだ?」
当時、軍学校で寮生活をしていたレオンは、長期休暇には実家に帰ってきていた。
グレースはあのことが起こるまでずっと彼の帰省の度に遊びに行っていたし、手紙も書いていた。
それがぱったりなくなれば、迷惑な奴でも気になったというところだろうか。
「大した理由じゃないよ」
「聞きたい」
「うーん……」
考えながら、言ってもいいのかも知れないと思った。
お互いに大人だし、これを機に良好な幼馴染の関係に戻りたい。
「実は、失恋して」
「失恋?」
「うん。私も多感な時期だったし……ちょっと拗らせちゃって、落ち込んで殻に籠ってたと言うか」
グレースは笑ったが、レオンは笑わなかった。というか、渋い顔をしている。
「失恋した男って誰?」
「……誰でもいいでしょ」
名前は言うつもりはなかったので、グレースは目が泳いだ。
「俺の知ってる奴なんだな?」
「いやいや、知らない。全然、レオンの知らない人っ」
「まさか、ブレットじゃ……!」
ブレットも、レオンと同様にグレースの幼馴染だ。つまり、レオンの幼馴染でもある。
記憶にある二人は、仲が良いのか悪いのかよく分からない関係性で、取り扱いが非常に難しかったが……今もそうなのだろうか。
「ブレットじゃないよ、あり得ないこと言うのやめて」
「じゃあ誰だ? どうせ九年前の話だ、時効だろ?」
「……う~ん」
「やっぱり、ブレットなのか」
「ああ、もうっ! 聞いても絶対引かないでよ?」
「分かった」
「レオンだよ!」
幼馴染の言葉に、レオンは首を左右に振った。
だって、レオンにはグレースを振った記憶はない。
「お前、俺のこと好きだったのか?」
「……」
「勝手に失恋すんな」
「レオンは覚えてないかも知れないけど──」
混乱しているレオンが聞いたのは、思いも寄らないことだった。
『我が儘で自分のこと可愛いって勘違いしてる痛い奴だよ。幼馴染だか何だか知らないけど、付き纏われて迷惑してるんだ』
言った、確かに言った。
十五歳──父の軍関係のパーティで言ったことだ。
覚えている。
軍学校の同期の一人に、グレースを紹介しろとしつこくせがまれて、彼女を悪し様に言った。
可愛いグレースを、こんな野郎にくれてやるもんかという気持ちだった。
あの言葉は、本心ではなかった。
「俺も、グレースのこと好きだったんだ。だから、牽制のつもりで……聞かれてると思わなくて……ごめん」
「そっか、私達、両想いだったんだね」
両想い──大人の女が言う言葉にしては随分幼いが、彼女は見た目に反してとても純粋だし、そこが魅力である。
はにかむ笑顔が、最高に可愛い。
昨夜、バーで会ったのが運命のようだ──ど真ん中のイイオンナがいるなと思ったら、グレースだった。
酔っ払いのグレースは隙だらけで、はっきり言って簡単に食えそうだった。
しかし、手は出さなかった。
なぜって、そんなの決まっている。
グレースは自分のことを、拗らせていたと言ったが、レオンだって初恋を拗らせていた。
どんな女とも長続きしなかったのは、グレースがいつも頭の片隅にいたせいだ。
「俺達、元に戻れない?」
緊張して言えば、嬉しそうに笑うグレースにレオンは幸せを噛み締めた──彼女の次の言葉を聞くまでは。
「うん、ずっと仲良しの幼馴染でいようね」
「…………んん?」
帝国語は難しい。
レオンの「元に戻れない?」の『元』の意味は、言わずもがな『両想いの頃』である。
しかし、グレースの認識している『元』の意味は、『仲が良かった幼馴染時代』を指す。
同じであって、同じではない。
この齟齬は、何とかしなければならない。
理由はお察しの通りである。
レオンは健全ではない意味で彼女と『寝たい』。
昨夜の自分は、本当に、本当に、偉かったと思う。
目の前で好きな女に服を脱がれて、抱きつかれて、甘えられても何もしなかったのだ。
グレースには死んでも言わないが、それはもう大変だった。
理性という理性をかき集めて、総動員して、不眠不休で働かせて、我慢した。
レオンでなかったら、グレースは無事ではなかった。
しかも彼女は処女だったので、本当に、本当に、手を出さなくて良かったと思う。
これは決して面倒だからではなく、酔って覚えのない一夜にならなくて良かったという意味だ。
「グレース」
「なあに?」
「俺は、幼馴染に戻ろうって言ったんじゃない」
「……え」
グレースの傷付いた顔にも、レオンは怯まなかった。
言わなければならない。
「『あの頃の気持ちに戻ろう』って意味で言ったんだ。俺はグレースが好きだ」
「……レオン、待って」
「お前も俺のこと好きだったんだろ?」
ならば問題はないはずではないか。
それなのに──
「ごめん、さすがに気持ちの整理はついてる。……だから、幼馴染でいよう?」
女に振られたことのなかったレオンは、人生で初めて振られた。
レオンが、がっくり項垂れると後ろで跳ねていた寝癖がグレースの前に現れた。
「……何してんの、お前」
ぴょんと跳ねた寝癖を摘んで遊んでいたグレースの腕が掴まれる。
「レオンの寝癖が凄くって、つい」
「起きて確認した時は寝癖なんてなかった」
「残念でした、後ろの方凄いことになってる」
「そういうのは、もっと早く言え……」
「大丈夫、寝癖があってもレオンは格好良い」
「……グレース、お前さあ……そういうとこだよ」
「そういう、って?」
「なあ、俺のこともう絶対好きになれない? 可能性ゼロ?」
どうやら先程の告白は夢でも幻聴でもなく、現実だったようだ。
「だって──」
「『だって』?」
グレースはレオンが好きだった。
けれども、それはもう過去の話だ。
それに、拗れた期間が長過ぎたグレースは恋愛に淡白な性格になってしまっている。
元恋人の抱擁も、キスも、恋愛小説のような高揚感は全然なかった。
ほんの少しだがガツガツした感じに、恐怖感があったくらいだ。
「──私、恋愛に向いてないと思う」
「何それ」
「触られてもドキドキしなかったもん」
「……じゃあ、試しに俺も触ってもいい? グレースが『ドキドキしない』なら諦めるから」
「さ、触る?」
やはりレオンが言うと、なぜか含みを感じてしまう。
「とりあえず、親愛の抱擁をしよう」
にっこり両手を広げられたグレースは固まった。
「トリアエズ、シンアイノ、ハグ?」
抱擁なんて十年前ですら、してなかったのに?
「10、9、8」
「カウント早っ!」
「2、1、0、はい、時間切れ」
「ひゃあっ」
「……色気ない声」
振り上げた手は掴まれ、抱き込まれた。
耳に、物凄い早い鼓動がダイレクトに伝わって、それはグレースに伝染した。
あれ、おかしい──元恋人と違う。
口から心臓が出そうだ。それに、全然怖くない。
「ドキドキしない? 俺は、結構してるんだけど……」
「し、しないよ、離して!」
咄嗟に出た言葉は、本音ではなかった。
「少しはするだろ!?」
「しないってば!!」
やはり、素直に頷けない──ここで頷けるくらいなら、きっとグレースは拗れてはいなかった。
「……そうか」
レオンは暗い声でそう言うとグレースの肩を掴んで離れた。
「悪かったな」
「あ……うん」
グレースは、離れられることを不満に思った。
──不満? なぜ?
さっきは彼に離してほしいと言ったのに、今は離れてほしくない。
頭の中いっぱいに現れるクエスチョンに、五月蝿い心臓の音が思考させてくれない。
混乱したままでいると、グレースの顔を見ていたレオンが笑い声を上げた。
さっきの落ち込んだ声と憂い顔は、一体何だったのだろう。レオンは、悲哀を完全に消し、今は喜色満面である。
「レオン?」
次の瞬間、グレースはレオンに引き寄せられ、彼の少しかさついた唇に自分のそれを軽く食まれた。
二秒にも満たない接触時間。
グレースは、またもや嫌悪を感じなかった。
いや、むしろ──
「グレース」
「……何?」
「その顔、俺以外の前ですんなよ?」
赤面しているレオンに、グレースも顔を真っ赤に染めてテーブルに突っ伏した。
「レオンこそ、そんな顔で他の子見ないでよね!」
──この日、二人は幼馴染兼、恋人になった。
尚、しばらくの間はグレースの強い希望により『健全なお付き合い』の運びとなった。
【完】
The eyes have one language everywhere.