十二の鐘が鳴る前の9
風化した街を水桶を持って一人歩く者の姿があった。
倒壊した家屋、陥没して高低差の生まれた路面、瓦礫の山を自然な足取りで越えていく様はその者にとってその光景が当たり前であることを示していた。
強い日差しから身を守るための厚手の外套は四肢に合わせてそれぞれの尾錠が締められ念入りに固定されている。
それでも周囲には僅かに身体から離れている布の端が大きな音を立ててはためくほどの暴風が吹き荒れていた。
他には誰もいない。
動物や虫が横切る事さえもない孤独な世界だった。
滅びた文明でただ一人。
図らずも記憶の守り人としての使命を担うことになったその者は建物に入っていった。
壁は崩れているが骨組みがしっかりとしていて在りし日の形を保っているそこはかつての立派な議事堂だった。
修繕を諦めたのか倒れたままになっている扉の上を通り玄関口である大広間に入ると中は吹き込んだ風によってなにもかもが滅茶苦茶になっており外観よりも酷い有様となっていた。
だが運よく吹き溜まりになった場所の扉は未だ開閉でき、その先は住めそうな廃墟となっていた。
そこまで来ると男は頭を覆っていた布の塊を被り物のように取った。
小柄な体格と一切素肌を見せない服装から一見すると子供のようにも見えたが男はそこそこ齢のいった中年だった。
青白い肌にぼうぼうの髭、茶色の髪は無造作に刈り込まれており、無駄肉のない頬は笑ったことがないのか口角と共に下がっていて全体的に無骨な雰囲気を漂わせていた。
中年は被り物を扉の傍に打ち付けた杭にかけると代わりに壁際に積んである砕いた建材を手にして部屋の中央に設けた石かまどにくべて火をつけ水桶の水を鍋に移しておいた。
部屋の中で焚き火をするなど火事にも繋がりそうな恐ろしいことだが外では火は使えないし火の粉がはねても良いように石かまどの下には土を撒いているので安心だった。
水は無数にある廃墟に自作した造水機からかき集めてきたものだ。
屋内外の温度差で生じる結露を溜める装置は貴重な水源となっている。
それを煮沸消毒し一日の飲み水を確保するのが男にとって文字通りの日常茶飯事だ。
火が熾火になるまでは時間がかかるので男は換気代わりに奥へと続く別の扉を開け放つとそのまま窓のない中廊下を通って突き当たりの絢爛な扉をくぐっていった。
高い天井の広がるその空間は審議室だ。
階段状の議席が奥に向かって扇形に並び議長席の後ろには国旗をあしらった大きな垂れ幕が下がっている。
王冠を授ける想像生物――国旗はロデスティニアで用いられているそれだった。
高座となっている演壇の下の机には束ねた長髪を丸くまとめた女性の首があった。
鼻筋が通り切れ長の目をした端正な美貌の生首は土気色になることなく生者と同じ血色で瞼を閉ざしていた。
よく見ると首は転がらないように穴を開けた箱の上に置かれており断面は大小さまざまな管で繋がれている。
その内の一本を辿った先にある機械は机の前の足元に置かれており、男は蓋を開けて中の紐を何度か引っ張った。
動力装置だったそれは紐を強く引っ張ることで回転し小さな破裂音を鳴らしながら起動する。
すると生首の閉じられた瞼が何度か痙攣してすっと開かれた。
男はそれを確認すると次にもう一本の管を別の機械に繋げた。
肺がなければ声帯を震わせることが出来ないので男が繋げた機械は圧縮した空気を送る肺の代用品だった。
「具合はどうだ、書記長」
『声紋認証完了。登録者情報一致。おはようございます、マリス・タッカー。本日はどのような要件ですか?』
「また町の一部が落ちた。このままそれぞれの穴が拡がり続ければまだ大丈夫な区画も道連れにするかもしれない」
『穴。区画。少々お待ちください。……環境設備に関する請願、陳情ですね。手続きはお済みですか?』
「そうじゃない。穴を見に行った時だった。大きな力を感じた。きっと、あれは地上に隠した魔導人形というやつに違いない。カルネ、この意味が分かるか? とうとう……お前の身体が手に入るぞ!」
『マリス・タッカー、他の方の迷惑になりますので堂内ではお静かにお願いします』
「…………」
『本日はどのような要件でしょうか』
「……お前の喜ぶ顔が、見たかった。だが……やはり心を手に入れるまでは無駄みたいだな。いいさ、もう少しの辛抱だ。この日が来ることを夢見て船も受け継がれてきた。ようやく……ようやくロデスティニアへ行く危険を冒してもいい時が来たってわけだ」
『警告。マリス・タッカー。今の発言は市民憲章に反します。一時休戦の条約は絶対です』
「不快感を示す表情は出来るのにな。了解、発言を撤回する。これでいいだろう?」
『承知しました。それでは、本日はどのような要件ですか?』
彼女は往々にして穏やかな笑みを浮かべているが男が見たいのは心からの笑顔だった。
移動の出来ない不自由さだけでなく表情も不自由なのは彼女に自分のように心がないからだと男は信じていた。
精隷石を動力にして動く彼女の肉体は同じく精隷石を動力する人形の身体で代替できるかもしれない。
その仮説を祖父から父、父から自分へと受け継いできた男は魔導の力を感じたことを千載一遇の機会と捉えて決意していた。
「要件はない」
『そうですか。では今日も良い一日を』
足元の動力を止めると書記長は再び目を閉ざした。
機材を片付けた男は部屋に戻り焚き火に鍋をかけた。
男が女に抱いている感情は恋愛や性的欲求ではない。
物心ついた時から親しかおらず、それもとうの昔に独りとなった身は純粋に最後の同輩を想う献身に満ちていた。
このままここにいてもいずれ知らぬうちに開いた穴に落ち底を覆う靄状の魔力の塊に飲まれて死ぬかもしれない。
その前に寿命が尽きるのが先か。
何の確証もないならそれで良かったが今は可能性にかける意義がある。
滅びの時が来る前に彼女に心からの笑顔を。
支柱を通らずに下へ行くことが出来るらしい船なる乗り物を操縦するのはこれが初めてだった。
今日は整備と動作確認を入念にし、出発は明日にしよう。
何もかも未知数だったが恐れはない。
最後のセレスティニア人マリス・タッカーは杯に移した白湯を一口、炭火を見つめながらゆっくりと口に含んだ。




