十二の鐘が鳴る前の4
厳かな老人である。
背筋の伸びた長身に気品漂う面長の容貌、丸められた頭部には御神の光明さえ見えた。
翁社護、それはアシュバルの指導者の名だ。
皺の深く刻まれた顔の大きな刺青はネイのそれとは少し違うがあれが本当の咎の印なのだろう。
アシュバルは主権を限定されているので正しく元首ではないが、しかし実質的に君臨するその老人は確かに長としての気風を纏っていた。
その男が一体、何故この場所にいるのか。
そういえばあの男は官憲のことをイカルと呼んでいた気がする。
シュリの中で点と点が繋がった。
少し前、斬り損じた際に官憲が「無意識に使ってしまった」と言っていたのは魔法のことだったのか。
知っている魔力を感じればアシュバルの当主は縮地法という魔法で何処へでも瞬時に移動することが出来るとネイは言っていた。
この場所には老人に縁のある魔力と言えばシュリの持つネイの義眼くらいなものだが気脈を揺さぶるほどの力は発動していないはずなのでその事からも官憲の言葉に信憑性が増す。
つまり今まで自分たちが逃げ続けていた相手は最も会いたかった存在だったということか。
正体が分かったことによりシュリの脳内は疑問で溢れかえった。
何故イカルはネイに協力しようとせず、あろうことか刺客を差し向けたのか。
直接本人が来なかったのは万が一にもイカルであることを気取られないためだろうが何故そんな事をしたのかシェザードの推察を聞いていなかったシュリには分からない。
だからこそ無性に悲しさが込み上げ、シュリは状況も顧みずに官憲に歯を見せた。
「お、お前がイカル、だったのか。何故だ、お前はネイが何者か分かってたはずだろ? ネイの光画を見て顔の――」
「話なら後で聞いてやるから目の前に集中しろ」
「ぐっ……な、なんなんだよ、あいつは!」
「翁社護だと言っただろう。お前たちがあの娘を引き渡そうとしていた男だ。だが代変わりしたらしいな。現化の紫衣を着てはいるが……俺の知っている翁社護じゃない」
「どういう事?」
「そのままの意味だ。奴の顔には覚えがある。先代の傍仕えをしていた男で……認知されない子供を作る計画のために屋敷を提供していた男だ」
子供を使った計画。
それを聞いてシュリは里の大人たちが怒っていたのを思い出した。
大人たちは、もしもユグナの里にあの男が来るのであれば容赦はしない、未来ある子供を何だと思っているのだと口々に言っていた。
ネイは使命を頂き誇らしいことだと言っていたがシュリは今になってようやく違和感を覚えたのだった。
凍傷にまみれ瀕死の状態で見つかった少女の顔が年寄りにしては肌艶の良い笑顔と重なり、そこへ再び大人たちの言葉が再生される。
それが何故か無性にシュリの臓腑を煮えたぎらせた。
壁に打ち付けられて朦朧としつつも斧を支えに立ち上がる。
隣ではイカルも肩の傷を抑えながらなんとか立ち上がっていた。
「おお、おお。覚えておったか。そなたと再び巡り会えたこと、嬉しく思うぞ。そうだ、そなたは我の屋敷で育った。あの時の童がなんと、こんなにも大きくなったものだ」
「邂逅を喜んだつもりはない」
「して、我らが殿は何処に? 何処ぞ。……ふむ、そこなるは精隷石を用いた甲冑か。話に聞いたことがある。現世のもののみならず魔法をも断ち切る厄介な代物よの。ふむ、そこなるは亜人か。美しい面をしておるが実に汚らわしい、畜生と目合うた法外者の葉末か。ふむ……ほほう、そしてそこなるが魔導人形であるか。確かに、恐ろしい魔力をしておる。なるほど、この国の頭に浮かびし天盤を外すことも容易いだろうて。良きかな。いずれかに使えそうよの。……して、何処に主は御座しある」
「…………」
「鵤? 翁社護が聞いておる。何故答えぬか?」
「ふっ……こうなってしまったからには……いいだろう、教えてやる。王家の末裔はもういない! とうの昔に途絶えていたのさ。残念だったな。もうお前らが縋れるものは何処にもいないぞ!」
「ほう」
「嘘だと思うか? なら探してみるがいい。絶対に見つからないだろうからな!」
「ほう、ほう……ほう。それは口惜しきことだ。それだけが我らの希望であったというに」
「そうだろう。……なんだその顔は。もっと、残念そうな顔をしたらどうだ」
「いや、それならばそうで構わぬよ」
「なんだと?」
「ふむ? なんじゃ、我がもっと落胆すると思うたか。ふむ、だから言い出せず、ずっと隠れておったのか。はははは、まるで童ではないか。愛い奴め。心配するでないわ。お主の努力は無駄にはすまい。代わりのもの、しっかと受け取ろうぞ」
「代わりだと? なんの話だ……」
「照れるな、照れるな。そこな魔導人形を我らが主とすればよいのだ。端からどうせ傀儡に過ぎん」
「な!?」
「馬鹿な! いくら魔力を見ることが出来る者がいないとはいえ、誰が信じる!」
「魔法を使えば良い。空の国を落とすか、ははは……おかげで忌まわしき諸国は津波の底に沈もうて。一石二鳥とはこの事よ。其方の機転の成せた業じゃ。まっこと大義である」
「馬鹿な……世界中の人間を皆殺しにして、それで世界の覇者を気取ろうというのか? なんて……なんて愚かなんだ!」
「そろそろ。口の聞き方に気を付けよ。童と思うて甘くみておるのだぞ。そのような不孝者は連れて帰ってやらぬ。良いのか? うん?」
「ふ……ははは……はははは! まだそんな事を言っているのか。俺は……俺はルアド・マーガスだ。ロデスティニア人だ!」
突然、官憲が両手を前に出すと周囲の壁の隙間から植物の根が躍り出て老人目掛けて襲い掛かった。
老人の笑みが消え瞬く間に根に絡み取られてゆく。
一斉攻撃の衝撃は凄まじくせっかく立ち上がったシュリが再び尻餅をついてしまう程だった。
見れば最大出力だったのか官憲の目尻には青筋が浮かび上がり鼻からは血が垂れていた。
「な、なにしてるんだ!」
「ユグナ! 手を貸せ! 今、奴を拘束している! 今のうちに奴を斬るんだ! 奴は思念体、まだこの地の魔力の全てを把握しきれていない! 縮地法で本体が来てしまう前に! 奴を倒し、術式で気脈の構成を変えて二度とこの地を探れないようにするぞ!」
「な、なんで僕がお前に! お前はネイの仇だ……!」
「ほほう……ははは……なるほど、なるほど。悪戯が過ぎるのう。これは面白うない。面白うないぞ――」
『――この、不孝者めがぁっ!』
根が弾き飛ばされるとそこには視界いっぱいの巨大な老人の頭部があった。
魔導の核を中心に魔力が渦を巻き、具現化した憤激の言葉が蚯蚓のように口から溢れ出ては耳や黒く開いた眼窩に戻り、再び口から溢れ出る。
額が割れるとそこには重なり合った二つの眼球が隔てる境もなく並び灼熱を帯びて二人を見据えた。
先ほどまでの気品ある姿とはまるで変り、その姿の醜悪さは直視を避けたいほどであった。
「あ、あれが翁社護……?」
「格下に舐められて頭に来たんだろう。なんて姿だ……。思念体はその者の正体を現す。あんな姿を内包している奴に、お前はまだ躊躇しているのか。いい加減にしてくれ。奴は……あの女の事に触れもしなかっただろう! 一人一人が何者なのか分析したにも関わらずだ。それが答えだ。いいか、奴らは目的さえ叶えば手段がどうなっても関係ない。そこに親愛の情なんかない、虫みたいな奴らなんだ! 俺を信じなくていい、奴を信じるな! 自分を信じろ! ここでみすみすあの娘を手中に取られてみろ、あの娘が奴らの洗脳に耐えられると思うか!?」
リオンがアシュバルに渡ってしまったら。
アシュバルの偉大なる王家の末裔だと洗脳され、その証拠を民衆に示すために魔法が使われてしまったら。
ロデスティニアから一番遠いアシュバルならもしかしたらセレスティニア墜落の被害は免れるかもしれない。
しかしこの国は勿論、世界の殆どが滅亡してしまうだろう。
はたしてそれはネイの望みだっただろうか。
彼女はただひたすらに使命を追いかけていたのでもしも生きていたのならそれも仕方のないことだと答えたかもしれない。
だがそれは本心ではないはずだ。
そして、少なくとも友であるリオン、シェザードは望んでいないはずだ。
「マーガス! まだ魔法は使える?」
「…………! もちろんだ。お前に斬られたせいで傷は痛むがな」
「じゃあこれ、お詫び。ネイを預かってて。これならあなたの魔力を増幅出来るから。だから僕を補佐してくれ!」
「……ああ!」
『小賢しいわ! 小童どもが!』
蚯蚓の集合のような魔力の塊が触手のように伸び二人に襲い掛かった。
義眼を握りしめたマーガスが両手を掲げ下に引き下ろすと次々に天井を破って来た植物の肥大化した根が翁社護の攻撃を追尾して打ち破っていく。
根を踏み越え、飛び、攻撃を躱しながらなんとか接近を試みるシュリだったが近づけば近づくほどに攻撃の渦は深まりなかなか有効な一撃を与えられない。
しかし勝機は見えていた。
翁社護はこの空間の気脈にはまだ属していない。
つまり現状は遠くアシュバルから飛ばして来た思念体の魔力のみで動いている。
怒りに身を任せて徒に魔力を放出するような戦い方をしていれば枯渇は時間の問題なのだ。
そしてその兆しは唐突に現れた。
植物の根に打ち破られた触手を再び出そうとした翁社護の連撃が止まった。
二人はそれを待っていた。
好機を逃すまいと最後の力を振り絞って翁社護を拘束するマーガス。
なんとか足掻き根を粉砕した怪物の眼前で白い風が咆哮を上げた。
兜割り。
渾身の一撃が巨大な頭部を割くと強力な魔力がはじけ飛び吹き荒れた。
断末魔のような叫び声が空間に溢れ、そして消えていく。
残ったのは耳が痛いほどの静寂だった。
「……やっ……たの?」
「ああ……。よくやってくれた。なんとか……追い払えたらしい。だが、まだだ。安心するのは早い。気脈を変えるぞ。そうしないと奴は何度でもやって来る……」
「あれが本体じゃないって……冗談きついよ」
時間にしてはさほどでもなかっただろうが永遠とも感じる戦いを終えて二人は限界だった。
好機の一撃に全てをかけてしまったので本当ならば立てる気力も残っていないがまだやらなければならないことがある。
シュリはマーガスに肩を貸してやると棺を背もたれにしてやり自分もなんとか腰を下ろした。
あれだけの魔法が吹き荒れたというのに石棺も化身装甲をまとった友の亡骸も無事であったことに今更気づいたシュリは少しだけ安堵の笑みをこぼした。
「気脈って、どうやって変えるのさ?」
「土の魔力を使いきる。奴がこの場所の魔力の流れをどれだけ把握出来たか分からんから少し広めにな。以後、この土壌では半永久的に植物は育たんだろうが仕方のないことだ」
「大丈夫なの、それ?」
「もともとこの国は砂礫舞う荒廃地が多いだろう。それは空に浮かぶ精隷石たちが様々な属性の魔力を吸い上げているからだ。それに比べたら小さいもんだ」
『気脈の安定は世の不文律ぞ……。永劫に変えてしまおうとは……なんとおぞましいことを考えよる』
「……え?」
『ははははは、我の魔力が途絶える隙を狙っておるのが見え透いておったわ。案の定、隙を見せてやれば喜んで全力を使い切りおってからに』
「!! くそ……罠だったか……――」
地面の石畳で目が笑ったような気がした。
その瞬間、触手が目掛けて飛んできた。
突き飛ばされるシュリ。
転げながら見たものは触手と石棺に胴を潰され喀血するマーガスの姿だった。




