信じるということ4
「不思議な人だった。僕ですら凍果ての大地には踏み込んだことがないのに、その向こうからやってきたなんていうんだからね。僕は里の外に出たことがなかったから、世界がどれだけ広いのか知らなかったけど、一緒にここまで来ただけでも大冒険だったから、きっと想像できないくらい大変な思いをしたんだと思う。でもさ、そんな大変な思いをしただろうにさ、ずっとあんな感じだったんだよ。笑って、ふざけたことを言って、楽しそうなんだ。でも……時々空っぽみたいな目をしててさ、僕はそれがすごく悲しかった。上手く表現できないけど、こう……すごく悲しかったんだ」
父さんと一緒に里に降ろしてからネイは暫く絶対安静だった。
その時は気づかなかったけどすごい凍傷でさ、目の傷も壊死しかけてて、大手術が必要だったんだ。
でも僕たちの里にはすごくよく効く薬草があったし、穴の中はとても温かくてそれ自体が療養の効果があってさ、すぐに良くなっていったよ。
最初の一週間くらいは面会も出来なかったけどその後は毎日見に行ったよね、僕が見つけたんだから、そりゃあ気になるもの。
見に行った時のネイは人形みたいでちょっと不安だったけど、二週間も経つと喋ることが出来るようになったみたいで父さんが族長に呼ばれてさ、帰ってきたら僕たちにネイの正体を教えてくれたんだ。
びっくりしたよ、だってアシュバル人なんて聞いたことがなかったんだもの。
夏に外から来る人と交流はしていたけどさ、自分たちはロデスティニア人って言うんですよとか名乗られてないし。
僕はそこで初めて世界にはロデスティニア人だとかアシュバル人だとか、沢山の種類の人間がいることを理解したんだ。
父さんは僕がネイの治療の妨げになるって心配したのかあんまり会いに行くなって言ったけど僕は毎日会いに行ったよ。
アシュバル人とロデスティニア人の見た目の違いが全然わからなかったから毎日質問した。
そうしたらネイはアシュバル人の一部は魔法が使える、なんて言って指から火を出してみせたんだ。
あれには凄く驚いたっけ。
それから一か月くらいだったかな。
僕もネイに色んな事を教えたし、年も近いってこともあってすぐに友達になってた。
そんな時にネイの世話をしてくれていた人がぽろっと言ったんだ。
来た時には濡れた鼠みたいな酷い顔をしていたけど今は本当に可愛らしいわねって。
あの時のネイの顔は今でも忘れられないよ。
あとで教えてくれたんだけど、ネイは族長たちに誘惑の魔法をかけようとしてたんだって。
でもかからなかったのはそれが理由だったんだわとか言っちゃって。
鼠みたいな顔で、がりがりの身体で、誘惑なんてしてもそりゃあ無理だよね、なんて悔しそうにしてた。
凄いよね、そんな事しようとしてたって僕に喋っちゃうんだもん。
僕が皆に言ったら怒られるんじゃないのって言ったらネイってば、君は言わないよ、だって。
まあ、実際言わなかったんだけどね、言ったらもうネイと一緒にいられなくなるって思ったからさ。
そのくらい、一緒にいて楽しくて、気になっちゃってたんだよ。
それを見透かしてるみたいにね、ネイは僕に顔を近づけて、しっかり目を見てきたんだ。
凄くどきどきして、ほんと……もしかしたらこのまま口づけしちゃうんじゃないかなんて馬鹿なこと考えちゃたりしてさ、でもネイは急に残念そうに笑いだしてさ。
やっぱりかからないなあ、とか言って。
僕にも魔法をかけようとしたけど駄目だったって言うんだ。
全然魔法を使われてるなんて分からなかったから、もしかかってたらと思うとぞっとするよね。
仕返ししようとしてさ、もしかしたらもうかかってるのかもって、僕にしては結構頑張ったことを言ってみたよ。
そうしたらネイはなんて返してきたと思う?
じゃあ私のために親とかみんな殺してきてよ、って。
あの時のネイの笑顔は……本当に綺麗だったんだ。
それから元気になったってことでネイは魔法を使って見せたんだ。
皆を地上に呼んでさ、雪原に向かって炎を出して見せた。
ものすごい炎だったよ、シェザたちを助け出す時に出した炎なんてもんじゃない炎だった。
使ったらすぐにまた昏倒しちゃったんだけどさ、父さんたちは事前に話を聞いていたみたいで、それがネイを遣わせた人への合図にもなるらしいって言ってた。
後からネイに聞いたけど魔法っていうのは一つに繋がってるらしくて、大きい力を使うと気脈っていうものに影響を与えるらしいんだ。
ネイの国の偉い人はその影響を感じ取って出処を見る事が出来るんだって。
原理とかは聞いても全く理解できないけど、とりあえずネイは無事に凍果ての大地を越えたって伝えることが出来たらしい。
でもそれは同時に僕たちのお別れの時が来たっていう意味でもあったんだ。
ネイの目的は僕らの里じゃなくてロデスティニアの首都だったからね。
僕が一緒に行くって言ったのは言うまでもないよね。
もうその頃には僕がネイのことをさ……ほら、気になってるって、父さんも分かっててね、それだったら里のみんなで全面的に協力するぞって一緒に行くことを認めてくれたんだ。
二人で行かせるのは心配だから父さんとか他の大人もついてきて来てくれるって言ったんだけどネイは遠慮したよ。
同じような人間が固まって行動してたら目立ちすぎるからってね、確かにその通りだよね。
旅立つときにさ、僕は父さんに謝った。
成人の儀式も済んでないのにこんな勝手なことしてごめんなさいってさ。
そうしたら父さんはもう儀式は済んだって言ってくれたよ。
誰かの為に貫ける意思があるならもう立派な大人だって、必ず目的を果たさせて一緒に帰って来いってさ。
ははは……駄目だったなあ……、出来なかったよ。
もう……ネイはいないんだもんなあ。
……ごめん、ちょっと……ごめんね。
…………。
……だけどネイの意志はまだ生きてるからね。
必ずイカルと合流して、リオンを連れて帰るんだ。
僕らの里でイカルに魔法を使ってもらって、アシュバル人の偉い人に知らせてさ。
偉い人は魔力を見ることが出来て、一度気脈を辿って見た場所に一瞬で移動してくる事が出来るんだってネイは言ってたからね。
だけどその時にやることがある。
アシュバルの偉い人には思い知って貰わないといけないんだ。
父さんも族長も泣きながら怒ってたよ、子供をなんだと思ってるんだって。
なんでずっと不在だった国の象徴なんかのために今いる子供たちの未来を犠牲にする必要があったんだって。
僕は大人が泣くのを初めて見たから衝撃だったけど今ならよく分かるよ。
ネイはたった一人で国の未来を背負って、全く知らない土地で死んでしまった。
これを正当化出来る理由なんかないよ。
あっていい筈がないんだ。
ごめんね、正直に言うよ。
僕はアシュバルの偉い人には全ての感情をぶつけさせてもらうつもりだ。
もしかしたら殺してしまうかもしれない。
たぶんだけど……リオンはアシュバルには行けないね。
君もリオンもこの国を出たいってだけで別にアシュバルに行きたいわけじゃないんだろう?
だったら僕の里で暮らすといいよ。
君たちのことは僕らが守るからさ。
研究とか、シェザの夢は諦めなければならないかもしれないけど、僕らの暮らしも悪くないと思うよ。
……おかしいと思うかい?
僕は自分で自分がおかしいと思うよ、ネイが死んでから余計に色んなことが頭の中に思い浮かぶようになって、それ以外の事が考えられなくなってる。
でも仕方がないよね。
きっと僕はまだ、ネイの魔法にかかっているんだ。
「僕はまだ魔法にかかっている」
思い描いていた未来を断たれ眉間に深い葛藤を刻んでいた少年の目から光るものが流れた。
それはネイが殺されてからシェザードが初めて見るシュリの涙だった。
どんな号泣よりも狂わしい激情が彼の小さな体に抑え込まれていた事を窺わせた一滴。
シェザードはいたたまれなくなり視線を傍らで横になるリオンに移した。
ネイの生涯も、それに己の人生を捧げようとするシュリの決意も、陳腐な生き方をしてきた自分ではかける言葉すらない。
今に至る一連の出来事は自分が自律駆動に命を吹き込んだ時から始まったのかと思っていたが違っていたのだ。
これはネイの、いや二人から端を発した物語だった。
ならば流されるままに流されている自分はいったい何なのだろう。
答えが導き出される事もなくメドネアの星が動き出す。
数十台に連なる駆動四輪が首都を目指す。
明け方に起きるであろう大事件の結末を知る者は誰もいない。
未だ浮かばない朝日の反射をいち早く受け、玉虫色の空が微かな輝きを放ち始めていた。