逃亡8
「これ、なんだかわかる?」
ネイはそう言うと自身の顔面を差した。
彼女の顔の左半分には文字のような刺青が掘られている。
若者が遊び半分で入れるにしては忍耐がいる大きさだが、あまりにも軽率な服装であるためシェザードはただ単に素行が良くないごろつき女のそれだと思っていた。
しかしその印は分かる人には分かってしまう特別な意味を持つという。
「顔のこの刺青ね、誤魔化すために端っこのほうを延長したり装飾したりしてるけど元々はとある国の古語が掘られてるんだ。私ね、実はアシュバル人なの」
「え……」
ネイの突然の告白に一瞬だけ頬を引きつらせてしまうシェザード。
その反応を見たシュリが曇らせた目を伏せる。
ネイは特に表情を変えなかったがそれは慣れているからだ。
シェザードが聞いたものは世界中で忌み嫌われている穢れた呼称であった。
アシュバル人。
悪名高い民族の名だ。
ロデスティニアから一番遠い海の果てにある小さな島国に住まうその者たちは近代化が進んだ現代においても今なお呪術や祈祷に頼る野蛮人だと言われている。
そして古くから世界中の歴史で混沌をもたらす者として暗躍していた。
ここロデスティニアにおいてもそれは変わらない。
百年前の内紛もアシュバル人が関わっていたとされる説があるくらいだ。
世界中から制裁をくらい入国禁止などの措置を取られてから久しくその存在は他者を貶める煽り文句にのみ登場する程度になっていたはずだった。
それが今、目の前にいるというのか。
「驚いたでしょ。ごめんね。でも聞いて。これはね、贖罪の証なの。自分たちが罪人であることを示す民族の印。その思想を代々植え付けていく、呪いの印」
世界中から制裁を受けたアシュバルは自省を示すために血を貶めるようになった。
だがネイたちのようにその姿勢に反発する者もいた。
生まれてもいない時代の見知らぬ先達が犯した罪を自分たちが償うなんておかしなことだ。
そのような腑抜けた考えに至ってしまうのは民族が誇りを失っているからだ、と。
アシュバルは大昔に亡国によって凄惨な支配を受けた歴史があった。
その時に王家が途絶えてしまっていた。
畜生にも劣る扱いに身を窶しても自分たちは世界で最も歴史ある栄光の民族なのだと信じてきたアシュバル人にとって国家の象徴たる王家の喪失は自己の消失と同義であった。
亡国の支配から解かれ独立国に戻った後もアシュバル人の心は空白となっていた。
「だから私たちは国を出たの。私たちには伝承が残されていたから」
「伝承?」
「遥か昔に政争に敗れて国を追われた王族がいたっていう伝承よ。その血筋はまだ世界のどこかで受け継がれているの」
「その王族を探し出してアシュバルの王に……するのがあんたの目的なのか」
「私たちのね」
「それで……用心棒?」
「まあね。私みたいに出自を伏せさせておきたい人間にとって用心棒はありがたい仕事だったわ。ある程度お金を積めば誰でも登録できるし、それでいてこの国では政府関係者しか入れない遺跡に入ることが出来るからね。生徒の付き添いってことでね」
「遺跡……遺跡に入りたくて用心棒になったってことか? ん? ってことはつまり……そのアシュバルの王家は遺跡に……空の国に手掛かりがあるってことか?」
シェザードの問いにネイは大きく頷いた。
やはりこの少年はなかなか頭の回転が速い。
「話が早くて助かるわ。というわけで話を戻しましょう。セエレ鉱石と魔法についての話がまだだったわね。セエレ鉱石ってね、アシュバルでは精隷石って呼ばれているの。まあ名前の違いはさておき、あれは要は魔法の力が閉じ込められた石なのよ。私みたいな魔法使いが使えばその石に眠る魔法を引き出すことが出来るわけ。でも、使おうと思えば普通の人でも使えるわ。放電を加えるとそれぞれ異なる色で発光しながら凄い膨大な動力を生み出すことはあなたも知っているわね」
「あ、ああ。魔法の石だなんて言われてるけど……本当にそのまんまの意味だったなんてな。とても小さいくせに一個で油田一つから得られる資源を凌駕するって話も聞いたことがある。だから過去の戦争の大部分はこれの取り合いだったりするんだよな。今はもう、使いまくったせいで出がらししか残ってないけど」
「いっぱいあるけどね」
「どこにだよ……」
シェザードの動きが止まった。
繋がったのだ。
空の大地は玉虫色の靄で包まれている。
昼も夜もなく発光しながら。
「まさかあれ全部……そうなのか?」
シェザードは天を仰ぎ見た。
そこには列車の天井しかないが幾度となく見上げた空は容易に想像できる。
セレスティニアが何故はるか上空に浮かんでいられるのか。
何故ネイが自身の出自から話し始めたのか最初は分からなかったが、こう繋がるのか。
「そう。百年前、自分たちの主を求めて世界を渡り歩いたアシュバル人はこの地で見つけたのよ、王家の末裔を。でも末裔は易々と帰るわけにはいかなかった。この国で覇権を争っていたから。だから魔法使いは彼と取引をしたの。精隷石の本当の使い方を教えて、この地でやるべきことを早く終わらせるために」
「そういう……ことだったのか」
「状況証拠だけで組み立てられた憶測だけどね。当事者たちが帰って来なかったんだもの。でも皆そうだと信じている」
「それでリオンは……」
自分が見られていることに気づいた少女は膝を抱えていた手に力を込め更に身を縮こませた。
古い王家が造ったとされる地下迷宮で神官服の護衛者に守られていたリオン。
ここまで情報が揃っていれば本人が黙っていても誰にだって容易に答えが導き出せるだろう。
リオンは空の国の王族にしてアシュバル王家の子孫だったのだ。
中央官憲が執拗に追ってくる理由が分かった。
どんな小さなことでもいい、彼らはセエレ鉱石を回収する手掛かりを欲しているのである。
遺跡は空の国から降り注ぐ残骸にして宝までの解を手繰り寄せるための糸口だ。
その地で何かを掴んだと思わしきシェザードは絶対に確保したいところというわけだ。
すると、リオンが見つかってしまったらどうなるだろう。
戸籍にも載っていない、自分と一緒にいた謎の少女を見た時に奴らは何を思うだろうか。
容赦なく実力行使してきたことから察するに懐柔策は取らないはずだ。
かつて世界の頂点に君臨しかけた超大国に内乱を仕掛けて疲弊させたにっくき空の国の民かもしれない者に情けは無用だろう。
「名前も名前よね。聞いた瞬間に確信したわ。空を落とせるっていうのはあれだけの精隷石を同時に扱えるくらいの力があるってことでしょうね。残念ながら私はリオンがどれくらいの魔力を持っているのか分からないけど、ヤシャゴなら視ることが出来るわ」
「ヤシャゴ?」
「アシュバルにいる私たちの組織の長よ。彼も言っていたけどこの国は野心を捨ててないわ。大きな力を手に入れたらまた世界を相手に戦争をしかけるでしょうね。だから逃げるの。シュリの故郷まで逃げればそこで組織の誰かと連絡が取れるはず。私たちの自分本位を押し付けて申し訳ないけど、これはあなたの為にもなることだと思わない? ひいては世界の為にも」
「……わかんない」
あくまでもリオンは首を振り続けた。
目が覚めたらそこは百年後の世界で見ず知らずの者たちから守られたり狙われたりすれば心を閉ざしたくもなるだろう。
かくいうシェザードも心中はずっと不安の中にあった。
小さな好奇心がここまで大きな話に繋がっていくだなんて誰が想像できるというのか。
腹は括れなくとも列車は力強く進んでいく。
今はゆっくり休みなさい。でも降りるときには覚悟を決めておいてね、とネイは言った。
街道を通り既に官憲が中継地点の町に先回りしている可能性が高いからである。
四人の逃亡劇はまだ始まったばかりだった。




