始動
校章の入った外套を羽織り空の鞄を肩にかけてあばら家を出る。
傾いた木戸を慎重に押し戻し、踏むたびに錆が剥がれる鉄板製の階段を降りた。
廃材で出来た集落は石造りの美麗な建造物が立ち並ぶ大都市の一画に潜み繁栄の陰に埋もれていた。
すぐそこの細道を抜ければ清潔な衣服に身を包んだ人々が闊歩しているというのに歴史的な古い家屋を挟んだ表と裏には混ざりようのない隔たりがあるのだった。
そこは首都ベインファノスの暗部とも言うべき貧民窟である。
三か月前に進学のために地方から出て来た少年は最初のうちは指定の学生寮に入っていたもののすぐにそこに移り住んでいた。
おかげで学校では一部から変わり者扱いされている。
ロデスティニア一の名門であるバイレル・ベイン国立学園に通う高貴な学童たちには彼の行動が全く理解できないのだ。
おかげで衝突することも多いが負けず嫌いの少年は腕力では敵わないぶん知己や舌戦で相手を押し負かしていた。
それが益々軋轢を生んでいたが本人は何処吹く風だった。
問題児とまでは言わないものの話題に事欠かなない生徒であることは間違いないだろう。
そんな彼が取り返しのつかない事態に自らを陥れてしまうまでの時間は既に幾ばくも残されていなかった。
「やあシェザード、おはよう」
「おうシャジャード! おはよう!」
「おはようデリックさん、ファビオさん」
階段を降りると路上に座り込みごみを燃やしながらお湯を沸かしている老人たちから声がかかった。
彼らは下の階に住むご近所さんでありデリック老人は大家である。
とはいえ家賃は払っていない。
学校からくすねてくる備品や拾ってくるがらくたが家賃の代わりとして取り引きされていたからだった。
「1、2、3、4……」
老人たちの傍には乳母車がある。
覗き込むと手足のやせ細った老人が純真無垢な目でまっすぐ少年を見つめていた。
「おはよう、ケルナーさん。装甲列車、距離50」
「9秒、8、7、着火、5、4、3、投擲」
「着弾、大破。目標沈黙確認。ぴったしだ。流石だね」
賛辞を贈られた乳母車の老人は歯のない口を見せて嬉しそうに笑った。
そして再び数字の繰り返しを始めた。
老人たちの輪に入って座るとファビオと呼ばれた顎の曲がった老人が汚い缶に入った淹れたての白湯を差し出してきた。
少年は礼を言って受け取ると寝覚めの一杯を胃に注いだ。
焚き火では鼠の串焼きが炙られ滴り落ちる肉汁が良い香りを漂わせている。
デリック翁は奴床状の義手で器用にそれを掴むと少年に手渡した。
「それにしても、やけに軽装だな。鞄なんてぺらぺらじゃないか」
「教科書を持っていく必要がないからね。あちち……。代わりに部品いっぱい詰めてくるよ」
「ははは、初めての遺跡なんだからな。部品集めに集中しすぎて野良駆動の警戒を怠るなよ」
「分かってるって。じゃ、行ってくるよ。朝飯ごちそうさま!」
串焼きを頬張り白湯で流し込んだ少年は老人たちに見送られながら慌ただしく通学していった。
いつもより早い登校時間にもかかわらずである。
今日は発掘調査の日で集合時間が早いからだ。
寮に入っておらずベインファノス出身でもない彼は誰よりも早起きしなければならなかった。
大国ロデスティニアが治めるドミニフィナ大陸には多くの遺跡が点在していた。
ただし遺跡といっても何百年も昔の話ではなくその始まりは百年にも満たなかった。
それらは玉虫色の空の上にある大陸から落ちてくる残骸で形成されていた。
ロデスティニアは首都の真上を中心にほぼ円形の大地に蓋をされているのだ。
大陸の東西は完全にすっぽりと包まれまともに星が見えるのは南北しかない。
この状態は百年前から続いている。
かつてロデスティニアでは内紛があり民は空と大地に別れて不毛な戦いに明け暮れていた。
超科学で浮かんだ空の民はやがて外界の全てを断ち、今や鈍く光る靄に守られて未知の存在となっていた。
そこから時々物が落ちてくる場所がある。
政府はそれを国家の重要機密として管理した。
やがて政府は学校と提携し、未来ある若者にこの謎に触れる機会を与えるようになった。
それが校外学習である発掘調査だった。
少年はこの調査が楽しみだった。
彼の故郷である北の田舎町の側にも遺跡があり幼い彼はよく謎に夢を膨らませたものだった。
ただしそこに入る資格があるのは政府の調査関係者か雇われの用心棒、首都の学生くらいなものであり用心棒は調査には携われない。
よって必死で勉強し晴れて首都の学校に通うに至ったのだ。
だが学校生活は順風満帆ではなかった。
早く働き手になって欲しい両親は彼の進学に最後まで反対していたし、それを説き伏せて上京すると今度は同輩に馴染めなかった。
貧民窟に住まう前、というより入学式の頃から少年は田舎者として嘲笑されている。
そしてそれは今も続いていた。
校門に着いた。
学園は政府庁舎にも負けず劣らずの立派な煉瓦造りの建物であり王城の風格を漂わせている。
その威信を背負うように少年を見下しながら仁王立ちする者がいた。
シェザードは短く溜め息をつくとその少年を睨みつけた。
「ようやく登校か、トレヴァンス。集合時間を守れない奴は居残りの自習だって、もう忘れたのか?」
体格の良い茶髪の少年が三下を引き連れてにやにやと笑っている。
彼はシェザードの学級の風紀委員の一人だ。
風紀委員は生徒の中で唯一校外学習において武装を許された存在である。
体力測定と素行が優秀な者が選ばれるはずの要職は彼のような都市生まれの選民思想家がなって良いものではなかったが、親が議員である彼はその権威を当たり前のように悪用していた。
「集合時間には間に合っている。どけよシモンズ」
「団体行動って知っているか、トレヴァンス? もうみんな集まっている。と、いうことはいくら時間内だと言ってもお前は集団の輪を乱していることに他ならないわけだ。これだから田舎者は困る」
「お前、この間は田舎者は個性がないから誰にも気づかれないとか言ってたじゃないか。その論調でいえば誰も輪を乱されたと思ってないはずだぜ。もう忘れたのか」
「なんだ? 訛りが酷くて聞き取れない、なあ?」
話を振られてへへへふふふと笑う腰巾着たち。
相手にするだけ無駄なのでシェザードが歩き出すとシモンズが手を広げて制止してきた。
「おっと、どこへ行く気だ?」
「外庭に決まってるだろ。集合場所なんだから」
「冗談だろ? お前はまずその貧民臭を落とすのが先だ。鼻が曲がる酷い匂いしてるぜお前。この学園にふさわしくない臭いだ」
「なんだと?」
「ほら、さっさと行けよ。ただし風呂は使うなよ、お前は寮生じゃないんだから。そうだな……お前にはそこの花壇のため池がお似合いさ。先生には言っておいてやるよ。あいつは身だしなみに時間がかかるから、集合時間には間に合いませんでしたってな」
「僕が先生に言っておこうか、今までの一連の流れをさ!」
睨み合う両者を遠くから怒鳴りつけたのは長髪を馬の尾のように結った女子生徒だった。
背が高くすらりと長い手足、端正な顔立ちの少女である。
整った眉をきりりと吊り上げ腕組みをし睨みつける姿は彫像の女神のようだ。
シモンズは半目になって肩をすくめると捨て台詞を吐いた。
「女に助けられるなんて最低だな」
悠々と去っていく背中に侮蔑の目を送る少女。
もう一人の風紀委員であるアレクシアス・レガリアはシェザードの近くまで来ると途端に眉を下げた。
「大丈夫かい、シェザ」
「俺は全然平気だけどな、ありがとうアレックス」
「へへ……当然のことをしたまでさ。ところでその外套いいね、初めて見たかも」
「そうか? 金貯めて買ったんだ。野営に最適の本格的なやつでさ、結構高かったんだぜ」
「勉強しながらお金も稼いでるんだもんな。君は凄いよ」
「そうでもねえよ。そうしないと生きてけないだけさ」
「……あのさ、僕の今日の恰好はどうかな? 新しい髪留めを付けてみたんだけど」
「え? 恰好? ああ、いいんじゃないか。動きやすそうで」
「動き? ……まあいいや、ありがとう!」
朗らかに笑う才女。
アレックスは発育が良いのでシェザードよりも背が高い。
だからあまり傍に寄って欲しくないのだが彼女は何かと世話を焼いてくる。
それはきっとシモンズに目をつけられているからだろうなと鈍感な少年は結論づけていた。
「ん? アレクシアス、シェザード、なにをやっているんだ? たぶん君たちが最後だぞ。外庭に急ぎなさい」
声がかかり驚くアレックスに驚いた少年。
見れば渡り廊下には肩口まで伸ばした金髪に慎ましい髭を生やした男前が立っていた。
男はシェザードの担任であり学年主任である社会科教師のリヒャール・アドキンスだ。
アレックスは今あったことを告げ口するがアドキンス先生は頭を掻いて飄々としていた。
「先生! さっきまたシモンズがシェザードに!」
「ああ了解。でもごめんなシェザード。先生は公僕だから議員の息子には何も言えないんだ」
「期待してないよ」
「助かる。さ、外庭に急いでくれ」
「はいはい」
「ああシェザード、一応言っておくけど私は君の今回の調査結果に期待しているからね。君は私の教師人生の中で最も熱心で優秀な発掘研究部員だから」
「凄いじゃん、シェザ!」
「なんでもいいよ」
「じゃあ私は用心棒の先生がたを連れてくるから、またあとで」
先生と別れ、一緒に外庭に走っていくシェザードとアレックス。
走りながらアレックスはシェザードを窘める。
「でもさシェザ、君にも問題はあるんだぞ。あんなところから通ってるから目をつけられるんだ」
「あんなところっていうなよ」
「ご、ごめんそういうつもりじゃ……ううん、ごめん」
「いいよ別に」
外庭には既にシェザードの学年の生徒たちが集合していた。
そして政府からの支援として軍警察の四輪駆動が何台も停まっている。
それだけでシェザードは気分を持ち直した。
いよいよ待ちに待った謎の遺跡へと踏み込めるのだという実感が現実のものとなった。