走り出す日常
我が高校の夏の行事の一つに地獄の炎天下マラソンというものがある。もちろん、学生の体力強化を目的としたもので名前の響きとは裏腹にのどかな行事であるはずなのだが今年はどうも不穏な噂が流れている。
曰く、体育教師が己がプライドを捨てコースの決定を外注しただの、その担当が陸上部と文芸部の顧問だっただの……。
もちろん何事もないとは思うが何ぶん組み合わせが不穏である。そこで折良く行われた補修の場でヤマノウチに話を振っているのである。
「ヤマノウチはどうだ?今年のマラソン、優勝狙えそうか」
アサシンのギロリとした視線が飛んでくるがペンだけは動いているのでまだ罰される段ではない。そこら辺はヤマノウチも俺も心得たもので、プリントの解答欄をテキトーに埋めながら会話を続ける。
「ああ、楽勝だよ。コースもどうせ去年と同じ湖の一周だろ?
走りやすいコースな上に木陰も多いからな。汗すらかかないかも」
流石にそれは冗談だろとアハハと笑い合う俺たち。後に後悔することになるこの行動はあろう事かアサシンの教官魂に火をつけてしまったらしい。
「なんだ、お前たちも例年のコースに不満を持ってたのか?」
この含みのある言い方に違和感を覚える俺は口をピタリと止める。しかし頭の回転を全て足に回す男、ヤマノウチは気にすることなく話を続ける。
「そうですね、高校生にもなって流石に5キロじゃぬる過ぎますよね。コースも起伏のない単調な道ですし」
「そうか、それなら安心しろ。今年のコース整備の担当は私、練習の総監督はお前のところの顧問カキウチ先生だからな。
よし、お前らが満足するように少しキツめに組んでやろう。楽しみにしてな」
「おお!流石教官ですね!」
無邪気に笑うヤマノウチを尻目に俺と今日も補修のヒバは揃って冷や汗を垂らし始める。
忍者の末裔アサシンのみならず地上の鬼カキウチまで担当なのか⁉︎
ではやはりあの噂は……。
自身の想像による恐怖に耐えきれなくなったのかヒバが縋るような目をしてアサシンに説得を始める。
「先生!私たち女子のコースまで体力バカの男子たちの仕様にしないでくださいね⁉︎そんな事したら私、ヘロヘロに疲弊しきった挙句にそこら辺の道で疲れ切って後続に散々踏み潰されて野垂れ死んでカラスのオヤツになっちゃいます」
クソ、保身に走りやがってこのアマ!なんなんだその子犬が雨の寒さにフルフル震えるような目は。ハッいかん、アサシンの目にも心なしか慈悲の色が見え始めた……。ここは便乗するしか。
「教官、俺たちもです!ヤマノウチは異常なまでの体力バカですよ?こんなのと一緒にされてコース設定されたんじゃ俺たち、命が幾つあっても足んないですよ」
おし、ここで縋るような子犬の目だ!
俺もヒガに習い上目遣いにアサクラ教官を仰ぐ、しかし気のせいか彼女の目は温かくなるどころが段々と冷え付いていくように見える。
「東……。何だ、お前のその……媚びを売るノラ猫のような目は……一度冷静になるか?」
いかん、アレはシャレの通じない時の目だ。交渉失敗……このままでは非常にマズイ。アサシンに任せてたらどんなコースになるか分かったもんじゃない。
だが、ここにいる中には俺たちのコースを甘くできる奴は……。
俺はフッと息を吐き窓の奥の青空を見上げると残っていた補習のプリントにペンを走らせた。
「……と、言うわけで俺の血の滲むような努力の甲斐なくマラソンコースが決定した訳だが」
「おい待て、なんなんだ最後は?完全に諦めてるよな?何が血の滲むような努力だ……。
危機感がないのか?アサクラとカキウチが組んでんだぞ、絶対マズイって……」
「はは、シンジは心配性だな。まぁ俺だって最初は焦ったぜ。だけどな、名前の仰々しさに囚われちゃいけない。これは所詮学校行事なんだ。キツければ休む自由も最悪欠席する自由だってあるんだ。
それにアサシン達がどんなにキツめにコースを作るって言っても所詮は高校教師、命を取られるわけでもあるまい」
「だと良いんだがなぁ……」
なお歯切れの悪いシンジを促して俺たちはマラソンのスタートラインに向かう。毎年、コースはスタート直前に発表される事になっていた。
「生徒諸君、全員集まったか?」
スタートライン付近に立つアサシンが拡声器で男子一同に呼びかける。
「今回は変わった趣向で行く、障害物有りのマラソン10キロだ」
ほらなという顔でこちらを睨みつけるシンジ。まだ何とかなると俺は首を振って必死に抵抗。
「えー、また最後尾には私とカキウチ先生がつくので見るからにサボってるような奴にはペナルティを課していくのでそのつもりで」
「続いてルールの説明だが、生体パーツによる身体能力の強化は原則禁止だ。生命の維持に必要な者のみ許可する。監視は今日に備えて目を改造してきてくれたOBの桃ノ木さんが行うので誤魔化せると思うなよ、彼は上空から全体を監視するからな?」
もうダメだおしまいだ……。この世の終わりのような顔で空を見据えるシンジ。流石に俺も忍びなくなって顔を伏せる。
「毎年のことだが、1位には食堂で使える食券1万円分、20位までには食券1000円分だ。
それに万が一に備えてイヌマキ医院からイヌマキ医師と看護師のアシバナ氏に来ていただいている。
安心して死ぬ気で走れ」
餌にもならない餌と救済措置の提示の後、コース発表の衝撃から落ち着く暇もなく開始のピストルは鳴る。文字通りの地獄の炎天下マラソンがここに始まったのである。
「1位は僕が貰う!実は今月食費がピンチなんだ!」
「ええっ!なのに先輩おごってくれたんすか!?」
「先輩だからな!」
「くそ…かっけえ……」
陸上部のエース、ヤマノウチとタルキ先輩は初っ端からぶっ飛ばした。
それを追うように体力に自信のあるやつらが追従していく、が俺たち普通に体力無し組は無理してぶっ倒れずに10㎞を走り切れるようペースは控えめである、それに……
「気になるのはアサクラがどんな障害を仕掛けてきているかだな」
「シンジ、気になるどころじゃない、それが一番の問題だ」
自称忍者の末裔は伊達じゃない、学校でインフルが蔓延して教師陣が壊滅したとき、奴は一人だけぴんぴんしていたどころか分身の術を駆使し、すべての授業を遂行して学級閉鎖を楽しみにしていた生徒たちの心を叩き折った。
『リタイアが出るまで暇なので、ここからは私イヌマキと』
『アシバナが競技の解説とか行っちゃいまーす!キャハッ!』
「呑気だなあ、おい!」
『…』
『どうしました?イヌマキ先生?』
『いや、君確か私よりも年…』
ゴッ、ガッ、と、鈍い音が響いた。
瞬間、普通に走っている生徒たちに戦慄が走る。
音の響きからして確実にイヌマキ先生は生きてはいまい、よしんば生きていたとしてもこの大会中に復帰することはきっと不可能だ。
つまり、リタイアしたところでまともな医療を受けられるとは限らない、ということが確定してしまったのである。
「やべえぞツガっち!とっととリタイアして救護コーナーでお茶を濁す計画がもう破綻した!」
「不味いよヒバちゃん!」
「ああ不味い…」
「そうじゃなくて!モモノキちゃんが!」
すぐ後ろを走っているハズのモモノキの方を向くヒバ、そこには開始5分も経っていないのにもう既にヘロヘロなモモノキの姿があった。
「モモノキぃ!なんで!?」
「ゼヒュー…コヒュー……」
「モモノキちゃん、いつもは生体パーツの恩恵を受けてばっかりだから、実はもやしっ子なんだって……」
その時、苦しむモモノキの横を通過する二つの影があった。
「ハイヨー!」
「…」
馬に乗り、駆け抜ける戦国甲冑部のハンザカと、その背に寄生するように張り付いている豊かな髭がチャームポイントのトネリコである。
「…ツガっち、アレ有りなの?」
「うーん、二人ともウタシロ君に手伝って貰ってるだけだから…大丈夫、なのかな?」
「えっアレ生徒?」
「うん、とっても紳士的で優しい人だよ、イケメンだし」
「人!?今ヒトって言った!?しかもイケメン!?」
「うん」
「ホモサピエンス?」
「いぐざくとりー」
「えぇ……」
などと彼女らがしゃべっている間にモモノキはカキウチに捕まりリタイアしていた。
「裏切り者ぉ……」
「鍛えていない貴様が悪い、モモノキ体育補習は一週間後だ、覚悟しておけ」
「いやぁ…」
時として友情よりも優先しなければならないものもあるのである、ヒバはそう思うことにした。