第4話 変わらない瞳
今日は授業はなく午前中の会議の後執務室に行くと机の上には新たなサイン待ちの紙の束が増えており、入ったばかりのところでため息をつきかける。
窓の外は春らしい気候。澄み渡った青い空が見え、太陽が出ているのは明るさでよく分かる。
良い天気。
こんな日に外に出ないなんて、子どものときには考えられなかった。
村にいたときのことが遠い昔のようだと思われるのは何も過ぎた歳月だけが働いているのではなく、きっと大きすぎる環境の差でもっと遠い日のことみたいに思えるのだろう。
それでも王宮に来たばかりのときは、最初はユリシウスを言いくるめてはかくれんぼに繰り出し、グレンと出会ってからはグレンと何度も何度も外でかくれんぼをした。
相手が大人になっただけで、お気に入りの遊びを何度も。
今思うとそうやっていた期間は一年にも満たない短い期間だったけれど、過去を思い出そうとすると鮮やかにも思い出されるのはそのときのことばかり。
「……かくれんぼかぁ」
したいな。
しなくなったのはグレンが側にいなくなったとき、グレンとではない人とすることが思い浮かばなかったから。心踊らず、外に行こうという気さえあまり起こらなかったような気がする。それこそたった一年ほど前のことなのに曖昧で……きっと単に思い出したくないのだろう。
「何か仰いましたか?」
リディアの独り言の呟きに反応したのは一緒に執務室に入ってきた宰相で、その顔といえば現在王宮に花が満ちたために花粉症の症状はもはや最大。見ているだけで気の毒すぎて彼のような人が他にもいると思うと、本気で花をいっぱい飾るのは止めた方がいいのではないかと思う。
「いい天気ねって」
花を見るたびにどこか遠くの地に思いを馳せているような目をする宰相に、リディアは微笑んでそう答えると宰相はリディアが見ていた窓に目を向けてそうですね、と頷いた。
そう、天気はすこぶるいい。
外を好まない性格になったこともないので外に心ひかれるが、かくれんぼはこの歳ですることでもないしそんな時間もない。
でも庭は見ておきたいなと思いつつもぐっと我慢して机に近づいていく。王位についた以上、リディアがサインし許可しなければ片付かない書類がたくさんある。
「陛下」
椅子に座ったところで、少しだけ離れたところに控えるグレンの声がリディアを呼んだ。
「なに?」
こんなときに呼びかけられることは珍しいのでリディアが不思議そうに上半身をひねり見る。
「せっかくの天気です。テラスに出るだけでも、どうですか?」
「……そうね。これを片付けて、時間があれば出ようかな」
「いいえ陛下、私からも提案させていただきます。グレン様の言うとおり最近陛下は根をお詰めになりすぎですから休憩が必要です」
「ミーシュ?」
「少し、顔色も優れないように見えますから」
グレンだけでなく侍女長までもが言う。
二人してどうしたというのか、と交互に様子を窺うと、二人が気遣わしげな表情をしていることに気がついた。
どうも最近ろくにゆっくりと出来ていないことで心配して、休憩を取ってはどうかと言っているらしい。
「大丈夫」
そんなに心配しなくても体調は悪くないし、元々身体が丈夫な分平気だとリディアは返した。
笑顔をそれぞれ二人に向けて心配を振り払って、部屋にいない間に増えた紙束に手探りで手を伸ばす。要領が悪いので今日終わらなくなって明日に持ち越してしまう恐れがある。
「せめて出来ることは、しないと」
グレンとミーシュが何やら視線を交わしあった……ように見えたけれど、リディアはすでに視線を下へ、手には紙の感触。
これだけは、やれる。
目を通して、サインして。
時々ユリシウスにも確認して。
「……ではお茶をお淹れ致します」
「ありがとう、ミーシュ」
「ユリシウス様も症状が少し楽になる方法がございますから、少しおいでになってください」
侍女長ながら他の侍女に任せず手ずから美味しいお茶を淹れてくれるミーシュにお礼を述べたリディアは、え、と紙に落としていた視線を上げる。
ユリシウスも連れて行ってしまうのか。
「本当ですか」
「はい。呼吸がし辛くていらっしゃるでしょうから、それを楽にする方法が」
「それはありがたいですね。陛下、少し失礼してもよろしいですか?」
「もちろん。良かったね、ユリシウス」
この季節には珍しく表情に明るさが出た宰相を引き止められようか。彼の抱えている症状が和らぐのならむしろどうぞ、楽になって帰ってきて欲しいとリディアは押され気味に頷き促した。
そうしてお茶を淹れてきてくれる侍女長と連れだって宰相も出ていってしまった。
ミーシュがお辞儀を残して、扉が閉まる。
部屋に残ったのはリディアとグレン。
背中どころか扉が閉まるところまで目だけで見送ったリディアは一人でも出来ないことはないので、作業に戻ろうとする。
「陛下、休むことは大切ですよ」
穏やかな声がそう言う方が、早かった。
さっきも見た傍らを見ると護衛はいつもと同じ優しい微笑みを浮かべて、表情のままの声はすんなり耳に入った。
「……うん、分かってる」
「自分が思っている以上に疲れやすいものですから」
「でも、グレン」
でも、と言ったリディアは次の瞬間口をつぐんだ。
案じてくれていることは分かっている。リディアのかつてのことを考えれば、無理をしているように見えるのかもしれない。隙を見てはかくれんぼだと外に繰り出して渋々戻っていたような子どもだったから。
でも、今は違うから。
自分が変わったのか、変わることができたのか、それとも環境によってそうならざるを得なくなっているのかどうか。どれでもいい。勉強を頑張ることも大変だったが、「義務」と「仕事」が出来るとこれまでがどれだけ楽にさせてもらっていたのかよく分かる。
分かって、それでもままならない部分がたくさんある。
国を背負うには若すぎるばかりか、まともな教育を受けて七年ほどという事実は理由になるはずだ。しかしながら、言い訳と捉えることも出来る。
今日の会議にも関わらず、全ての問題に関して臣下に任せることしか出来ないリディア。この上なく頼りないと小さくなってしまう会議の最中にも自分でも実感するし、臣下たちともなればどう思っているのだろうか。
「大丈夫、これを片付けられたら休憩するから」
頭に過った全てのことは喉の奥で塊となり口に出るまでには至らず、リディアは同じことを口にした。すると、それを聞いたグレンが瞳が翳ったように見えた。
「グレン……?」
リディアが思わず名前を呼ぶと、グレンの顔が高い位置から、下がった。
彼が膝を折り床に片膝をついたことにより目を上げなくとも見える位置、グレンの方がリディアを見上げる形になったのだ。
「ねぇ陛下」
下から、リディアの視線を逃さず覗き込んできながらの囁くような呼びかけに、既視感に襲われる。いや、既視感ではなくこの柔らかな呼びかけは、それだけでなくこの瞳は――この黒曜石を彷彿とさせる澄みきった瞳は色が変わっても、彼そのものを表す眼差しは変わりようがないのだと下から覗き込まれて思った。
「以前に言いませんでしたか? あなたの中がいっぱいになってしまう前に、せめて俺には言ってほしいと」
言われたことがある。彼に出会ったばかりの、小さな頃の話。温かな彼に救われてばかりだった頃の話。
どこまでの甘やかす言葉、優しい言葉。
「隠れてしまうことはもう出来そうにありませんが、休むことは出来ます。あなたが抱え込んでしまって限界になってからでは遅い」
心の弱い部分を暴いてしまいそうな声と目。うん、と顎を引いて全部話して聞いてほしくなるような。
リディアは目を閉じた。
「本当に、何でもないの」
目を開いてゆっくりと言葉を作ると、膝をついて目を合わせているグレンがまた口を開いたことが分かった。
しかし何かに気がついたように顔がわずかに扉の方を向いたかと思うと、
「これまでの王様方だって、陛下よりずっと歳を重ねた方だって全員がすんなり全ての事を上手く出来たわけではないんですよ。……あまり悩みすぎないで」
言ってグレンは立ち上がった。
その直後に扉がノックされる音が部屋に響く。
離れて元の位置に戻ったグレンの姿にリディアは躊躇いながらも、机に戻り扉の向こうに向けて返事した。




