第10話 雪降る温かい夜
初雪から一週間が経ち、底冷えする日々が続いてのときだった。今日の雪は積もりそうだ、と絶え間なく落ちていく白いものの量と勢いにリディアは思った。
暖炉には赤々とした火が燃え続け心地よい暖かさをもたらしてれる。
暖かな室内とは反対に芯から身体を冷やすであろう外では、雪が着々と世界を自らの色に染めていっていた。
夜になっても雪は降り続けており、
「雪はもう少し積もりかけているようですわ」
「明日、積もるかな」
「きっと積もると思います。今日は温かくしてお眠りになってください」
「ありがとう」
リディアが就寝時用の服に着替えてベッドに滑り込むと、侍女により毛布がかけられる。
「おやすみなさいませ、殿下」
「おやすみ」
室内の灯りは消され、退室する侍女の持つろうそくの火が遠ざかり、消える。
それから、いくほど時間が刻まれたときか。
物音がどこかに吸い込まれてしまったのではないか、というほどに静けさ満ちる時刻。リディアは暗闇の中、琥珀色の目をぱっちり開いていた。
目が冴えている。昼に寝た、ということもないのにも関わらず眠れる気配が訪れない。
幾度となく右に左に寝返りをして、その度に毛布を巻き込み毛布がぐちゃぐちゃになった頃とうとうリディアは起き上がった。
真っ暗。のはずだが、ずっと目を開いていたリディアにははっきりとまではいかないものの周りが見えている。
転がって最終的に着いた壁際から這ってゆき、ベッドから床へ足をつける。注意深く、音を立てないように。
それから足音を忍ばせて、十分に時間をかけることになりつつたどり着いたのは窓。そっと外の景色を隔てる布を引くと、それでも外と一枚隔てた向こうには白い白い光景があった。
窓の縁に積もり、張り付いて見下ろした先にも積もり、暗いとはいえ目を凝らせば視界のすべてのものを覆っていると容易に分かる雪。
全部真っ白になった光景はまるで別世界のようだった。
けれど、王宮であるはずなのに、その、見る限り真っ白な景色はなぜかリディアの生まれ育った村となんら変わらないように思えた。
そんな感想を抱いたところでベッドの方を振り向く。図書館で借りたっきりの薄い本が、ベッド脇の小さな机の上に置いてある。「春を連れてくる妖精」のお話だ。
懐かしい話だ。村の老婆が話してくれた、聞いた最後のお話。
それを目にすると、思い出すとリディアはよく分からない妙な感情を抱くことになる。
懐かしいだけではなく、どこか息がしづらくなるような。
本から目を逸らすようにして、窓の外をもう一度見る。積もったばかりで綺麗な、雪景色。
寒い窓際から離れることができなくて、窓にもたれてぼんやりしていた。
コンコンと静寂を破る音が響いた。
リディアははっと必要以上に驚いてしまった。どれくらい、こうしていたのだろうと窓につけてしまっていた頬の冷たさを無意識に触れた手で知り、一人でまた少し驚く。
それから、確かに音がした方向を見る。ちょうどそのときコンコン、ともう一度ドアを向こうから叩く音。
誰だろうとリディアは首を傾ぐ。こんな時間に。外はまだ暗いと確認。
そうは疑問に思うが、そろそろと意味もなく忍び足でドアに寄っていく。ドアノブに慎重に手をかけてほんの少しだけ開けてみると、
「そんなに簡単に開けてはいけませんよ」
と理不尽にたしなめられた。
ドアを開けた先に立っていたのは燭台を持つ見慣れたグレンの姿で、リディアは少し意外さできょとんとしたあと少し思い当たって尋ねる。
「いつも夜中もいるの?」
「いえ今日は偶々です」
夜の護衛。この部屋を出た部屋のここより大きな扉の向こうに警備の彼らは立っているはずだ。夜に直接見たことはないが、存在は知っていて、それにグレンもいるのかと聞くと本日限定だという答えが返ってきた。
日中はいつも姿を見るので夜中もしているとすればいつ寝ているのか、と考えはじめていたリディアは偶々かと疑問を霧散させる。
「殿下が眠れていないような気がして」
彼は何でもないことみたいにそう口にして、「通ってきてしまいました」と言う。グレンがいるドアの向こうの部屋に夜番をしている侍女たちがいるはずだが、リディアからその姿は見えない。けれど、居眠りしてしまっているのだろうか、物音がする様子はない。そのことに関してはリディアは気にせず、気になったことは違うことだった。
「そんなことも分かるの?」
「いいえ? さすがに俺の勘ですよ」
どこにいるのか気配が分かるからあり得ると思いながら聞き返したら、違った。
「眠れていないのは当たりだったようですね。入れてくださいます?」
「俺なら見つかっても平気ですよ」とよく分からないことをつけ加えもされて、「俺なら」とどうしてグレン限定なのかとリディアはまたちょっと首を傾ける。
「なんで?」
「『妖精』ですから」
返ってきたのは便利な言葉のように思える「妖精」で、結局意味が分からなかったリディアは自分にはよく分かりそうにないことをすぐにどこかへやって、グレンを中に入れながら聞く。
「グレンって周りから妖精だって思われてることが多いの?」
「さあ……どうでしょう。けれど、殿下の侍女の方々には俺が『妖精』として殿下を見つけに行くというお役目を与えられてからだから、妖精として見られているのかもしれませんね」
「ふーん」
分かった風に頷いておいた。
「殿下、裸足じゃないですか」
「え、うん」
「早くベッドに入ってください」
急かされたリディアはぺたぺたと床を歩いてベッドに登った。小さな机の上に燭台が置かれて、傍らにグレンが来たが、その目はどこかに向けられている。
「外を、見ていたんですか?」
窓が中途半端に露になっていることを示され、目がベッドの上に座るリディアを映す。
「ちょっとだけ」
「失礼します。……冷たいわけだ」
そういうグレンの手は温かい。当てられた手のひらは容易に頬を包み込んでしまえるほど大きくて、温かかった。
目を閉じると、なぜか懐かしい気持ちに浸る。
その間中、手はずっと離されなかった。
「殿下、妖精が王様のお側にいて何をしていたと思いますか?」
問いに、リディアは目を開けた。
あるのは、もちろんぼんやりとした火に照らされた彼の顔である。優しい声は、夜に聞くと寝物語を語る声のよう。
「王様の悩みを聞いていたんですよ」
リディアが何も言わない内に、答えが明かされる。
王とその妖精はいつだって不思議な結びつきをしている。唯一無二とも言える関係を。
彼らはいつの時代も友であり、家族のようでさえある関係を築いてきた。王が気を回さずに済む、家臣ではない存在。
人間には築けない関係を築く、安らげる関係。
そう、聞いた。
「友達なの?」
「王という地位は友達さえも自由に心置きなく作れず、会えるものではありませんから。そういう意味では、間違いなく」
「グレンも、私の友達になってくれるっていうこと?」
にこりと彼は微笑んだ。
手は、リディアの頬を撫でる。
「殿下、雪はお嫌いですか?」
橙色の灯りを映す緑の瞳は、いつもと違う色だ。
でも、穏やかなことに変わりはなくて、いつもより温かい色。
「……お母さんがいなくなった日、すごく雪が降ってた」
ぽろり、と口から溢れ落ちた。
雪が嫌いなわけではない。雪遊びは好きだ。けれど雪が好きだとは言えない。
三年前、リディアの母親はいなくなった。死んだ。寒い、寒い冬のことだった。
はじめは風邪だったのに、身体の強かったはずの母は風邪が治るどころか見ている方に明らかなくらいにどんどん体調を悪くして、死んでしまった。
覚えている。外は一面雪だったことを。空から絶えず多くの雪が落ちてきていたこと、それが今、外に降っている雪の比ではなかったことを。
とても寒くて、母の手がそれに侵されているようだったことを。
そして、リディアが必死に温めようとしたその手が再び温かくなることはなかったことを。
叔母や叔父にあたる人たちは助けてくれなかった。
母亡きあとリディアを引き取ったときも、それはきっと小間使いくらいにしか思っていなかったはずだ。食べるものは自分で用意しろと、けれど仕事はしろという日々だった。
だからリディアは一人になる決意をした。母が死んだ記憶の残る家だとしても、帰ることを決意した。行くと言えばそこにしか行くところはなかったのと同時に、母との温かな思い出が詰まる家でもあったから。
ぽつりと呟いたことはきっかけ。
「ねえグレン」
「はい」
「私なんか王様になれっこない」
はっきりとした弱音を洩らすのは、自分の中ではまだしも他人に明かすのははじめてだった。だって皆リディアが次の王だと疑わず、そう相応しくなれるようにしてくれている。
でもリディアには荷が重すぎる。
文字を、文を読めるようになった。かつてのリディアからしてみるとそれは天と地ほどの変化で成長だ。
だが、同時に気がついてしまった。それが小さな成長であることに。
――「殿下の即位は」
――「まだ無理だ」
――「即位だけ先にというのは」
周りだけが進もうとする。リディアを置いて進もうとする。
能天気に生きていける場所ではないことを痛々しいくらいに感じる。
――「あなたはこの国の王の子なのですよ」
――「あなたが次の王だからです」
――「ここで、王になるための素養を身につけていただくことになります」
――「ここで」
――「ここが」
「なんで皆私だって言うの? どうして他の人にってならないの? 私、もう」
いっぱいいっぱいだ。
当然のようにそうだと言われ、当然のようにするべきことを与えられ、リディアも流される道が一本見えるだけだった。
しかし、もう無理だと実は頭は悲鳴を上げている。もしかすると心も。
けれどやるしかないという環境があってどうにかやれてきた。
叔母の家から駆け出したようにはいかないのだ。
卑屈であることに困惑し、リディアは手元のシーツを力を込めて握る。真っ白な、シーツ。汚れひとつない、シーツ。ふかふかのベッド、ふかふかの枕。これに幸せばかりを感じていられたら、良かったのだろうか。
家に帰りたい。
母と過ごした家に帰りたいと。
随所で思い出すことは、良い記憶ばかりでないはずの村のこと。
けれど、あの村のリディアの居場所なんて狭くなっていくことは目に見えている。から。どうしようもなくなってくる。
ここにいることが、幸せなのではないか。と思おうとしている。
温かで、飢えず、手が荒れることなく、なんと幸せなことではないか。村での、冬支度していたときを思えば。
もうグレンと目は合っていなかった。リディアの方から逸らしてしまった。
「――俺があなたの気配を追って迎えに行きました。王都に、ここに連れて戻ってきました」
手は、リディアの顔を無理に上げようとはせずに離れていった。温もりがなくなり、胸の内が無防備になったばかりのリディアは不安になる。
「納得してもらえないかもしれませんが、王座を継ぐに当たる人物を選ぶのには、血筋が一番争いがなくていい方法なんです」
表向きの事情を。それから。
「でも、俺が見つけてしまったからあなたはこんなに苦しんでる」
「ごめんね」と村にいた子どもを王宮に連れてきた本人である「妖精」は謝った。
リディアは彼に謝られることに戸惑いを抱えるもののぴくりとも動けずにいて、琥珀の瞳をわずかに揺らしたのみであったけれど、グレンはそのまま話す。
「少し、聞いてくれますか?」
これにもリディアの反応ないままに彼は続ける。
「俺にとってはね、あなたはとても得難い存在なんです」
ちょっとだけ、リディアは目を上げる。ほんの少し。
それだけで、ベッド脇に膝をついたグレンの顔が覗き込んできているのが分かった。あの、優しげな光を持つ緑色の瞳。
「俺はあなたがそうだとすぐに分かった。はじめて目にした瞬間にね」
「……それは、グレンが、妖精の意思を持ってるからでしょ?」
「ええそうです。あなたのいる場所が分かったのは。
けれど、あなたの側にならいたいと仕えられると思ったのは紛れもなく俺自身だと思っています」
いつ見ても、いつ向けられても穏やかな微笑みが。
「だって今、こんなにもあなたが大切だから」
「……どうして?」
「どうしてでしょう」
「それも妖精の意思?」
ここまでも卑屈になってきたとリディアはちょっぴり後悔して目を曇らせる。
そうでなければいいのに、と心のどこかで思った。
「もしかするとそうなのかもしれませんね。でも、そんなこと俺にしてみればどちらだっていいんです。そう思っていることが全てだと思っています」
後悔したが、グレンには関係なかった。
「だからね殿下、俺はあなたが望むことならどんなことだってしてあげたいと思ってるんですよ」
「……どんなことでも?」
「はい」と大抵のときそうであるように、グレンは快く頷いた。
「俺が言う資格がないことは分かっています。でも聞きます。あなたはここから出ていってしまいたい?」
この「妖精」はどうしてこんなにもリディアの心の隙をつくのだろう。
戻ってきた話。ここに繋げる話だったのかと変な回り道だと思ってしまう。
「分からない」
どっちにも苦難はある。どっちを選ぶのか、本当はリディアにもう道はないはずだ。
ないはずの道を、グレンは作ろうとしている。
ティータイムの終わり、苦手な授業を渋っていたときの午後と同じように。何でもないように。
「怒られるよ」と言ってみる。
「大丈夫です」と言われる。
根拠は語られないのに、心配はひとつもないと本当に思ってしまいそうになるくらい、いつもと変わらず。
「……ね、グレン。手を握ってくれる?」
「いいですよ」
手が、雪のように真っ白なシーツの上で重なる。
「お母さんも夜にね、一緒に寝てたとき握ってくれたの」
「殿下の母君ですから、素敵な方だったんでしょうね」
この護衛は褒めることが実に上手である。
このときになってはじめて気がつく。彼の手が妖精のたおやかな手ではなくごつごつとしたものであること。
「グレン、ひとつだけ聞いてくれる?」
「いいですよ」
どんなことかも言っていないのに頷くとその内困った目に遭うに違いないと思う。
だけれども今日、今だけはリディアはそれに乗ってしまおうと違うことを口にする。どんなことでも、してくれるという妖精に向かって。さしあたって思いつく望みを。
「一緒にいてくれる?」
言うと、
「ええもちろん一緒にいますよ」
欠片も迷う様子なく言われるものだから、リディアは堪らずその存在に腕を、手を伸ばした。
思わず、目の前が潤んでしまいそうになったから。それだけは隠そうと思って、抱きついた。
すると、リディアの背中に回るものがあった。それにより、身体は火とは異なる自然な温かさに包まれる。何度かゆっくりゆっくり優しい手つきでさすられる。
「そろそろ眠りましょうか。俺があなたが眠るまでここにいるから」
「……うん」
この「妖精」がいてくれるのならば、リディアはここで生きていけるような気がする。そんな気にさせてくれる。こうして安らぎを与えてくれる存在がいるのなら。
ここは、母がいたときとは違った「安心できる家」になるのかもしれない。
人の温もり自体が、懐かしかったのだと。
暖かい場所に限られたものながら本当に温かい場所があることをリディアは知りつつある。周りに翻弄されながらも見つけつつある。
今、このときも。
温かい言葉の数々は胸の中の隙間を埋めてくれ、包み込み、リディアはいつしか眠っていた。