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美味い。
香りが鼻から脳へ、苦みが口から全身へ染み渡る。
フルーティーなアロマとまろやかなコク。酸味のきいた繊細で芳醇なテイスト。
体に染み渡るカフェインが余計な思考を軽く洗い流し、脳内活動を再び促進する。体を機械に喩えるならば、コーヒーは僕にとって潤滑油に他ならなかった。
しかしコーヒーほど同じ品が千変万化の味に変転する食品はない。喫茶店のそれが、バーなど足元にも及ばないほど歴然たる格差で店ごとに味に個性の等級が開くように、作る人の淹れ方一つでいくらでもその味や風味は変容するのだ。
その点、ミットライトのそれは老舗の喫茶店で客に出せるほどの味わいだった。
「そういえば、今日はお客さんが来るんですよね」
カップを小さく揺らしながらロイエが言う。
「何それ。まるで私たちが客じゃないみたいじゃない」
「それはもはや否定できることじゃありませんね」
「ま、確かにそうだな」
客と呼ばれるような畏まった仲ではない。
「で、客ってのは」
「私の知人です。その姉が何やら怪しい新興宗教に嵌ってしまったというので相談を受けていたのですが、どうもきな臭い匂いがするのでお二人にも聞いてもらおうかと」
「宗教ね……、〝拡張信仰〟の関係かしら」
「おそらくは」
拡張信仰。最近になってその存在が知られるようになった新興宗教だ。
特に大した勢力があるわけでもない。よくある類かと思って無視していたが、どうも違うらしい。それには一つ大きな特徴があった。
「例の、僕たちと同じような奴らが幹部にいるって話か」
「ええ。現実改変を信仰心の具現に見立て、教祖を神の使徒と崇拝させているとか」
「イグダクトは一般人には見えないんじゃなかったか?」
イグダクト――というのは他でもない、具現した思念による現象や物質をいう。
これらは通常、常人には感知できない。というのも、本来世界に存在し得ないものを排除するため専用の、それ自体が本来世界には存在し得ないものであるからだ。
所謂『目には目を』という発想。不具合存在を武器としぶつけているとも言えなくもない。
「それも色々工夫しているみたいで、信徒は非常に軽度の侵食状態にされているようです。それで感知を可能にしているかと」
「なんでまたそんなことを」
「超能力者とか魔法使いの類に思われてちやほやされたいだけなんじゃないの?」
ミットライトが苦言する。
「それだけなら別に構わないのですが、どうやら教祖が本当におかしい人みたいで。最近では、信徒を軽度などというレベルではなくではなく丸ごと侵食させたり、その結果としてあろうことか不具合存在を生み出したりなんかもしているそうです。それが自身の理想を現実とする力を生むだとか、情報瓦解と再構築したら『天使がその身に受肉した』だとか無茶苦茶言ってるみたいで」
「でもそんなことしてたら普通バレるもんじゃないのか? 途中で怖くなって逃げだしたりする奴がいないとは思えないし、不具合存在生み出してるならそれらが偶には外に出たりするはずだろう?」
「それがなんやかんやで殆ど証拠を外に出さなかったんですよね。だから最近まで存在すら知られていなかったんじゃないですか」
「強力な認識阻害か解離情報の抑留か。狂ってても狩人としての知恵はあるみたいだな」
「そうみたいですね」
「ところで、そんなのがバレるきっかけになったのは何だったの?」
「ミットライトは聞いてないのか。あの喫茶店での一件だよ。飛んできて店を壊した不具合存在がいただろ? あいつがそのお仲間だったらしい」
「へえ、知らなかった」
喫茶店での一件。僕が赤毛ロリとお茶していた時、突如としてどこからともなく飛んできたそいつは店に大きな穴をあけた。衝撃やら何やらで店内を滅茶苦茶にした挙句、自分は情報瓦解して消えていったというはた迷惑な奴。
そいつのせいで僕はオラクルとかいう胡散臭い覗き魔と会うことになり、半ば脅迫されて今の立場にあるのだ。
「あの気持ち悪いディテールは当時のトラウマ第一位だったな。今思い返しても意味不明で震えてくる」
「あら、それにしては驚いてなかったけど?」
「理解力を軽く超えてて頭が恐怖についてこなかったんだ。当時はほんとに現実味が無くてぽかんとしてたっていうか……超辛い物を食べたときの感覚と同じでさ、キツすぎて後からドンと来てるっていうか」
――伝えあぐねていると、玄関ベルが鳴った。
「来たみたいですね。出迎えてきます」
律儀なもんだ。僕もちゃんとベルを鳴らしていたら出迎えてもらえたのだろう。
おのれ赤毛ロリ。
「なんか文句言いたそうね」
「そう見える?」
「ええ。『僕もベル鳴らしてれば、ロイエに出迎えられて付き合ってる彼女の部屋に遊びに来た彼氏の気分を味わえたかもしれないのに。ちくしょう、この赤毛ロリのなりすまし連絡さえ無ければ』とでも思ってるんでしょ」
「僕ってそんなに顔に出てるの?」
「ムッツリよね、あんた」
「それはもう否定しないよ。ムッツリっていうより純情でシャイなんだと思うけどね。……ところで、僕ってそんなに顔に出てるの?」
そんなこんなしていると、ロイエが客を連れて入ってきた。
「どうぞこちらへ。コーヒー淹れてありますから、よかったら」
「ああいや、お構いなく。でもすごい広いんだね~、掃除が大変そうだよ」
白金に似た長いプラチナブロンドが歩みに合わせて揺れ動く。自然且つ中途半端な波がかかった髪は軽く巻かれた渦が癖毛の類であることを示していた。
決して派手ではないが上品そうな服装だ。細身であるが、ロイエやミットライトと違って女性らしく強調されたカーブに視線が惹きつけられる。
「慣れればそうでもないんですよ」
と、ロイエは当たり前のように謙遜する。しかしながら確かにこの広さは掃除が大変だ。
実際、僕の部屋は所々散らかっているし、隅々まで気が張られているような彼女の部屋は称賛に価するだろう。
「ではアナトリさん、ミットライト、紹介しますね。こちらはブリーゼ。例の、新興宗教に嵌ってしまった姉について相談してきた私の知人です」
ロイエが紹介すると、ブリーゼはぺこりと軽く頭を下げた。
「ブリーゼです。初めまして今日はよろしくお願いします」
「こちらこそどうも初めまして。私がミットライトで、こっちの生意気そうなのがアナトリ」
ミットライトは優しい口調で自己紹介し、そのまま辛辣に僕を紹介した。
「生意気とか初対面の人に向かって言うなって。――どうも、アナトリです。よろし―――」
簡単な自己紹介を言い終わる直前で、僕はその言葉を失った。
「――ん?」
「――え?」
困惑の声がお互いの側にあがる。
「「――――あっ」」
代わりに出てきたのは、共鳴する素っ頓狂な驚嘆。
「あ――――っ!!」
そして色んな感情の混じったブリーゼの吃驚と悲鳴の叫びが響く。
彼女は僕を指差す。一瞬で互いに互いが誰なのか確信した。
「あのとき私を一人置き去りにした男じゃない!!」
「あ~~~~……」
目を逸らす。
やばい。
非常~にまずい。最悪な第一印象と最悪なタイミングの暴露じゃないか。
ぐるぐると目が回る気がした。思考がフルスロットルで回転し、最もクオリティの高い言い訳を検索する――が、都合よくそんな言葉は思いつかない。
これも因果応報ってやつなのか……ちくしょう、しかし因果の集束が早すぎるんじゃないのか! これもなんたら石の扉の選択とでもいうのか!
「幻滅です」
「流石ね」
こいつら……! 『事情がよくわかってないからとりあえず女の敵を見る様な顔しとこ』みたいな魂胆は見え見えだからな……!!
しかし……とにかくここは謝っておこう。
二人はともかくブリーゼに対しては罪悪感がある。
「言い訳は致しません。反省していますので、もう煮るなり焼くなり揚げるなり好きにしてください」
座った状態で丁重に謝るとなれば、必然的に土下座になってしまうが、それは誠意の表れだと思ってもらおう。決して軽い謝罪ではないと態度で示すのだ。
現に、僕はあのときのことを後悔している。
「うっ」
絶対零度が突き刺さる。
見なくてもわかるほどに氷のような視線を肌に感じている。うち二人がただ空気を合わせているだけのふりとはいえ、三人の威圧感に勝てるわけないだろ。
仮に目を合わせようものなら罪悪感で心が凍る気がするぞ。
「あの時は……その、すみませんでした」
後悔先に立たず。
謝ったところで、時既に遅しであった。