5『確信の刷り込み』
「暇ね」
「暇だな」
「暇ですね」
昼過ぎ。頂点にまで達した太陽に照らされ、外に漂う秋冷は淡い寒気を少しだけ薄めている。季節の変わり目というのは常に前後どちらの空気感をも持ちながら、日を経るごとにその都度一日の雰囲気を変遷させるが、今日は特に冬の成分が多い。時折聞こえる秋声が末枯れつつある景色と秋晴れの澄んだ空気感を強調させ、暮れをより一層感じさせていた。
コンビニで買ってきた適当なものを食べた後、僕らは各々で適当に時間を潰すことにしていた。ミットライトは大きめのビーズクッションに埋まるようにもたれ、だらしない格好でバラエティ番組を眺めている。ロイエもミットライトの太ももを枕にして文庫本を読んだりスマホを弄ったりしていた。
とにかく暇だった。
「明日にはわかる」と言われたまではいいが、なぜかこのままロイエの部屋に泊まることになり――泊まりの用意はミットライトが勝手に僕の分の着替えまで持ってきていたようだ――かと言って部屋に時間を潰せるゲームの類はない。あるのは数冊のむつかしそうな小説と新しめのテレビ、それとノートPCが一つあるのみだ。
「趣味はないのか」と聞けば「読書ですが、何か?」と返されそうだと思ったし、実際そう聞いたら予想通りの返答が返ってきた。
「読書はいいですよアナトリさん。物語を通して先人たちの知見に触れている気がしますからね」
「そうよアナトリ。あんたはもっと本を読むべきよ」
「いやな、気持ちはわかるんだが――なんだ?」
「――ん」
ミットライトはそう言って寝そべったまま適当な文庫本を掴み、その手をこちらに伸ばしてくる。
僕はソファに座りながら目一杯手を伸ばし、しぶしぶとそれを受け取った。表紙を見るとやけに胸のあたりが開けた衣装を身に纏い、これでもかと女性的な曲線を強調させた色白な少女が、これといって特徴のない容姿の少年と手を取り合いポーズをとっていた。
「ロイエってわりとこういうのが好きなのか?」
というより、どこにあったんだこれ。
ミットライトの奥で黙々とページを捲っていたロイエが、ページから視線を離すことなく淡々と答えた。
「別段これと言って特に好きというわけではないですが、嫌いというわけでもないです。私自身ミーハー気質な所もありまして、広いジャンルを浅く嗜むことにしているんです」
「へえ、意外だな」
ぴくり、と少しだけ反応し、彼女は此方に目線を移した。
「意外ですか?」
「ああ、いや悪い意味じゃなくてね。第一印象ではもっとこう、読むならむつかしそうな哲学書とか歴史ある純文学みたいなものをしこたま読んでるのかと勝手に思ってたよ」
再び活字へ視線を戻す。
「そういうのもありますよ、一応。ただ、内容をしっかり理解できているかと言うなら、必ずしもそうであるとは限りませんけどね。所謂にわか、ってやつですよ」
ロイエは薄く微笑んだように見えた。
「にわかで結構じゃない。とりあえず読んだことがあるのと開いたこともないのとでは雲泥の差があるってものよ」
「お、たまにはいいこと言うじゃないか」
「でしょ。私はそういうの読んだことないけど」
「ないのかよ」
「お貸ししましょうか?」
「借りても読む気ないわよ」
「ないのかよ」
「眠くなるじゃない。活字」
「まあ確かに一ページ目からダウンしそうではある」
ぼーっと眺めている分には、いい睡眠薬にはなりそうだ。
「となると、やっぱり僕にはこういう軽めのジャンルが性に合ってそうだ」
そうして先ほどミットライトから受け取っていた小説を手に取り、テレビとは反対側のソファに座って読んでみることにした。
今流行りのジャンルのようだが、こう言う類の話は舞台が変わっても大まかなストーリーは大体同じだ。
冴えない少年だか青年だかが勇者になり、悪を打ち倒す――のだが、やはり書籍化して売れているだけあって、一捻りも二捻りもした内容になっているようだ。
「ありきたりな話に見えますけど、読み進めていけば案外面白くなってきますよ」とはロイエの談。その通りだった。思いのほか読めるな、これは。
しかしどうにも内容が難解だ。活字を追うごとに睡魔が寄ってくる。
とはいえこのまま寝てしまうと、先日の喫茶店での経験のような出来事に襲われるような予感がして、そんな得も言われぬ不安が頭に渦巻いていた。……が、結局疲れていたせいか、眺めているうちにいつの間にか眠ってしまっていたようだった。
我ながら集中力の無さには悲しくなってくる。
眠った結果、魘されてしまったのは言うまでもない。
昨日の夜もそうだが、この魘され方は普通ではない。何せ、魘されている間はどうやっても起きることができないのだ。
普段、明晰夢を特技としている僕であれば、悪夢など恐るるに足らない。夢を思い通りにできてしまう輩には基本的に魘されることはなく、もし仮に魘されるような悪夢を見たとしても無理やりに目覚めることすら可能であるのだ。
そんな僕でさえ脱出不可能な悪夢となると、流石に恐怖を覚えるものだ。久しく忘れていた種類の恐怖だ。自分の無意識下で生み出した恐怖存在というのは、当人の潜在意識へ直接恐怖感情を浮かばせる。それ故、姿かたちが不明瞭だったりシチュエーションが支離滅裂で意味不明であったにしろ、構わず恐れ戦慄してしまう。加えてそこからは自分の意志では抜け出せないという状況となれば最悪だ。
結論から言えば、真っ暗闇で何も見えない中ロードローラーか何かに轢かれるのを、何かに強烈に押さえつけられながら眺めている夢を延々と見せられ続けていた。
そんな苦痛を長々と味わったせいで、全身に大きな倦怠感や寒気を感じた。嫌な汗が背中や額に滲み、鼓動は大きく速くなっている。――そんな中、僕は何とか体を起こし頭を振って意識を覚醒させた。
悪夢に恐怖したのは久方ぶりだ。
言うまでもなく、最悪の気分というやつだ。
思考と視界が次第に鮮明になっていく。
部屋はそれほど暗くなってはいなかった。となると、時間もさして経っていないのかもしれない。
顔を上げると、クッションに埋もれるように寝ているミットライト、そして変わらず文庫本を読みふけっているロイエが目に入る。よくまあ眠くならないものだ。
今は何時だろうか。そう思ってポケットからスマホを取り出し、画面を付け――ようとして、僕はスマホを落としてしまった。手が痺れているように言うことを聞かなかった。変な寝方をしてしまったのだろうか。
そうしているうちに、ふと以前喫茶店で『不具合存在』を見たときの、あの『思考に靄がかかっているような』感覚を覚えた。
「…………?」
しばらく硬直してようやく、状況を頭が理解し始める。
頭痛。
刹那的に頭痛が走り、視界が大きく歪む。同時に、圧倒的な感覚の奔流が僕を襲った。
違和感。感じているのは違和感だった。
気づいたとき、思考の靄は意識が覚醒するにつれ鮮明になっていたはずの視界全体に広がっていたのだ。
まるでそこが暗闇であるかのように目に映るものすべてを暗い靄が覆いつくし、禍々しさを纏いうごめいている。
眼を見開いているのに、先ほどまでは何も変わりなく見えていたのに、今は何一つ見えていない。自分がソファに座っているという感覚が次第に薄くなっているのが分かった。
自分が、自分を除くほかのすべてから切り取られつつあるような、わけのわからない孤独感が歩み寄る。そうしていつしか静寂と共に僕を抱擁した。
そこにあるのは生半可な不安ではなく、圧倒的な恐怖だった。より深く、より根源的に根を延ばした、ざらついた不快感をも伴っている。
暗闇と無音が支配する亜空間のなかで、僕はただ必死に目を見開こうとしている。
必死に見開いた目で、ただ暗闇を眺めていた。
暫くして靄は晴れた。じんわりと視界は再び光を取り戻していったのだが、しかし視界に映る景色への違和感、根源的な恐怖は消えることがなかった。
しかしどこに違和を感じているのか自分でも理解できなかった。あまりにもおおざっぱで無責任に感情が自己主張を繰り返している。
〝ここは現実ではない〟――そんな根拠のない確信が自分のなかに存在していた。
現実を生きているという実感を消し去ってしまうような圧倒的で、しかし全く根拠のない確信。まるで食べたことのない野菜を苦いと決めつけて食べようとしない子供のように、何処か本能的に自分自身が自分自身の現実感を否定している。
では何だ? 此処は、今見ているこの光景は一体何だと言うのだ?
再び視界が大きく歪んだ。
氾濫した河川の濁流のように押し寄せる混沌とした感覚は、以前目にした不具合存在の造形を明瞭に思い浮かばせた。剥き出しの筋肉をでたらめにくっつけたような肉塊に乱雑に機械の腕や機器が突き刺さり、そこに常人の足を生やしたような異形の徒。より明確により正確に、その姿を想起していた。
それに対して抱いたのはあの時のような漠然とした気味の悪さなどではない。決定的な嫌悪感、絶対的な不快感だ。
視界が歪む。歪む。歪む。
歪み切って。また歪む。
情報の塊。視界全てが情報に溶ける。
もはや目で見てなどいなかった。
0と1が織りなす平面的な情報。青白く光る粒子が二次元的に満たされ、それが幾多にも連なり、三次元的に世界を模しているのが見える。
鼻血が流れる。涎が垂れる。汗が噴き出す。涙が零れる。
「……は…………」
声が聞こえる。力なく震えている。誰の声だ。これは誰の声だ。
頭に響くこの声は。いったい誰が発している。
「あ……ああ……」
違う。誰の声でもない。
「……世界は……」
これは、僕自身の声だ。
「…ここは……」
呆然と、虚空を眺めながら垂れ流すように言葉を発した。
さながら、凌辱されて捨てられた女騎士のような放心状態だった。
今まで根拠なく持ち続けていた現実感に対する確信を容易く打ち砕く、暴力的なまでの違和感、そしてそれに伴う懐疑心。
――『しかしながら、私たちのように『不具合』を認識し理解した人間は、皆一様にある感覚を得ています。そのお陰で、私たちはここが現実ではないと〝わかる〟んです』。
――『そうして世界に懐疑的になる決定的な情報さえ得られれば、あとは世界が勝手に背中を押すの。〝この世界は幻想だ〟~ってね』。
頭の中で彼女たちの言葉が反芻される。
――僕が観ているのは本当に現実なのか?
――僕が座っているこのソファは実在しているのか?
――僕の手は、足は、本当に実在しているのか?
見えている世界が走馬灯ではない保証はどこにある? 本当の僕は昏睡状態にあって、たった今死を目前にして自分の人生を走馬灯に見ているだけではないとどうして言える?
自分の五感に拭い難い不信感が芽生える。視界が歪み、冷汗が垂れ、動機が早くなる。先日僕の身に起きた魘され方のような、ただただ壊滅的な恐怖を、はっきりした意識のもとに感じていた。
これは悪夢の続きなのだろうか?
違う。自己の精神の中に造られた虚像を見て恐怖しているのではない。僕の中に存在している現実感が、ほかのすべてに対して反抗している。
現実遊離感。
現実遊離感、というやつだ。
実像だと思っていたものすべてを虚像だったと決めつける様に、自意識が感覚そのものを否定し自らの実存を脅かしている。
自らの存在だけではない。自身を取り巻く存在全ての実存への懐疑。その感覚を裏付ける根拠などどこにも見当たらない。しかし圧倒的な現実遊離の感情と感覚は理屈の不備などに臆することは決してない。困惑と焦燥に満ちて身動きが取れずにいるこの瞬間にも、世界に対する確信が僕の常識をじっくりと塗りつぶしている。
今まで持ち得ていた常識的な確信を、いとも容易く瓦解させる新たな確信。
証明するものがなくとも、感情が思考を停止させるのだ。
証明する理屈がなくとも、今まさに視覚聴覚あらゆる感覚で感じているこの違和感こそが、確かに真実というものを雄弁に告げている。
『模倣された現実』。
ミットライトはそう言っていた。
あの時はとりあえず信じることにしていた。そのほうが興味深いはずであるし、まず僕が信じている仮定で話を進めるほうが円滑に話は進むと思ったからだ。
内心は半信半疑だった。ただ自分の観たモノとそれに対する情報にはある程度素直に受け入れることにしただけだ。彼女たちの現実への決定的な懐疑心には些か疑念を持っていた。
現実そのものを否定するのには判断材料が少なすぎたのだ。
『真に現実か否か』を判断するには第三者として見ることが必要だ。つまり、『この人物は今どの場所にいるのか』ということは箱庭の中にいる人物には判断のしようがない。その人には箱庭の中こそが世界そのものなのだ。
あるマッドサイエンティストは人工的な宇宙を生み出し、そこを自分の実験道具として扱い非道な行為をしていた――という話がある。その話中で人工宇宙の中にいた存在達というのは、身の回りに起きる大災害や理不尽で不条理な破壊といったそのものが恣意的なものであったとは知り得なかったはずだ。『その世界』に住む者には、それが自然の出来事に思うほかない。つまり人間とは本来から、その経験、および感覚にあらわれる内容・現象を越えることは知ることができず、加えて本質的な存在については認識不可能であるはずなのだ。
――だが今は違う。
彼女たちがそう確信していたように、僕はある一つの感覚を享受している。
半信半疑だった懐疑心は、決定的な確信へと変容した。
「さて――」
僕の声ではない。
かと言って、ロイエやミットライトの声でもない。
男性とも女性ともとれない、同時にどちらの声でもあるような雑音混じりの不明瞭な声が語り掛ける。母性に似た優しさと、父性のような厳格さがこもった声音。忠臣のような誠実さを感じさせながらも、一方で詐欺師のようなうさん臭さをも重ね合わせて感じられる。
まるで、どう聞こえるかをこちらに委ねているかのような、乱雑で混沌とした音声だ。
「――ようこそ、こちら側へ」
そうして再び、僕の意識は微睡みに沈んだ。
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