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「おはよう。ブリーゼ」
聴き慣れない声だが、聞き覚えの無い声ではない。
「んっ……おはよ。アナトリ……さん、うーん……」
眠気混じりの声を隠す気などない。「ふわぁ」などと情けないあくびをしながら体を伸ばし、脳を起こす。
「今、何時ですか」
「えーと、九時頃かな。よく眠れた?」
「嫌味で言ってるんですか」
いつしかベッドに運ばれている辺り、魘されていたことは知っているはずだろう。
「いやいや、そんなことないって」
「変なことしてないですよね」
「してない。断じてしてないする気もない。ベッドに運ぶ時なんかロイエとミットライトの二人の監視付きだったし、どんだけ信用無いのよ、僕。流石に悲しくなるよ」
アナトリが「はあ」と溜息をつく。
――と、仄かなコーヒーの香りがした。
「ほんと好きですよね、コーヒー」
「え? ああ、まあね」
「飽きないんですか」
彼は、不思議とね、などと言って微笑んだ。
「ところで、なんで敬語なの? 最初はバンバンタメ語つかってたのに」
「よくよく考えてみたらアナトリさんって年上だと思って」
それもあるが、本当は寝ぼけて咄嗟に敬語を使ってしまったからだ。
そうして使った後で「そういや年上か」などと悟り、下手にタメ口を利くわけにもいかなくなってしまった。
それがなんとなく気まずかったのだ。
「いやいや、今更いいよ。気にしないから」
――――が、こう返されるとなんとなく直感して言ったのは、
「――――うん」
少しばかりズルかったかもしれないと思った。
*
「他の人たちは?」
「ロイエは学校、ちなみに僕はサボり。赤ロリなら――――」
ソファを指差す。
「――そこで寝てる」
ミットライトは毛布にくるまってぐっすりと寝ている。というか先ほど眠りについたばかりだった。
こうして丸まっているのを見ると、その身体の小ささがよくわかるほどに彼女は小柄だ。彼女は二十代を自称しているが、その言葉を心の底から信じている輩が何人いるかはわからない。実際僕ですら、振る舞いなどから多少そう思えなくもない、としているだけだ。
それほどに彼女の少女体型――というよりは、少女の身体そのものとすら見えるそれは、もはや可憐さを通り越してどこか恐ろしさすら感じられる。
本人に言う気はさらさらないが。
そんなミットライトも、昨晩は魘されているブリーゼの容態をロイエと交代で一晩看ていたのだ。しかしながら、やはりヒトの睡魔は強力である。
つい先ほど、時刻にして八時少し前あたりで「いやもう無理、限界」などと言って横になったかと思えば、五分も経たないうちに寝入ってしまっていた。
ロイエも既に登校してしまっていたため、やむなく役目を自分が引き継ぎ、なんやかんやで今に至るというわけだ。
「後でひとこと言っておきなよ。一応一晩看てもらってたんだから」
一応、などと言葉を濁しているのは他でもない、一晩魘される原因を作ったのは僕たちにあるからだ。
……あれ? これマッチポンプと言われても仕方がないんじゃないか?
ついさっきまでは「面倒見いいな」なんて呑気に思っていたけれども、なかなかえげつない押し売りだったように思えてきたぞ。
「……そうする」
もしやとは思うが、ロイエと赤ロリは戦力増強程度にしか思っていないのではなかろうか。下手をすると、ロイエはブリーゼが姉のことを相談したときから彼女を引き込むつもりでいたのかもしれない。
そんな心配は露も知らぬであろうブリーゼ。彼女はふらりとベッドから立ち上がると、唸りながらもう一度大きく体を伸ばしていた。
汗を掻くから、などと上着を脱がされていた為か、結構な薄着。そうなると、ロイエやミットライトとは一線を画する女性的なカーブが否が応にも強調される。思わず目が惹きつけられそうになり、僕は恥ずかしく――いや、申し訳なくなってさりげなく視線を逸らした。
「…………」
「………………何?」
「……いや、まあその、コーヒー飲む?」
「ああ、うん飲む……けど、先にシャワー貸りていい? かなり汗ベトベトでキツいから」
「ああ、そっか。ごゆっくり」
「覗かないでよ」
「それは逆説的に覗いてくれと言っているのか?」
「うわキッッッッモ! 勘弁して」
ワオ! 辛辣ゥ!
「冗談だって……。ああそれと、ロイエが適当に部屋着使っていいってさ。一緒に洗っていいなら服、洗濯機入れといてくれれば回しとくよ――――あのさ、悪かったよ。ほんと。冗談でももう言わないから。だからそんな目で僕を見るなって。変なことしないって流石に」
「……はあ、わかった。ありがと」
「ああ」
そそくさと脱衣所に向かうプラチナブロンドを眺めながら、先ほど淹れたばかりのコーヒーを啜る。
淹れた、などと言っては啜りながらに少しばかり通ぶった顔をしてみるものの、始終を通してやったことをざっくり言えば『丁寧にお湯を注いだ』だけだ。
どうお湯を注ぐか、といった要素だけでもコーヒーの味、ひいては香りの出方は大きく変化する。
どれだけいい豆を使ったところで、例えばミットライトのようなしっかりと香りを立たせた味わい深いコーヒーを出すには少しコツがいる。その点僕には、そういった心得は無いに等しく、僕の淹れたものは恐らく『インスタントコーヒーよりは少しいい』程度でしかないだろう。我ながら、通ぶってうんちくやらなんやら講釈垂れるわりに、自分では理想とする味が生み出せないのがもどかしいところだ。
しかしながら、飲んでいる最中にそれを考えるのは無粋というものではないだろうか。
ここは折角淹れたコーヒーをそれらしく、それっぽさを取り繕って適度に気取りながら飲んでみようではないか。
ずずっ。ウーン潤滑油。オスマン帝国の風を感じる。ガタガタ言い始めた機械の隅々に油をさしていくような……と何を言っているのか自分でもよくわからないが、とにかくこうしてみるとこだわりのある淹れ方をした後のような気分になる。哲学者か何かにでもなったような気分だ。至福。
――くだらないことを考えながら、鼻孔をくすぐるふわりとした香りに何処か寂しさに似た感覚を覚えていた。
「あの喫茶店がなくなってもう一年か……」
ぽつりと。気づけばそんなことを口にしている。
*