cc4_b 幕間
*
頭が痛い。吐き気がする。
べとついた感覚が氾濫した川の濁流のように通り過ぎ、体が浮いているかのような不快感を味わってから、どれほど時間が経ったのだろうか。
夢を見ているような気がして初めて、それが少しばかり楽になったことに気付いた。
「ここは――――」
地下駐車場。例の夜、自分が居たその場所に、呆然と立ち尽くしている。
暗く彩度の低い空間は蛍光灯の明かりに照らされ、その無機質さを露にしていた。
あの時以上に、そこには何もない。
数台停まっていたはずの車がなくなっており、だだっ広い空間が閑寂に広がるのみだ。
夢の中のようなのに、随分と意識がはっきりしているように思う。
――否、現実ではないことを認識しているように思える、というほうが正しいだろうか。
ブリーゼは状況を整理する。
確かロイエの部屋で、お伽噺のような現実味の無い話を聞いていたはずだ。アナトリと出会った夜のことを何とか思い出し、コーヒーを飲みながら世界や不具合についての話を疑い半分で聞いていたところ、猛烈な眠気が襲ってきたのだった。
そうして気づけば此処だ。
思えば、眠り薬の類がコーヒーに混ざっていたのかもしれない――――いや、それは考え過ぎだろうか。
「――ようこそ、外部へ」
「――――っ!」
急に背後から掛けられた声に、思わず鼓動がびくりと跳ねる。
静寂が解かれたのもあるが、彼女を驚かせたのはその声の主を知っていたからだ。
「――――お姉ちゃん……?」
恐る恐る振り返る。先ほどまでは無かったはずの白いガーデンテーブルのようなものがいつの間にやら置かれ、そこに手を組んで一人の女性が座っていた。
女性の姿はどこからどう見ても自身の姉、フェオンにしか見えない。ヘンな宗教組織に通うようになる前のような穏やかな姿を見せているのが、どことなく懐かしくも感じられる。
自分と同じ白金色の髪をさらりと垂らした、上品な面持ちの女性。
大人びた表情を浮かべた彼女は、座っている状態でもわかるほどの女性的な体躯をしている。しかしそれを絶妙に主張し過ぎないよう、どことなく清楚らしさを纏っているのだ。
これが品性というやつなのだろうか。自分が持つ武器を安売りしないその在り方は、歳はさほど変わらないはずなのに、自らとの差を明白にしていた。
「なんで、どうしてこんなとこ……」
言いかけたところで、『ちょっと待て』と視線を逸らす。
何かが変だ、そう直感が囁いていた。
その直感は恐らく正解だったのだろう。目の前で悠然と佇む姉の姿をした誰か――否、何かは、困ったように笑って見せた。
「ごめんなさい。あなたの姉の姿をしているかもしれないけれど……。私はあなたの姉とは別人です」
「――――」
直後、ブリーゼは言葉を失った。
対した理由でもない。上品だが色気のある仕草、ゆったりとした喋り方。
――ただ単純に何から何までが、目の前にいる人物は自身の知っている姉そのものだったのだ。
ただ本物ではないと思える決定的な違いはある。
それはやはりその在り方そのものだ。
現実でのフェオンは既に宗教組織に心酔し、何処か虚ろになってすらいるのだ。
しかしながら眼前に居るそいつはそうなる前の姉のそれ。慈愛に満ちた表情に、影の気配は欠片もない。
彼女は、自分が憧れていた頃の姉そのものを表していたのだ。
ブリーゼは俯くと、額を軽く抑えた。
「――――気持ち悪い」
「――何故?」
「……あなたを見てると、死んだ人の幽霊を見ている気分になるの」
そいつは首を傾げる。
「私が知る限りでは、フェオンはまだ死んではいないはずだと思うけれど」
「私の中ではもうあなたは死んでいるの」
そういうとそいつは「わあ」などと言って楽しそうに両手を合わせた。
「『私の中では死んでいる』なんて、社会的生物にふさわしい、面白い表現ね。
一定の社会からあまりに逸脱し関係修復が困難になった個人と親しい関係にあった別の個人は、精神内でそれに擬似的な死を迎えさせることでその未練を断とうとする……。
――なるほど、あなたはそういう現実的な建前を持ちながら、それとは反対の本音をもっているあたり…………いわゆる、天邪鬼……いや、ツンデレってやつなのかな」
「なっ――――!? 私が!?」
「ええ」
「今の話からなんでそうなるの!?」
「だってあなた、『もう死んだ』なんて突き放すように言っておきながら、もしフェオンが戻ってきたらちゃんと話を聞いて関係の修復に精を出すつもりなんでしょう?」
「っ、何を根拠に」
「根拠? そうね。強いて言うなら、私の姿かしら」
「何、それ。わけわかんないんだけど」
「『私』には、対面している相手が真剣に話を聞いてくれるであろう人物を模倣する性質があるの。私の姿があなたの姉の姿である以上、あなたはまだ姉を信じているということ。すべて元通りと言わなくても、それに近しい状態にはなると信じている」
目の前の人物が言うことは、いちいち要領を得ない言い回しが多い。が、断言される事柄には思い当たる点はいくらかあるようにも思えた。
「でもそれ、言ったら意味なくなっちゃうんじゃないの?」
「そうでもないわよ。どのみちいつかは気づくことだし、いずれは明かしてしまうことだもの」
口調が少しだけ軽くなってからも、纏う雰囲気は確かにフェオンのものだった。
そのあたりはもう、諦めて慣れてしまうほうが建設的かもしれない。
「ところで、座ったらどう? 聞きたいことがあれば聞いてくれていいし、私も説明役として伝えることがいくらかあるから、それなりに長話になるとは思うけど」
「はぁ。ま、そうする」
色々疑問はあるが、ともかく座ってからにするとしよう。
「じゃあ、まずひとついい?」
座りながらに尋ねる。
「ええ、どうぞ」
「あなたは結局のところ誰なの? なんて呼べばいい? フェオンだとか姉だとか、そんなふうには呼びたくない」
そう聞くと、説明役は嬉しそうに微笑んだ。
「そうね――――じゃあ『神託』とでも、呼んでくれないかしら」
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